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「海の帝国琉球-八重山・宮古・奄美からみた中世-」(企画展示室) 「東アジアを駆け抜けた身体からだ ―スポーツの近代―」(企画展示室)

特集展示「海の帝国琉球-八重山・宮古・奄美からみた中世-」

開催概要

開催期間 2021年3月16日(火)~5月9日(日)
※展示替えあり
 前期展示:3月16日(火)~4月11日(日)
 後期展示:4月13日(火)~5月9日(日)
会場 国立歴史民俗博物館 企画展示室A
料金

一般:600円 / 大学生:250円
※総合展示もあわせてご覧になれます。
※高校生以下は入館料無料です。
※高校生及び大学生の方は、学生証等を提示してください。(専門学校生など高校生及び大学生に相当する生徒、学生も同様です)
※障がい者手帳等保持者は手帳提示により、介助者と共に入館が無料です。
※半券の提示で当日に限りくらしの植物苑にご入場できます。

開館時間 9時30分~17時00分(入館は16時30分まで)
※開館日・開館時間を変更する場合があります。
休館日 毎週月曜日(5月3日(月・祝)は開館し、5月6日(木)休館)
主催 大学共同利用機関法人人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館
展示協力 沖縄県立博物館・美術館

 

YouTube動画再生リスト

開催趣旨

コロンブスやマゼランが開いた世界史上の大航海時代より以前、早くも14世紀代から東アジア海域世界では活発な交易がおこなわれていました。その中心となったのが海洋国家・琉球です。琉球王国の輝ける時代は、これまでもしばしば紹介されてきました。ただ、琉球はその活動の過程で、言語も習俗も異なる周辺の島々、八重山・宮古・奄美に侵攻し、それぞれの社会を大きく変化させたこと、このことで現在の日本国の国境が定まっていることは、あまり知られていません。

文献資料がほとんど残っていないこれらの地域の歴史は、琉球王国によって作られた歴史書をもとに語られてきました。しかし島々を歩くと、ジャングルの中には当時の村が遺跡として眠っており、そこからは大量の陶磁器が発見されます。琉球王国とは別の世界が、そこには確かにあったのです。

これまでほとんど注目されてこなかった琉球の帝国的側面に視点を据え、八重山・宮古や奄美といった周辺地域から琉球を捉え直します。国立歴史民俗博物館では、2015年からこうした共同研究を実施してきました。この展示は、その成果を公開するものです。たくさんの青磁や白磁、国宝の文書や重要文化財の梵鐘、屏風や絵図など400点を超える資料から、新たな歴史像を示します。

広報画像①-1 首里那覇港図屏風 19世紀 沖縄県立博物館・美術館蔵

18-19世紀に琉球で多数作製された「首里那覇鳥瞰図」の一つ。左下の港町那覇のにぎわいから、右上の首里城を
中心とする城下町の様子まで、空間を極端に湾曲させて俯瞰的に描く。突堤状の先端にある御物城(おものぐすく)や、
岬の突端にある波之上宮、首里城や守礼門など、現在に残るスポットも細かく描かれている。
また、港には中国から戻った進貢船(琉球船)のほかに薩摩の船も見られる。

 

本展のみどころ

  • 沖縄本島や離島で見つかった青磁や白磁がずらり
    中国産の青磁や白磁というと高級な調度品がある一方で、東アジア世界一帯で交易されたほとんどは、日常生活で使う碗や皿です。南の島々でもそれらが大量に見つかっており、豊かな生活がうかがえます。沖縄本島だけでなく、与那国島、西表島、波照間島、黒島、竹富島、石垣島、宮古島、喜界島で見つかった青磁や白磁を一堂に会します。
  • 琉球と諸外国との関係を示す絵画資料
    琉球と中国の間を行き来した船は、近世の絵画に登場します。琉球船と中国船を大きく描いた「冊封使船送迎之図」(国立歴史民俗博物館蔵)や、「首里那覇港図屏風」(沖縄県立博物館・美術館蔵、展示期間:4月20日~5月9日)などでその特徴を確かめてみてください。また、中世に日本、朝鮮、ヨーロッパで作られた地図からは、島々に対する関心の違いが読み取れます。
  • 8点の国宝の文書を展示(漢字とひらがなが混じった独特の文書も!)
    東京大学史料編纂所所蔵の島津家文書(国宝)には、琉球や島々に関わる文書が含まれています。漢字とひらがなが混じった文書や、独特の朱印などをご覧ください。展示替えをしながら8点の国宝文書を展示します。

展示替えスケジュール

展示の構成

Ⅰ. 描かれた琉球

海のかなたに存在するという琉球。正確な位置情報がなかった14世紀、鎌倉時代の日本地図には、片隅に「りうきう」と記された島が描かれる程度でした。

15世紀になって博多商人が朝鮮・日本・琉球を行き来するようになると、航路を記した、より正確な絵図が登場します。九州島と沖縄島の間の、トカラ列島や奄美諸島はかなり詳しく描かれています(広報画像②)。しかし、そこから先の宮古・八重山は登場しません。

16世紀になるとポルトガル人がインドのゴアを拠点にして、マラッカ、マカオと東アジアの海に進出してきます。そこで彼らは「レキオス」すなわち琉球を知るのです。その知識はヨーロッパにもたらされ、世界地図に琉球が登場することになります。台湾と琉球の間に無数に描かれた島々は、おそらく八重山や宮古の諸島でしょう(広報画像③)。これらの島々は、南の世界に開かれていたのです。

