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「石鹸・化粧品の近現代史」(第4展示室) 「大津絵と江戸の出版」(第3展示室) 「庫外正倉院文書と盤龍鏡-井上辰雄氏蒐集資料展」(第1展示室)

「石鹸・化粧品の近現代史」(第4展示室)

開催概要

開催期間 2019年12月3日(火)~2020年8月30日(日)
※開催期間が当初の5月6日(水)までから延長となりました。
会場 国立歴史民俗博物館 第4展示室(民俗)
料金 一般600(350)円/大学生250(200)円
高校生以下無料
(  )内は20名以上の団体

※障がい者手帳等保持者は手帳提示により、介護者と共に入館無料です。
※高校生及び大学生の方は、学生証等を提示してください。
※半券の提示で、当日に限りくらしの植物苑にご入場できます。
※料金が変更になる場合があります。

開館時間

~2月    9:30 ~ 16:30(最終入館は16:00まで)
3月~  9:30 ~ 17:00(最終入館は16:30まで)

休館日 毎週月曜日(休日の場合は開館し、翌日休館)
年末年始(12月27日~1月4日)
主催 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館

趣旨

化粧や衛生の流行は、衣服ほど短期間で変化するものではありません。しかし、10~20年の単位で振り返ると、大きく変化していて、日常生活の常識観に少なからぬ影響を与えていることがみえてきます。

明治時代に入ってから化粧品の工業製品化が進んでいきましたが、商品の中心はスキンケア商品、石鹸、歯磨、香油でした。また、早くから欧米風の化粧法が紹介されていましたが、洋装に対する抵抗感から、とくに口紅やアイシャドウのような口や目を際立たせる商品は、1930年頃まで普及しませんでした。1930~35年あたりにメイクが流行り、一時的に化粧品の生産量が増えたものの、それ以降は原料不足のために生産自体が政府の統制におかれ、戦後にその統制は少しずつ解除されていきましたが、長らく贅沢品として、日常的に使える状況ではない時代が続きました。

化粧品業界が本格的に復興したのは、高額だった物品税が下げられ、口紅のキャンペーンが始まった1960年代中頃以降のことです。そして、1980年代に機能性を重視した商品が次々と開発され、1990年代にはメイク専門雑誌が刊行されるに至るまで、化粧品が一般に普及していきました。

石鹸やシャンプーにおいても、弱酸性の髪を傷めにくいシャンプーが家庭に普及した歴史は案外浅く、2000年代に入ってからのことで、1987年以降に「朝シャン」という言葉が流行し、髪の毛を毎日洗う習慣となりました。もともと石鹸やシャンプーはアルカリ性であり、肌や髪を傷めやすいものでした。その上、第二次世界大戦が始まると、物資不足のために品質が低下して顔用の石鹸が製造できなくなり、浴用石鹸や洗濯石鹸も高額の物品税が課せられて、売り上げが低迷しました。1950年代後半には中性のシャンプーが開発され、各家庭に内風呂が普及すると、石鹸は洗いすぎない液体タイプに変わり、シャンプーはツヤを残すものが開発されました。

本展示では日本の美容観や衛生観に影響を与えてきた石鹸と化粧品の歴史を商品と広告類を使って紹介します。2016年秋の企画展示「身体をめぐる商品史」では、明治時代~平成時代初めの化粧品類を紹介しましたが、今回はより古い時代に重点をおき、さらに、幅広い企業の資料を展示します。

主な展示資料

カネボウ絹石鹸 昭和20年代 
国立歴史民俗博物館蔵

・御園白粉製品目録(明治後期~大正年間)
・御園白粉(明治37年)
・現代婦人の化粧法(明治41年)
・ウテナバニシングクリーム(大正~昭和初期)
・クラブ美身クリーム(昭和初期(明治44年発売))
・資生堂月報(昭和7年)
・資生堂ホルモリンパンフレット(昭和9年)
・パピリオAクレーム(昭和20年代か?)
・コーセー粉白粉(昭和23年発売)
・花王石鹸パンフレット(大正7年)
・ポスター 花王シャンプー(大正~昭和初期)
・花王石鹸(大正末~昭和初期)
・ライオン洗石鹸(明治45年発売)
・ミツワ月報(昭和2年)
・資生堂石鹸(昭和初期)
・牛乳石鹸(昭和24年)
・カネボウ絹石鹸(昭和20年代)

