共同研究:中世伊勢神宮領荘園の総合的研究

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共同利用型共同研究

館蔵資料利用型

中世伊勢神宮領荘園の総合的研究

研究代表者 永沼 菜未(本館 資料整理等補助員)
館内担当教員 荒木 和憲(本館研究部 歴史研究系)

研究目的

本研究は、中世を代表する権門神社の1つである伊勢神宮の土地所有と、その支配構造について解明することを目的とする。本研究において調査・研究の対象とする館蔵資料は、「田中穣氏旧蔵典籍古文書(資料番号H-743)」(田中本)のうち、伊勢国度会郡(現三重県)に所在した法楽寺の関連史料(H-743-416,454)26通である。

法楽寺とは、もとは伊勢神宮の祭主が氏寺として建立した寺院である。13世紀後半、中興の祖である通海(醍醐寺権僧正、祭主大中臣隆通息)が別当のとき勅願寺となり、公武および伊勢神宮への祈祷をおこなう公的性格を帯びた寺院へと転じた。そして、鎌倉後期から南北朝期にかけて周辺寺院を末寺化し、地域への影響力を強めたことが知られている。法楽寺については、勅願寺化の経緯や南北朝内乱において両朝の拠点となったことなど、主に政治的な動向との関連から論じる研究が蓄積されている。しかし、法楽寺が地域において果たした役割については、未だ明らかになっていない点が多く残る。

研究代表者はかつて、伊勢国度会郡を対象に、伊勢神宮の荘園制的土地所有について研究論文(『国史学』224,2018年)を発表し、地域寺院を組み込んだ荘園支配体制が築かれていたことを明らかにした。田中本には中世の法楽寺領についての史料がまとまって残っており、そこには法楽寺が多くの伊勢神宮領を管轄していたことが記されている。田中本の法楽寺関連史料は、研究代表者の研究との関わりも深く、中世伊勢神宮領の支配構造を解明する手がかりとなる豊かな内容をもつ貴重な史料群である。

本研究は、法楽寺を単なる地域寺院ではなく伊勢神宮領経営を担う存在として理解することを試みるものである。法楽寺による伊勢神宮領経営の様相を明らかにすることによって、従来は伊勢神宮組織内で完結すると理解されてきた所領経営について、地域寺院を組み込んだ総合的な支配構造の実態を明らかにすることが可能となる。

研究成果の要約

本研究は、国立歴史民俗博物館所蔵『田中穣氏旧蔵典籍古文書』(資料番号H-743)のうち、「大神宮法楽寺領文書紛失記他四通」(H-743-454)および「伊勢国釈尊寺手継案他古文書」(H-743-416)という、伊勢国度会郡(現三重県)に所在した大神宮法楽寺の関連史料25通を検討対象としている。
法楽寺は、もとは伊勢神宮の祭主・宮司を輩出する大中臣氏の氏寺として創建され、鎌倉期には醍醐寺で修行した大中臣氏出身僧が代々寺務を務め、天皇・幕府のために祈禱をおこなう勅願寺と定められた。さらに南北朝期以降室町期まで、醍醐寺三宝院流の同寺座主によって管領されたことがわかっている。

法楽寺は伊勢神宮と醍醐寺に深い関わりをもつ寺院であり、『田中穣氏旧蔵典籍古文書』のうち法楽寺関係史料には、法楽寺の成立・継承や勅願寺化の過程、南北朝動乱期に戦場となったことなどが記されている。小島鉦作氏はは国立歴史民俗博物館に所蔵が移る前から田中本「大神宮法楽寺領文書紛失記」に着目し、本史料についてほぼ唯一の専論を発表している(小島「大神宮法楽寺及び大神宮法楽舎の研究――権僧正通海の事跡を通じての考察――」〈初出1928年。改稿して『伊勢神宮史の研究 小島鉦作著作集 第二巻』吉川弘文館、1985年所収〉)。しかし、所蔵が田中家から国立歴史民俗博物館に移って以降、本史料に注目した論文は未だ確認できていない。

そこで本研究は、これまで部分的な言及に留まっていた『田中穣氏旧蔵典籍古文書』所収法楽寺関係史料について、原本調査にもとづく内容分析をおこなった。また、京都府立京都学・歴彩館所蔵『東寺観智院金剛蔵聖教』の調査をおこない、法楽寺の中興の祖である通海に関する未紹介の文書・記録が存在することを確認した。

1年間の研究の成果として、法楽寺領には多数の神宮領が含まれており、当該所領に対して伊勢神宮と醍醐寺が一種の共存的支配関係を展開していたと想定されることが判明した。今後は、『田中穣氏旧蔵典籍古文書』法楽寺関係史料の分析を通して、伊勢神宮領の収取や膝下地域社会について法楽寺など在地寺院を含む総体的な検討を進める所存である。

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