「描かれた琉球」YouTube動画

「描かれた琉球」ギャラリー討論 YouTube動画

広報画像② 琉球国図 
1696年 沖縄県立博物館・美術館蔵

筑前黒田藩士竹森道悦が太宰府天満宮に奉納した地図。1453年に博多商人道安が朝鮮に献上した地図と同系統で、中世の琉球周辺の情報が盛り込まれている。博多から琉球に至る経路と途中の島々が詳細に描かれており、博多と琉球を行き来した商人の知識が反映されている。

広報画像③ オルテリウス アジア図 
1575年  国立歴史民俗博物館蔵

オランダの地理学者であるオルテリウスが制作した世界地図で、広く流布した。中央やや右上に描かれた日本の南西に伸びる島々には“Lequio maior”(大琉球)、“Lequio minor”(小琉球)と記され、琉球と台湾とわかる。その間の島々は八重山・宮古と思われるが、“Fermosa”(台湾)とも書かれており、情報の錯綜が窺える。

 

Ⅱ. 八重山・宮古の時代:八重山の集落/宮古の集落

沖縄本島からずっと南のかなた。石垣島や西表島などからなる八重山や、宮古島を中心とした地域には、沖縄本島には存在しない石囲いの集落がありました。そこからは中国産の青磁や白磁が大量に見つかります(広報画像④)。中国と独自に交易をしていた島々の世界が存在したのです。木材や布がかれらの交易品だったのでしょう。

沖縄本島を統一した琉球が力をつけると、宮古そして八重山へと侵攻してきます(広報画像⑤)。文字記録がほとんど残っていないこれらの地域の歴史は、侵略者・琉球が編纂した歴史書を根拠に語られてきました。しかし集落遺跡や陶磁器という考古資料から、琉球帝国の侵略により八重山・宮古の社会が改変された様子がわかってきました。島々の多くの陶磁器から、その様子を生々しく伝えます。

「八重山・宮古の時代:八重山の集落/宮古の集落」YouTube動画

「八重山・宮古の時代:八重山の集落/宮古の集落」ギャラリー討論 YouTube動画

広報画像④ 西表島古見(こみ)遺跡採集陶磁器 13~16世紀 個人蔵

八重山・宮古の集落からは、中国産の陶磁器が大量に見つかる。沖縄本島からはあまり見つからないタイプも含まれており、中国福建地域から直接持ち込まれたものも多いと考えられ、八重山・宮古地域が独立した文化圏であったことを示す。西表島南東部の古見には、集落の近くに八重山有数の港があった。

広報画像⑤ オヤケアカハチ像 石垣市大浜所在
※展示はパネルのみ

石垣市大浜地区に立つ、地元の英雄・オヤケアカハチの銅像。八重山地域に覇を唱え、琉球王府に抵抗したが、1500年に戦艦百隻を率いた王府軍に攻められ敗死した。それ以降、八重山の多くの集落遺跡が廃墟と化したようで、琉球帝国の支配が本格化したと考えられる。

 

Ⅲ. 境界領域としての奄美:奄美の集落/北からみた奄美

平安時代から鎌倉時代の日本は、螺鈿の材料である夜光貝など南方の産物を求めて、九州より南の地域に進出しようとしました(広報画像⑥)。南九州に所領をもつ鎌倉御家人の千竃(ちかま)氏は、島々の権益を子どもたちに相続させています(広報画像⑦)。

沖縄本島を統一した琉球は、15世紀になると北の島々を配下におさめようと軍事行動を起こし、ついには奄美大島・喜界島まで領土を広げるのです。日本と琉球の境界領域であった奄美にももちろん独自の文化がありました。集落遺跡から見つかる陶磁器は、時代の変化と共に変わる、北から、南からのモノの流れを示し、琉球帝国の侵略によって集落が消滅する様子も語ってくれます。

「境界領域としての奄美:奄美の集落/北からみた奄美」YouTube動画

「境界領域としての奄美:奄美の集落/北からみた奄美」ギャラリー討論 YouTube動画

広報画像⑥ 夜光貝で作った貝匙 現代 個人蔵

奄美地域で採れる夜光貝は、都の貴族たちに珍重された。夜光貝を加工して作った貝匙は、貴族たちの宴会で使用された記録が残っている。奄美の遺跡では、貝匙の失敗作なども見つかっており、現地で加工したうえで都へ送ったことがわかる。

広報画像⑦ 千竃(ちかま)時家処分状(複製)(部分)
1306年 国立歴史民俗博物館蔵 ※原品個人蔵

鎌倉幕府の得宗被官・千竃氏が子供たちに分与した遺産相続の文書。千竃氏は薩摩以南の島々を所領としており、トカラ列島や奄美の島々もそのなかに含まれていた。現地支配の実態があったとは思えず、交易などの権益を有していた程度と考えられている。鎌倉時代の南九州勢力が、どのように奄美を位置付けていたかがわかる。

 

Ⅳ. 琉球統一と中央集権:沖縄本島の集落とグスク/琉球王権と明の冊封

15世紀になって沖縄本島を統一した尚氏は、中国・明の皇帝から琉球国王と認められ、首里城に拠点を据えました。首里城から見つかる陶磁器は、王の権威を示す高級品で彩られています(広報画像⑧)。