など計約70点
※会期中、展示替えがあります。

 

1) クラブ堂ビル専売品カタログ
大正末期~昭和初期
(国立歴史民俗博物館蔵)

戦前に業界最大手であった中山太陽堂の本社のみで販売された高級化粧品のカタログ。

2) 御園白粉 明治37年
(国立歴史民俗博物館蔵)

伊東胡蝶園(のちのパピリオ)が創業した明治37年に製造し、丸見屋(のちのミツワ石鹸)から発売した日本初の無鉛白粉。

3) レートメリー白色 大正7年発売
(国立歴史民俗博物館蔵)

戦前に業界2位であった平尾賛平商店の肌が白くなるなめらかな白色クリーム。

4) コーセー粉白粉 昭和23年発売
(個人蔵)

コーセーの創業は昭和21年。その2年後に発売された粉白粉。

5) クラブ美身クリーム
昭和初期(明治44年発売)
(個人蔵)

明治44年に発売されたバニシングクリーム。本来白色の瓶が、第2次世界大戦中、何度も溶かして再利用されたため、黒色となった。

6) 資生堂石鹸 昭和初期
(個人蔵)

石鹸セットの缶。デザインは山名文夫によると思われる。

7) ライオン洗石鹸 明治45年発売
(国立歴史民俗博物館蔵)

ライオンが明治45年から高圧反応釜で製造していた洗濯石鹸で、価格の高い順に1号から4号まであった。

8) 牛乳石鹸 昭和24年
(国立歴史民俗博物館蔵)

牛乳石鹸には赤箱と青箱があるが、赤箱の方が古く、昭和3年が発売である。赤はしっとりタイプで、青はさっぱりタイプである。

9) カネボウ絹石鹸 昭和20年代
(国立歴史民俗博物館蔵)

もともと紡績メーカーだったカネボウは、昭和11年に蚕の繭から油分を取り出すことに成功し、それを石鹸の原料に用いた。

 

【展示代表】

青木 隆浩(国立歴史民俗博物館 民俗研究系 准教授)

専門は民俗学・地理学。
主な研究テーマは、酒、商家、社会規範など。東京大学大学院総合文化研究科修了後、2002年から 国立歴史民俗博物館研究部に所属。主な著書『近代酒造業の地域的展開』(吉川弘文館 2003年)。過去担当した展示は、企画展示「身体をめぐる商品史」(2016年10月~12月)。

関連イベント

ギャラリートーク

開催期間中、展示プロジェクト委員によるギャラリートークを開催予定です。

日程:2月1日(土) 時間:13:30~ 担当者:青木 隆浩

※開始時間までに第4展示室特集展示室にお集りください。

 

特集展示(第3展示室)「もの」からみる近世
「大津絵と江戸の出版」

開催概要

開催期間 2020年8月4日(火)~9月6日(日)
※開催期間が当初の5月26日(火)~6月28日(日)から変更となりました。
会場 国立歴史民俗博物館 第3展示室(近世)特集展示室
料金

一般600(350)円/大学生250(200)円
高校生以下無料

※( )は20名以上の団体料金です。
※総合展示もあわせてご覧になれます。
※障がい者手帳等保持者は手帳提示により、介助者と共に入館無料です。
※高校生及び大学生の方は、学生証等を提示してください。
※博物館の半券の提示で、当日に限りくらしの植物苑にご入場できます。 また、植物苑の半券の提示で、当日に限り博物館の入館料が割引になります。
※料金が変更になる場合があります。

開館時間 9時30分~17時00分(入館は16時30分まで)
休館日 毎週月曜日(祝日の場合は開館し、翌日休館)
主催 国立歴史民俗博物館

  

みどころ

  • 大津絵の素朴な魅力を味わってみてください。
  • 大津絵に込められた護符的な意味を読み解いてみましょう。
  • 大津絵の画題がさまざまなかたちで浮世絵にも取り入られたのをご覧ください。

