連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

奈良暦師吉川家旧蔵資料

国立歴史民俗博物館所蔵「奈良暦師吉川家旧蔵資料」は、現在の奈良市陰陽町(いんぎょまち)に居住し、近世に南都暦を作成・頒布していた吉川家伝来の資料群である。吉川家は、陰陽師でもあったので、資料群には、暦に関する資料に加えて陰陽道に関する資料も含まれている。国立歴史民俗博物館では、吉川家資料の情報をインターネット上で公開しており、即日閲覧室で、資料の画像を閲覧することができる〔注1〕。

写真1 明和五年暦

本稿では、延享三年(1746)から明治四年(1871)までの南都暦166点の中から、筆者のお気に入りの暦を2点紹介する。まず、南都暦の内容を説明しよう。写真1は、明和五年(1768)の南都暦の表紙をめくった状態である。毎年の南都暦は、冒頭に、「としとく」(歳徳)や「金神」といった恵方に関する情報が記されている。そして、正月一日から一二月の大晦日まで毎日の暦注が続く。南都暦を初めて見る方でも、平仮名の多さなど、現代の暦との違いは何となくわかるだろう。

写真2 明和五年暦への「稲星」の加筆

さて、筆者は、明和五年の南都暦を初めて見た時、かなり驚いた。その理由は、珍しい書き込みを見つけたからである。写真2の上部を見てほしい。印刷された南都暦の余白に、六・七月頃、「世俗」で「いなほし(稲星)」と呼ばれている星が出たという情報が加筆されている。「稲星」とは、彗星のことを豊年の吉兆と関連付けた呼称である〔注2〕。ちなみに、近世において彗星は、「ほうき星」とも呼ばれた。吉川家の当主が描いたと考えられる彗星を見ると、確かに箒の形に似ている。

写真3 明和七年暦への「孛星」の加筆

また、明和七年(1770)の南都暦にも驚いた。明和七年の暦には、六月から八月までの部分の余白に、いくつも加筆がある。例えば、写真4の矢印のところには、「七月廿八日夜酉ノ刻より丑ノ刻まて北方雲焼ケのごとく煙気立、戌亥ノ方ヨリ卯ノ方ニ至ルマテ赤雲発シテ、南ノ方ハ月夜の曇ルガ如シ、小物の虫マデモ見ユル、此ノ天変天正十年正月十五日夜ニもあり、又寛永十二年七月廿六日ニも有之候(これありそうろう)」と記されている。限られた余白への加筆だが、明和七年の彗星・赤気(オーロラ)について記した他の資料と比べても、充実した情報の質と量である〔注3〕。

写真4 明和七年暦への「赤雲」と「旱魃」の加筆

なぜ吉川家の当主は暦に加筆をしたのか。近世の人びとは「天変」を見て何を感じたのか。吉川家旧蔵資料は、見る者から疑問や関心を引き出してくれる、とても魅力的な資料群である。

写真5 暦掛り記録(嘉永7〔安政元、1854〕)

他にも、吉川家旧蔵資料には、改元や伊勢参りの流行のことが加筆されている南都暦や、旧暦の暦注が加筆されている近代の暦がある。また、暦の作成・頒布の過程がわかる記録もある。

博物館の楽しさは、自分自身で資料と向き合って、何かに気付いたり驚いたりすることにあると思う。展示や刊行物を通じて吉川家旧蔵資料と出会ったら、ぜひ、資料をじっくり味わってほしい。

※注
注1 歴博ウェブサイトの「即日閲覧業務」のページを参照。
注2 杉 岳志「書籍とフォークロア―近世の人々の彗星観をめぐって―」(『一橋論叢』134-4、2005年)。
注3 天文現象に関する近世の記録は、大崎正次編『近世日本天文史料』(原書房、1994年)などを参照。

 

小田 真裕(船橋市郷土資料館/日本近世史)