力を付けた交易国家琉球は、有力な按司(あじ)(大名)を粛清し、中国人特権階層をも取り込んで、中央集権化を進めます。その一方で、北は奄美、南は宮古・八重山へと版図を広げ、広大な領域を支配する帝国と化していったのです。尚真王の時期に作られた梵鐘には「尚真帝王」の銘文が刻まれており、帝国の最盛期を象徴します(広報画像⑨)。

「琉球統一と中央集権:沖縄本島の集落とグスク/琉球王権と明の冊封」YouTube動画

「琉球統一と中央集権:沖縄本島の集落とグスク/琉球王権と明の冊封」ギャラリー討論 YouTube動画

広報画像⑧ 青磁陽刻牡丹文大花瓶 
15世紀 国立歴史民俗博物館蔵

15世紀に中国の龍泉窯で焼かれた大型の花瓶。一般的に流通している碗や皿と違い、権力者しか入手できない優品である。首里城からはこうした美術陶磁器の破片が大量に出土しており、他の地域とは隔絶した権力を有していたことがわかる。

広報画像⑨ 円覚寺殿中鐘(重要文化財)
1495年 沖縄県立博物館・美術館蔵

琉球王尚家の菩提寺である円覚寺にかけられた梵鐘。琉球王国最盛期の尚真王の時期に鋳造された。梵鐘の銘文の中に、四角い枠取りをして金象嵌を施した特別な箇所がある。そこには「尚真帝王」と刻まれており、まさに琉球が帝国としての意識をもっていたことを端的に示す。

 

Ⅴ. 那覇港と島々を結ぶ:首里王府と那覇港/唐船口/宮古口/倭口

海洋国家琉球の窓口は、国際交易港・那覇でした。中国や東南アジア、日本といった海外や、八重山・宮古・奄美といった征服地を行き交う船で、港はあふれていました。港の様子を描いた屏風(広報画像①)や、防衛力の高さを示した那覇港の模型(広報画像⑩)、中国の使節が乗った船の絵画(広報画像⑪)などから、那覇港の具体的な姿を紹介します。

琉球帝国は、中国や東南アジアの国々とは漢文体の文書でやり取りしたのに対し、征服した地域には琉球国内と同様の漢字・かな混じり文体に朱印を押した独特の文書を出しました(広報画像⑫)。

「那覇港と島々を結ぶ:首里王府と那覇港/唐船口/宮古口/倭口」YouTube動画

「那覇港と島々を結ぶ:首里王府と那覇港/唐船口/宮古口/倭口」ギャラリー討論 YouTube動画

広報画像①-2  首里那覇港図屏風(部分) 19世紀 沖縄県立博物館・美術館蔵

広報画像⑩ 那覇湊周辺ジオラマ模型(1/2000) 
沖縄県立博物館・美術館蔵

現在は内陸化しているが、那覇はもともと独立した島であった。美しいサンゴ礁は、大型船の入港を阻む障害でもあり、那覇港は良港ではあるが難所でもあった。この模型は、絵図や発掘調査による情報を加味して中世の那覇を復元したひとつの研究成果である。さらに水深まで考慮して復元している。

広報画像⑪ 冊封使船送迎之図 
19世紀 国立歴史民俗博物館蔵

琉球王の代替わりにあたり、中国皇帝の使節が琉球王に送った使節を描いた図。左側が中国船で、右側が琉球船。琉球船は中国使節とともに中国から戻ってきた。ちょうど那覇港に入港するところで、船員たちが忙しく立ち働いている様子も描かれている。

広報画像⑫ 那覇里主・沢岻里主(たくしさとぬし)書状(国宝)15世紀後半~16世紀前半 東京大学史料編纂所蔵

琉球が支配する喜界島に王府の船が向かうにあたり、保護をしてくれたことに対する返礼を伝えたもの。
王府の最重要印である「首里之印」が捺されていることから、王府支配に密接にかかわる船であったと推測される。
漢字とひらがなが混じった文書で、こうした文体が公文書に用いられた。

 

Ⅵ. 中国と日本のはざまで:日本の支配と琉球/東アジア世界の中の近世琉球

隆盛を誇った琉球帝国も、1609年に薩摩の軍事侵攻に屈し、日本の支配を受けるようになります(広報画像⑬⑭)。しかし琉球は中国(明そして清)の皇帝から王に任じられているという誇りを常に持ち続けます。

琉球帝国の征服地であった奄美を薩摩に割譲された分、八重山・宮古への締め付けはより厳しくなりました。しかしその地に暮らす人びとは、抑圧されるだけの存在ではなく、笑顔を浮かべながら日々の生活を営んでいた様子が描かれています。

「中国と日本のはざまで:日本の支配と琉球/東アジア世界の中の近世琉球」YouTube動画

「中国と日本のはざまで:日本の支配と琉球/東アジア世界の中の近世琉球」ギャラリー討論 YouTube動画

広報画像⑬ 中山王尚穆(しょうぼく)書状 
18世紀 国立歴史民俗博物館蔵

近世の琉球は薩摩の支配下にはいった。琉球王尚穆が薩摩島津氏に書状を書くにあたり、島津側からは自分たちの書体(御家流[おいえりゅう])で書くよう指示した。この書状もそれに則って書かれており、近世における琉球と薩摩の関係を伝える。