趣旨

江戸時代、大津の追分(おいわけ)周辺で売られていた肉筆の民衆絵画である「大津絵(おおつえ)」は、木版や合羽摺(着色部分を切抜いた型紙の上から刷毛や“たんぽ”を使って色を塗る技法)なども併用して大量生産され、大津土産として全国に広く知られるものとなりました。江戸末期には「大津絵十種」といわれるような定番の画題が定着し、歌舞伎や戯作など、江戸の大衆文化にも題材を提供するようになります。とくに錦絵の戯画のモティーフとして好まれ、嘉永6年(1853)の歌川国芳の「浮世又平名画奇特(うきよまたべえめいがのきどく)」のようなヒット作も生み出し、風刺画を示唆する機能も有するようになりました。

本展では、当館所蔵の大津絵12点のうち11点を紹介するとともに、大津絵をモティーフに取り入れた江戸末期から明治初期にかけての錦絵などをあわせて展示し、江戸後期における大津絵イメージの広がりについて考えます。

 

「大津絵」とは?
大津絵は大津宿の追分付近で江戸時代初期から描かれ始めたと考えられています。芭蕉の句「大津絵の筆のはじめは何仏」が知られているように、初期には仏教的な画題が主流でしたが、次第に世俗的で戯画性や風刺画的なものが増えていきます。江戸末期には次第に「大津絵十種」と呼ばれる代表的な画題へと絞られ、それ以外のものが見られなくなっていきます。大津絵は近代になって描かれなくなりますが、その諧謔や素朴な味わいを愛する文化人も少なくありませんでした。近年では海外でも注目を集めつつあります。

「大津絵十種」とは?
江戸時代末期、大津絵の画題は十種に絞られるようになり、それぞれがご利益のある護符としての役割を期待されるようにもなりました。今回展示する「鷹匠」、「座頭」、「瓢箪鯰」、「釣鐘弁慶」も大津絵十種です。

 

主な展示資料


歌川国芳画「浮世又平名画奇特」 
嘉永6年(1853)  国立歴史民俗博物館蔵

大津絵 館蔵の12幅のうち11幅 江戸時代
『東海道名所図会』巻之一 寛政9年(1797)
歌川国貞画「大津絵の鬼」 江戸時代
歌川国芳画「浮世又平名画奇特」 嘉永6年(1853)
楊洲周延画「千代田の大奥 初午」 明治29年(1896)

など 約20点(すべて当館蔵)

 

【展示代表】

大久保 純一(国立歴史民俗博物館 情報資料研究系 教授)

専門は浮世絵を中心とした江戸絵画史。
主な著書に、『広重と浮世絵風景画』(東京大学出版会、2007年)、『カラー版 浮世絵』(岩波新書、2007年)、『浮世絵出版論』(吉川弘文館、2013年)など。

 

1) 大津絵「釣鐘提灯」 江戸時代
猿が天秤棒で釣鐘と提灯を担いでいる図。軽いはずの提灯のほうが下がっており、道理が通らぬ世間への風刺の意味があるとされる。

2) 大津絵「鷹匠」 江戸時代
鷹匠は公家や武家に仕え、鷹狩りの鷹を養成する役目。作物を荒らす鳥を鷹が追い払うことから、五穀豊穣などの護符とされた。

3) 大津絵「鎮西八郎」 江戸時代
剛勇で知られた平安末期の武将、源為朝を描いている。為朝は浮世絵でも疱瘡除けのお守りの「疱瘡絵」として好んで描かれているが、大津絵でもその願いが込められていたのだろう。

4) 大津絵「瓢箪鯰」 江戸時代
禅の公案に由来する画題。口の小さい瓢箪で大きな鯰を捕えようするのは要領を得ない。思慮の足りない行動を風刺するとされる。安政大地震の後に流行した鯰絵にも取り入れられた。

5) 大津絵「釣鐘弁慶」 江戸時代
三井寺の釣鐘を奪った弁慶がそれを比叡山の山上まで運び上げたという伝説を絵画化したもの。大津の地元にもゆかりあるエピソードなので、人気のあった画題。
6) 歌川国芳画「浮世又平名画奇特」 江戸時代
人気浮世絵師の歌川国芳が大津絵のキャラクターを、役者似顔絵仕立てで描いた戯画。ペリー来航など不安な世情の中、風刺画だとの噂が立って大当たりをとった。