広報画像⑭ 江戸山下御門内朝鮮人登城行列 
19世紀 国立歴史民俗博物館蔵

江戸とその近郊および諸国の名所を描いた泥絵の組物『江戸及び諸国名所泥絵集』の1枚。泥絵は粘土などを顔料と混合した泥状の安価な絵具や合成顔料のプルシアンブルーを使用した絵画で、江戸末期に流行し、江戸の名所・見所(特に大名屋敷)が多く描かれた。本図は「朝鮮人登城行列」とされているが、「中山王府」の赤旗などから朝鮮ではなく琉球使節を描いたものとわかる。

 

デジタルスタンプラリー

「海の帝国琉球-八重山・宮古・奄美からみた中世-」に関連した デジタルスタンプラリーを展示期間中に開催しています。無料アプリをダウンロードし5個のスタンプを集めるとスペシャル画像をプレゼントします!アプリで館内設置のパネルを読み込むと展示品に関連した画像や動画をご覧になることができます。


読み込みパネル

アプリ画面

スタンプ画面

 

【展示プロジェクト委員】

■展示代表:展示代表:村木 二郎(国立歴史民俗博物館 考古研究系 准教授)
専門分野 中世考古学
所属学会 史学研究会、日本考古学協会、中世学研究会
学歴 京都大学文学部史学科(考古学専攻)【1995年卒業】
   京都大学大学院文学研究科歴史文化学専攻
   考古学専修博士後期課程 【1999年中退】
   文学修士(京都大学)【1997年修了】
職歴 1999年  国立歴史民俗博物館考古研究部助手
   2007年  大学共同利用機関法人人間文化研究機構国立歴史民俗博物館研究部助教
   2008年10月 大学共同利用機関法人人間文化研究機構国立歴史民俗博物館研究部准教授
主要研究課題 日本中世社会の考古学的研究

 

経塚や石造物などの中世の信仰に関わる研究がそもそもの発端である。考古学はモノを扱う研究のため、経筒や石塔などの製作技法に関心があり、そこから中世の技術全般に興味がわき、技術史の共同研究を実施。それを踏まえて2013年に企画展示「時代を作った技-中世の生産革命-」を開催した。
一方で、国際交流の企画展示「東アジア中世海道-海商・港・沈没船-」(2005年)に関わったことから、海を介した中世世界にも関心が向き、琉球についての勉強を始める。八重山・宮古の歴史は琉球王府の史観で書かれたものに拠っているのに対し、そこには書かれていない遺跡・遺物の世界が現地にあることを知る。そこで「琉球帝国」という視点で共同研究を実施し(中世東アジア海域における琉球の動態に関する総合的研究(2015~17年度)・『国立歴史民俗博物館研究報告』編集中、2021年刊行予定)、本展示を企画。

主な著書に、『中世のモノづくり』(編著)(朝倉書店、2019年)、『中世の職人に関する総合的研究』(編著)(歴博研究報告210集、2018年)、『時代を作った技-中世の生産革命-』(編)(企画展示図録、2013年)などがある。

 

展示チームメンバー

新垣 力  (沖縄県教育庁文化財課)
池田 榮史 (琉球大学国際地域創造学部)
池谷 初恵 (伊豆の国市教育委員会)
岩元 康成 (姶良市教育委員会)
小野 正敏 (国立歴史民俗博物館・名誉教授)
久貝 弥嗣 (宮古島市教育委員会)
黒嶋 敏  (東京大学史料編纂所)
小出 麻友美(千葉県立中央博物館)
佐々木 健策(小田原市文化財課)
鈴木 康之 (県立広島大学地域創生学部)
関 周一  (宮崎大学教育学部)
中島 圭一 (慶應義塾大学文学部)
山本 正昭 (沖縄県立博物館・美術館)
渡辺 美季 (東京大学大学院総合文化研究科)
荒木 和憲 (国立歴史民俗博物館)
齋藤 努  (国立歴史民俗博物館)
田中 大喜 (国立歴史民俗博物館)
松田 睦彦 (国立歴史民俗博物館)

 

 

特集展示(国際展示)
「東アジアを駆け抜けた身体からだ ―スポーツの近代―」

開催概要

開催期間 2021年1月26日(火)~3月14日(日)
※開催期間が当初の2020年7月14日(火)~2020年8月30日(日)から変更となりました。
会場 国立歴史民俗博物館 企画展示室B
料金

一般:600円 / 大学生:250円
※総合展示もあわせてご覧になれます。
※高校生以下は入館料無料です。
※高校生及び大学生の方は、学生証等を提示してください。(専門学校生など高校生及び大学生に相当する生徒、学生も同様です)
※障がい者手帳等保持者は手帳提示により、介助者と共に入館が無料です。
※半券の提示で当日に限りくらしの植物苑にご入場できます。

開館時間 ~2月:9時30分~16時30分(入館は16時00分まで)
3月~:9時30分~17時00分(入館は16時30分まで)
※開館日・開館時間を変更する場合があります。
休館日 毎週月曜日(休日にあたる場合は開館し、翌日休館)
主催 大学共同利用機関法人人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館
國立臺灣歷史博物館(台湾)、國立成功大學(台湾)
特別協力 熊本県玉名市、公益財団法人野球殿堂博物館、筑波大学事業開発推進室、筑波大学附属図書館、天理大学附属天理参考館、早稲田大学大学史資料センター、立教学院展示館、孫基禎記念館(大韓民国)、真田 久(筑波大学)