 

※内容は変更する場合があります。ご了承ください。

 

特集展示(第1展示室)
「庫外正倉院文書(こがいしょうそういんもんじょ)と盤龍鏡(ばんりゅうきょう)-井上辰雄氏蒐集資料展」

開催概要

開催期間 2020年10月13日(火)~11月15日(日)
※開催期間が当初の4月21日(火)~5月17日(日)から変更となりました。
会場 国立歴史民俗博物館 総合展示 第1展示室 特集展示室
料金

一般600(350)円/大学生250(200)円
高校生以下無料

(  )内は20名以上の団体です。
※総合展示もあわせてご覧になれます。
※障がい者手帳等保持者は手帳提示により、介護者と共に入館無料です。
※高校生及び大学生の方は、学生証等を提示してください。
※博物館の半券の提示で、当日に限りくらしの植物苑にご入場できます。 また、植物苑の半券の提示で、当日に限り博物館の入館料が割引になります。
※料金が変更になる場合があります。

開館時間 9時30分~16時30分(入館は16時00分まで)
休館日 毎週月曜日(祝日の場合は開館し、翌日休館)
主催 国立歴史民俗博物館

  

みどころ

●ながらく個人蔵であった資料を公開。庫外正倉院文書(こがいしょうそういんもんじょ)は35年ぶり、盤龍鏡(ばんりゅうきょう)は初公開!

●庫外正倉院文書(もともと奈良の正倉院に伝来した正倉院文書の断簡)「葦浦継手手実(あしうらのつぎてしゅじつ)」(「手実」は勤務報告書のこと)はこれまでに1度、1か月間公開されたことがあるだけ。今回、35年ぶり2度目の公開となります。隣に貼り継がれていたはずの「答他虫麻呂手実(とうたのむしまろしゅじつ)」(当館蔵)とも35年ぶりの再会です。

●盤龍鏡は、向かい合う龍と虎を主な装飾紋様とする中国の鏡です。「宋氏」と作者の銘を入れた鏡で、後漢時代の中頃にあたる、紀元100年前後ごろに作られました。ものを写す鏡面の側は、絹織物らしき繊維に覆われており、日本の古墳に副葬された可能性が考えられます。日中の双方の視点で注目できる資料です

趣旨


故・井上辰雄氏
日本古代史の研究者であった井上辰雄氏の御遺族より、2019年に寄贈を受けた資料を公開します。

井上辰雄氏は1928年(昭和3)10月生まれ。東京大学文学部卒業、同大学院満期退学の後、川村女子短期大学を経て、1960年(昭和35)4月に熊本大学法文学部に助教授として赴任(のち教授)。熊本では14年間にわたり勤務され、在任中には熊本県文化財保護専門委員などを歴任されています。1975年(昭和50)6月に筑波大学に移られ、1992年(平成4)3月に停年退官、名誉教授の称号を受けました。同年より2004年(平成17)3月まで城西国際大学教授、招聘教授として勤務。2015年(平成27)11月逝去されました。『正税帳(しょうぜいちょう)の研究』『嵯峨天皇と文人官僚』『平安初期の文人官僚』『平安儒者の家』(以上、塙書房)、『火の国』『隼人と大和政権』(以上、学生社)、『古代王権と宗教的部民』(柏書房)『茶道をめぐる歴史散歩』『在原業平』(以上、遊子館)、『慶滋保胤』(井上辰雄先生を偲ぶ会)など多数の研究書、啓蒙書を残されています。

井上氏は茶道の造詣も深く、書跡など数多く収集されておられましたが、逝去後、御遺族より古代史資料として特に貴重な2点を当館に御寄贈いただきました。

1点は庫外正倉院文書(こがいしょうそういんもんじょ)です。正倉院文書は奈良の東大寺正倉院に伝来していたおよそ1300年前の古文書ですが、江戸時代末にその存在が知られ、整理が進められるようになりました。その過程でごく一部が民間に流出しました。その数は数え方にもよりますが、80点ほどが知られています(正倉院文書は全体で1万点以上)。井上氏はこの庫外正倉院文書を熊本にて入手されたとのことです。

内容は、葦浦継手(あしうらのつぎて)という経師(きょうし)(写経を仕事とする人)が、宝亀3年(772)9月に自分が書写した写経の分量を報告した手実(業務報告書)です。給料は1紙単位の出来高払いであったため、このような報告書を提出する必要がありました。写経所では他の経師の業務報告書も貼り継いで帳簿にまとめた上で、チェックして布施(給料)を支給しました。当館所蔵の別の庫外正倉院文書である「答他虫麻呂手実(とうたのむしまろしゅじつ)」も同月に提出された別の経師の業務報告書であり、もとは「葦浦継手手実(あしうらのつぎてしゅじつ)」と同じ帳簿に貼り継がれていました。この2つの文書は、1985年に当館で開催された庫外正倉院文書を集めた企画展示「正倉院文書展」で出会って以来、35年ぶりの再会ということになります。両文書がもともと連なっていた正倉院文書はまだ複製未制作であるため、他の帳簿の事例を参考として展示します。

葦浦継手はこの他にも正倉院文書に登場しています。本展示では、宝亀5年(774)3月の借金申請書を展示します。継手は月利15%で850文を借り、1か月で1020文を返済しています。

もう1点の盤龍鏡(ばんりゅうきょう)は、中国の後漢時代につくられた、紋様・文字が鮮明な非常に良質の鏡です。古代史・文字の泰斗は手にした一面の鏡に、どのような視線を投げかけていたのでしょうか。資料をめぐる現代的な視点を交え、それに思いをはせてみたいと思います。

井上辰雄氏は正倉院文書のなかに含まれる正税帳(しょうぜいちょう)(諸国における地方財源である正税の年度ごとの収支決算報告書。中央に提出され、廃棄された後、写経所で再利用されたため、正倉院文書として残りました)の研究でも広く知られています(『正税帳の研究』)。そこで井上氏の研究にちなみ、諸国正税帳のなかから天平8年(736)度薩摩国正税帳を展示します。薩摩国は13郡よりなっていましたが、そのうち隼人郡が11を占めていました。蓆(むしろ)が庸(よう)として貢納されていることも、薩摩国の特徴です。

展示資料

・葦浦継手手実 1幅 井上辰雄氏旧蔵の庫外正倉院文書。
・盤龍鏡 1面 井上辰雄氏旧蔵の後漢時代の鏡。
・答他虫麻呂手実 1通 2002年収蔵の庫外正倉院文書。
・正倉院古文書正集第43巻複製 1巻 薩摩国正税帳。
・正倉院古文書続修第21巻複製 1巻 葦浦継手月借銭解(葦浦継手の借金申請書)。
・正倉院古文書続々修第1帙第4巻複製 1巻 手実帳・手実が抜かれた事例。
・井上辰雄『正税帳の研究』塙書房 1冊 井上辰雄氏による正倉院文書を利用した研究。
・広峯15号墳出土景初四年銘盤龍鏡複製 1面 後漢時代の鏡を模倣した魏時代の鏡。

計 8点(すべて当館蔵)

 

【展示代表】

小倉 慈司 おぐら しげじ (国立歴史民俗博物館 歴史研究系 准教授)

専門は日本古代史および史料学。特に、古代神祇制度の研究、禁裏・公家文庫の研究をしている。宮内庁書陵部編修課主任研究官としての経験を経て、2010年より現職。

 

1) 葦浦継手手実(庫外正倉院文書) 国立歴史民俗博物館蔵

経師である葦浦継手が写経を6巻84紙分おこなったことを知らせる業務報告書。出来高払いであったため、このような業務報告書を提出する必要がありました。もともと他の経師の業務報告書と貼り継がれて東大寺正倉院に伝来していましたが、幕末頃に抜き取られて民間に伝わりました。

2) 盤龍鏡(後漢時代) 国立歴史民俗博物館蔵
向かい合う龍と虎を主な装飾紋様とする中国の鏡です。「宋氏」と作者の銘を入れた鏡で、紀元100年前後ごろに作られました。鏡面の側は絹織物らしき繊維に覆われており、日本の古墳に副葬された可能性が考えられます。