趣旨

歴博は、2014年以来国立台湾歴史博物館(台湾・台南市)との相互交流と研究協力を継続し、2016年には、特集展示(国際展示)「台湾と日本―震災史とともにたどる近現代-」を共催しました。

国立台湾歴史博物館には、オリンピックアスリートに関する記録物が大量に所蔵されています。そのうちの、1932年のロサンゼルスオリンピック(アメリカ)、1936年のベルリンオリンピック(ドイツ)の陸上競技に「日本代表」として出場した張星賢(ちょう せいけん/日本植民地期の台湾人選手)に関係する歴史的な資料がきっかけとなり、新たに近代のスポーツに関わる共同研究を開始することとなりました。一昨年からは国立成功大学(台湾・台南市)にも共同研究に加わっていただき、日本と台湾の近代史への理解を深めてきました。

この特集展示(国際展示)は、その研究成果展示として、1964年の東京オリンピック関係資料をはじめ、近代の学校運動会に関連する錦絵、写真、肉筆漫画など約120点の資料を通し、身体の改変や近代オリンピックへの参加という歴史的経験を共有してきた日本と台湾における「近代化」への過程を見つめ直し、台湾や東アジアとの歴史的関係を意識しながら、スポーツの近代史を紐解くものです。また、日本での展示のあとは台湾(国立台湾歴史博物館)でも巡回予定です。

広報画像① 張星賢スタート写真 
1930年代前半 国立台湾歴史博物館蔵

 

本展のみどころ

  • 張星賢(ちょう せいけん)という知られざる日本植民地期の台湾人アスリートの競技人生をクローズアップしながら、激動の日本と東アジアの近代史を見つめ直す
  • 記念1000円硬貨や銅メダル(男子バレーボール)など1964年の東京オリンピック関係資料を展示
  • リレーバトン、ハードル、体操服、運動会のプログラムなど、100年前はどのような形をしていたのか、スポーツの近代史を紐解く
  • ラジオ体操参加カードはいつからある?
    はじめて「スポーツ」に出会った人々は、どういう反応をしたのか、野球やラジオ体操の普及から読み解く

展示の構成

プロローグ

日本にスポーツの概念が入ってきてからの約150年間の歴史を、日本植民地期の台湾人アスリート、張星賢(ちょう せいけん)の生きた道のりを中心に据えて振り返ります。張星賢をこれほどまでに光をあて紹介することは、日本では過去に類を見ないでしょう。

この展示企画は、国立台湾歴史博物館に戦前のオリンピック選手の写真やメダルが大量に存在すると聞いたところから始まりました。その一人である張星賢は、台湾に生まれ、早稲田大学に入り、卒業後は南満洲鉄道株式会社に所属しながら競技を続けた人物です。張星賢の生涯を見つめる作業を通して、これはそのまま日本と東アジアの近代史を凝視する作業なのではないかと思い至りました。本展示は「スポーツ史を展示する」試みよりも、スポーツの歴史の中から浮かび上がる「声」をみずからがどのように聴くか、ご覧のみなさまにどのように聴いていただくのか、を考えることに主眼を置いています。

この展示は全4章で構成されます。第1章では19世紀後半、近代の幕開けと、スポーツの概念が外国から入ってきたばかりの状況を概観します。第2章では、1900年代の前半、スポーツという概念はどのような「波」を人々のあいだに引き起こしたのか、野球のグローバル化や女性にとってのスポーツに着目して展示します。続く第3章では「日本代表」「満洲国代表」として世界を駆け抜けた張星賢に焦点を当てます。一人の競技人生という窓を通じて、激動の世界史・日本史を展望します。最後に第4章では、戦後に再編成された日本のスポーツの歴史を振り返ります。

広報画像② 「児童教育体操運動図絵」 1899年 
国立歴史民俗博物館蔵

第1章 近代史のなかのスポーツ

日本の近代化と共にスポーツという新しい文化がどのように入ってきたのか、人々の間にどのように定着していったのか、また、その過程でどのような葛藤を人々の間に引き起こしていたのか、ということも含めて考えます。

第1章 第1節 鋳(い)なおされる身体

近世までは、膝を曲げた状態の「なんば歩き」や前かがみ、猫背の姿勢は、特におかしなものではありませんでした。幕末から近代に至ってこうした姿勢が西洋人から奇異なものというまなざしを向けられるようになりました。そこでまず必要とされたのは、膝や背を曲げず直立する姿勢や靴を履いて歩行することでした。

広報画像③ 「西洋ウンドヲアソビ」 
1860年代 国立歴史民俗博物館蔵

幕末から明治前期(19世紀後半)には、スポーツの概念が存在していなかったため曲芸の一種のようなものとして「ウンドヲ」が認識されていたことを示す。

 

第1章 第2節 スポーツを通じた近代文化の波

1900年代に入り、中等学校(旧制中学校、実業学校)では野球が隆盛し、それに対して「野球害毒論争」が新聞紙上で行われました(1911年)。日清戦争後に日本へ割譲された台湾では、日本式の学校の増加につれ、漢族の女児が体操や通学に支障のある纏足(※てんそく)をやめるべきかどうかが論争となりました。日本人女性として初めてアムステルダムオリンピック(1928年)に出場し銀メダリストとなった人見絹枝が台湾で巡回指導を行ったのは、ちょうど同じ頃(1920年代)でした。
※纏足:子供の頃から足を布と小さな靴で拘束し、小さいままに維持するもの。纏足靴への美しい刺繍なども含めて、漢族の文化だった。

広報画像④ 「浦和高等女学校大運動会 物乾競争」
1900年代 国立歴史民俗博物館蔵

変形袴スタイルで運動会に臨む女学生たち。高等女学校は義務教育ではなく、小学校卒業時に受験をして入学する中等教育機関。1900年代(明治末期)と推定される。

広報画像⑤ 「女子スポーツ双六」『主婦の友』
1925年1月号付録 国立歴史民俗博物館蔵

ゴール目前に「結婚」があり、「スポーツなんぞしていられない」という台詞が入っている。

広報画像⑥ アムステルダムオリンピック女子100m予選の人見絹枝『アサヒ・スポーツ 第九回国際オリムピック競技特別号』 1928年9月 個人蔵

 

第2章 帝国日本のスポーツとオリンピック

日本は日清戦争で台湾を割譲され、日露戦争後に樺太の南半分を領有、1910年に「韓国併合」を行いました。こうして「帝国日本」が完成する時代に、ヨーロッパでは古代のオリンピックが近代オリンピックとして復興、開催されるようになりました。

1910年代以降国内では、中等学校野球大会(のちの「甲子園野球」)や、中等学校ラグビーフットボール大会(のちの「花園ラグビー」)、高等教育機関のスポーツ大会や国際交流試合が盛んになっていきました。当時のスポーツの主な担い手は、中等教育機関(義務教育ではない旧制中学校・実業学校)や高等教育機関に進学することのできた一部の男子生徒でした。日本からオリンピックに参加した人々も、ほとんどはこのような教育機関でスポーツを経験した男性エリート達でした。

広報画像⑦ オリンピック大競技双六『少年倶楽部』1920年1月号付録 個人蔵

アントワープオリンピックの開催された1920年の『少年倶楽部』1月号付録。『少年倶楽部』は少年たちに絶大な人気を博していた雑誌。

 

第2章 第1節 帝国日本のスポーツ

1920年代後半から、国内の野球やラグビーの中等学校全国大会に満鉄(南満洲鉄道株式会社)附属地や朝鮮、台湾から出場するようになりました。同じ頃、六大学野球連盟が結成されました。また、ラジオ放送が徐々に普及し、ラジオ体操が作られたのもこの時期で、それは全国に広まり、特に子供の夏休みの行事として定着していきました。

第2章 第2節 ラジオ体操の帝国

1925年にラジオ放送が開始され、1928年にラジオ体操が簡易保険局により制作されました。ラジオ体操は全国に広まり、植民地を含む各地の神社や学校で実施されました。押印するカードや参加メダルが、子供の参加を促しました。

広報画像⑧ ラジオ体操参加カードとメダル裏面 
1940年代 個人蔵

 

第2章 第3節 近代オリンピックと日本

第一次世界大戦の後1920年代には、一時的な緊張の緩和ムードが国際社会に生まれました。しかし世界恐慌を経て徐々に再び緊張の時代へと入っていきます。そうした時代の空気の中で開催されたのが、1924年パリオリンピック(フランス)、1928年アムステルダムオリンピック(オランダ)、1932年ロサンゼルスオリンピック(アメリカ)、1936年ベルリンオリンピック(ドイツ)です。台湾や朝鮮から、日本選手としてオリンピックに出場する選手が現れるのは、1932年のロサンゼルス大会と1936年のベルリン大会でした。そしてその両大会には、台湾から日本選手として出場した張星賢がいました。また、朝鮮から日本選手としてベルリンオリンピックに出場した孫基禎(ソン ギジョン)はマラソンで金メダル、同じく南昇竜(ナム スンニョン)は銅メダルを獲得しました。

 

第3章 世界を駆け抜けた台湾人アスリート:張星賢

1930年代、2度のオリンピックで日本代表として活躍した台湾人アスリート・張星賢を中心に展示を構成します。1910年10月、台湾中部の中心都市・台中に生まれた張(〜1989)は、公学校(台湾人が通う小学校)卒業後、台中商業学校に進学し陸上競技の素質を開花させました。そして早稲田大学専門部に進学し、学生陸上の名門であった早稲田大学競走部に入部。そして1931年の入学早々に実力を認められ、翌年のロサンゼルスオリンピックに日本選手として出場する切符を手にしたのです。卒業後、南満洲鉄道株式会社に就職した張は、1936年のベルリンオリンピックの日本代表にもなりました。

植民地台湾・日本本国・満洲という日本帝国の政治的磁場でスポーツマンとして生きつつ、アメリカからヨーロッパまで、世界を駆け抜けた張の姿・意識に光をあてます。

広報画像⑨ 第20回全日本選手権(兼第7回明治神宮体育大会)記念章 1933年10月31日−11月3日 
第二十届全日本選手權大會兼第七回明治神宮體育大會(1933) 紀念 国立台湾歴史博物館蔵

 

第3章 第1節 台湾から東京、そして世界へ

張が獲得した日本の一線級の陸上競技大会およびオリンピック関係のメダルを中心に張の競技人生の歩みを見渡します。台中商業学校で陸上スポーツの基本的能力を認められた張は、在学4〜5年の頃から長距離・三段跳・中距離で実績を残し、半年間の台湾実業団での競技活動を経て、早稲田大学に進学。明治神宮大会(全日本選手権)、学生陸上選手権などで400m・400mハードル・1600mリレーを得意種目とする中距離ランナーとし て確立していきました。

広報画像⑩ 第10回オリンピック、ロサンゼルス大会参加記念章(表) 1932年7月30日−8月14日
1932年洛杉機奧運參賽紀念章 Xth OLYMPIAD 1932 /LOS ANGELES CALIFORNIA  国立台湾歴史博物館蔵

 

第3章 第2節 早稲田時代とロサンゼルスオリンピック

ロサンゼルスオリンピック、その後の競技活動や早稲田競走部の交友関係、東京での学生生活と台湾人同胞・故郷との関係を軸に構成します。オリンピック関連では、移動する船上での風景やアメリカ日系人世界の観察が興味深く、大学陸上部の活動では、植民地にまたがる学生運動部の遠征が注目されます。スポーツは、否応無く植民地との関係形成に繋がっていました。一方で張は、日本人による台湾人差別への反発を持ち、民族的な台湾人ジャーナリズムとの関係も強く、アスリートとしての人生を保証してくれる植民地の体系と、現実との矛盾のはざまで生きることとなりました。

広報画像⑪ ロサンゼルスに向かう早稲田大学の選手 
沖田芳夫関係資料44写真(国際大会) 
早稲田大学大学史資料センター蔵

陸上チームは男子26名、女子9名が選出され、男子選手の中には台湾の張星賢のほか、朝鮮出身の金恩培、権泰夏が含まれる。

広報画像⑫ 第4回日本学生陸上競技対校選手権400mハードル決勝 甲子園 1931年5月30-31日
張星賢就讀早稻田大學時期参加大阪甲子園擧行的「全日本學生對抗競技」勇奪氏四百公尺中欄第二名 国立台湾歴史博物館蔵

この大会で張星賢は2位に入った。なお戦前のハードルは木製でTの字を逆にした形をしており、倒れづらく怪我が頻発したため、戦後は鉄製でLの字を逆にした形に改良された。

広報画像⑬ 満洲ハルビンでの対抗試合100m 
1933年7月13日
1933年偽滿洲哈爾賓比賽100公尺冠軍張星賢剪影(張星賢自傳書籍 照片頁編排校對稿) 国立台湾歴史博物館蔵

早大競走部は1933年7月に朝鮮・満洲遠征を行い、各地で対抗試合を行った。大連の試合で、満鉄陸上部監督の林周介(京都帝大卒)と知り合い、満鉄就職を勧誘された。

 

第3章 第3節 満鉄時代とベルリンオリンピック

張は早稲田大学を1934年3月に卒業し、1年間の就職浪人の後、1935年4月に南満洲鉄道に就職、400mの正式陸上トラックをもつ大連で満洲での競技人生に入りました。張は、この就職の時点で、オリンピック候補選手の一人に選ばれており、翌1936年5月の全日本予選の実績により、満洲から唯一のオリンピック日本代表となったのです。張の身体は、日本代表・台湾だけでなく満洲の期待まで背負うこととなりました。

広報画像⑭ 三外地(台湾、朝鮮、満洲)対抗陸上競技大会における満洲チーム 1935年11月
張星賢任職滿鐵時期代表滿洲隊回台參加首屆「三外地對抗賽」與隊友分別於台北、台中、台南合照  国立台湾歴史博物館蔵

満洲チーム主力は張など日本で活躍した陸上選手であり、満洲が総合優勝した。

広報画像⑮ アメリカ陸上種目4冠のジェシー・オーエンスとオリンピック村練習場にて 1936年
張星賢與百米及二百米冠軍美國オーエンス合照 国立台湾歴史博物館蔵

写真の左から二人目。ベルリンオリンピックで100m・200m・400mリレー・走幅跳の4冠達成、ナチス政権下のオリンピックで、アメリカでの激しい黒人差別をくぐってきたアフリカ系アメリカ人ランナーが、最大の英雄となった。この時の走幅跳の銅メダルでオーエンスとともに表彰台に上ったのは田島直人(三段跳は世界新で金、京都帝大)。

 

第4章 スポーツの戦後

戦後の復興とスポーツは密接な関係にありました。敗戦により社会的経済的基盤の多くを喪失した日本において、スポーツ選手の活躍は、失われた一体感や誇りを再び想像し、獲得するための格好のメディアとなりました。また、スポーツの復興が、戦争によって断ち切られた社会関係や歴史的なつながりを再接続する役割も果たしました。物理的に「帝国」ではなくなった日本において、人々が共通して抱くことのできた一体感や誇りは、「帝国日本」の時代に引き起こされた人々の移動・還流に影響されたものでもありました。他方、植民地から解放された台湾は、大陸からの人の流入や、政治的粛清などあらたに厳しい時代を迎え、複雑な国際関係のなかで、オリンピックには「Chinese Taipei」(中華台北)として出場するに至っています。

第4章 第1節 ラジオ体操の改定、野球の復活

1945年の敗戦後、戦争遂行のために休止していたスポーツは軒並み大会を復活させ、それらは今日まで継続しています。六大学野球連盟は、1945年10月には早慶戦を行い、1946年春季からリーグ戦を再開しました。ただし、戦前のラジオ体操は、その集団性や行き過ぎた規律訓練など、戦争動員に果たした役割をGHQから懸念されて変更することになりました。1946年には新ラジオ体操が作成されましたが普及せず、現代に続くラジオ体操第一が1951年に作成されました。

第4章 第2節 東京・札幌オリンピックの再招致

戦後復興と高度経済成長を下支えした企業が、バレーボールやラグビー、サッカーなどの名門チームを育成しました。これらの企業スポーツは、1964(昭和39)年の東京オリンピックでの日本チームの活躍を後押しすることになります。団体競技の発展は、個別の企業への帰属意識を高めただけではなく、試合で実践されるチームプレーが、「企業戦士」養成の一要素としても受容されていきました。

広報画像⑯ 東京オリンピック開会式男性用ジャケット
1964年 個人蔵

バレーボールは1930年代に競技ルールが統一され、オリンピックで初めて公式種目になったのが1964年であった。

広報画像⑰ 東京オリンピック銅メダル表面(男子バレーボール) 1964年 個人蔵

この銅メダルは、男子バレーボールの代表メンバーだった小瀬戸俊昭氏のご厚意により展示に至った。この頃には、スカウトのしくみなども含め企業一丸となって競技スポーツの選手を輩出する体制ができあがっていたことがうかがわれる。

 

エピローグ

張星賢や孫基禎、人見絹枝や前畑秀子、運動会の写真に写る一人一人のような、歴史を生きた人々が発し続ける問いを、みなさまにどのようなかたちで持ち帰っていただけることでしょう。

国立台湾歴史博物館・国立成功大学と共同研究を始めた頃、日本側メンバーは、恥ずかしながら張星賢のことを誰も知りませんでした。張星賢の残した資料を読み解くという作業は、近代の日本と世界の関係史を読み直すこと、そのものでした。「私(たち)」とは誰なのか、いつ、どのような形状の「波」と格闘してきたのかということを、運動・スポーツの歴史的いとなみというピンホールカメラから問いかけることができた、そんな思いです。思いがけない感染症の拡大を経てオリンピック・パラリンピックとともにこの展示も延期され、2021年の開催となりました。この毎日が歴史となって、未来を生きる人々に対して、どんなメッセージを投げかけることになるのでしょうか。

 

【展示プロジェクト委員】

■展示代表:展示代表:樋浦 郷子(ひうら さとこ)(国立歴史民俗博物館 研究部 准教授)
専門分野 帝国日本の教育/宗教/文化
所属学会 教育史学会,歴史学研究会など
学歴 神戸大学大学院国際協力研究科博士前期課程【1998年修了】
   京都大学大学院教育学研究科修士課程【2006年修了】
   京都大学大学院教育学研究科博士課程【2011年修了】   
博士(教育学・京都大学)【2011年取得】
職歴 1999年  新潟県立両津高等学校教諭
   2002年  新潟県立新潟江南高等学校教諭
   2012年 帝京大学宇都宮キャンパス専任講師
   2016年~国立歴史民俗博物館研究部准教授

主な著書に、『神社・学校・植民地―逆機能する朝鮮支配』(京都大学学術出版会、2013年)共著に、平田諭治編『MINERVA はじめて学ぶ教職4 日本教育史』[担当:分担執筆, 範囲:第5章](ミネルヴァ書房  2019年1月)等がある。

 

私はこどもの頃から教師になりたくて、故郷で高等学校の英語教師になりました。働いているあいだ、学校生活の細かなことがすべて歴史を背負っていると考え始めて、学校の歴史を研究してみたいと思い、そこから研究の世界を目指すことになりました。働きながら不思議だと思ったことの一つが、運動会・体育祭でした。学校では運動会・体育祭の練習が長時間設けられています。ある時同僚のALT(Assistant Language Teacher)に「明日の5時間目は体育祭の練習だから英語の授業はないよ」と伝えたら、ALTに「なぜSports Dayにリハーサルがあるの?」と問い返されて、言葉に詰まったことがあります。要するに日本の運動会には固有の歴史があって、Sports Dayだけでは伝えることが不可能な概念なのでした。

それから長い時間が経過して、今回国立台湾歴史博物館・国立成功大学という最良のパートナーを得て、あらためてアジアにおける運動とスポーツの歴史をかえりみることが可能になりました。展示代表としてのみならず、個人的にも、この機会を与えられたことに心から精一杯感謝しています。人生、何が起こるかわかりません…。

 

江 明珊(Associate Curator & Chief, Exhibition Division, National Museum of Taiwan History)
張 淑卿(Curator, Exhibition Division, National Museum of Taiwan History)
陳 怡宏(Researcher Chair, Research Division, National Museum of Taiwan History)
陳 明祥(Curator, Exhibition Division, National Museum of Taiwan History)
劉 維瑛(Researcher, Research Division, National Museum of Taiwan History)
謝 仕淵(Associate Professor, National Cheng Kung University)
金 誠(札幌大学 教授)
荒川 章二(国立歴史民俗博物館 名誉教授)
川村 清志(国立歴史民俗博物館 准教授)
小瀬戸 恵美(国立歴史民俗博物館 准教授)
西谷 大(国立歴史民俗博物館 館長)

 

関連イベント

歴博講演会

第426回講演会「女性とスポーツの近代」
新型コロナウイルス感染拡大防止のため開催中止となりました。大変ご迷惑をおかけしますが、ご了承ください。

日時 2月13日(土)  13:00~15:00※開催中止
講師 樋浦 郷子
会場 本館講堂

 

巡回情報

台湾
国立台湾歴史博物館 2021年に巡回予定(詳細は未定)