連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

「高松宮本」の年号関係資料

国立歴史民俗博物館が所蔵する資料の中に「高松宮家伝来禁裏本」(以下、「高松宮本」と略称する)と称されるコレクションがある。これは近世に存在していた世襲親王家の一つ有栖川宮(ありすがわのみや)家に伝来した資料群で、江戸時代中期の霊元(れいげん)天皇が自身の子どもである有栖川宮第五代職仁(よりひと)親王に賜与したものが根幹となっている。有栖川宮は近代に入り、1913年に威仁(たけひと)親王の死去によって断絶し、大正天皇第三皇子宣仁(のぶひと)親王が高松宮の称号をもって有栖川宮家の祭祀を受け継ぐこととなったため、有栖川宮家の資料は基本的に宣仁親王に引き継がれることとなった。宣仁親王は1987年に亡くなり、それらの資料は親王妃喜久子より文化庁と宮内庁書陵部に分けて寄贈され、文化庁寄贈分が国立歴史民俗博物館に移管され、現在にいたっている。大雑把に言えば、国立歴史民俗博物館現蔵分は霊元天皇の賜与書(その中には霊元天皇の先代である後西(ごさい)天皇の収集書も含まれている)に由来し、宮内庁書陵部現蔵分は有栖川宮家収集分に由来するが、多少の出入りがある。こうした経緯から、高松宮本には近世朝廷に関わる資料が数多く含まれている。

図1 『改元仗議公卿交名』高松宮本(本館蔵 H-600-1037)

「萬(万)治元年」の項までが後西天皇、「寛文元年」からは霊元天皇の筆跡。寛文6年(1666)頃、本書を譲渡された
霊元天皇が以後を追記した。寛文元年は後西天皇の筆跡を意識しているが、以後は自由に記している。

近世の年号は、幕府の承認を必要としながらも、基本的には朝廷によって定められた。したがって天皇・上皇は年号・改元についての知識を蓄えておく必要があったのである。そのため、当然、高松宮本の中にも年号関係資料が伝来している。その中で興味深いのが『改元仗議公卿交名(かいげんじょうぎくぎょうきょうみょう)』という資料である(図1)。これは11世紀末以降の年号について、その年号を決めるときの会議(仗議)に参加した公卿の名前を列挙したものであるが、万治(まんじ)元年(1658)までが後西天皇の筆跡で、それ以降は霊元天皇の筆跡によって書き継がれている。すなわち本書は後西天皇によって作成されたが、寛文六年(1666)に両天皇の父である後水尾(ごみずのお)法皇の命によって霊元天皇の所蔵となり、霊元天皇は貞享(じょうきょう)四年(1687)の譲位後も改元に関与しつつ本書に書き入れを行なっていったのである*1。延宝度(1673年。天皇は霊元)や貞享度(1684年。天皇は霊元)・宝永度(1704年。天皇は東山(ひがしやま))改元の際の文書が高松宮本の中に伝来しているのもそのためであろう*2

図2 『五条為庸年号事』高松宮本(本館蔵 H-600-6-3)

内々の年号勘文。年号字とともにその出典(引文)が
記されている。このときは最終的に「延宝」が選ばれた。

図3 『年号事』高松宮本(本館蔵 H-600-205-03-17)

宝永度の年号選定に際し、内々に提出された
年号字の候補(内勘文)をまとめて書写。

図4 『年号事』高松宮本(本館蔵 H-600-205-03-15)

霊元上皇宸筆。図3等の内々に提出された年号字候補について霊元上皇が検討を加えている。

 

*1 小倉真紀子「近世禁裏における六国史の書写とその伝来」(田島公編『禁裏・公家文庫研究』三 2009年)参照。
*2 野村玄「旧高松宮家伝来東山天皇宸翰と宝永改元」(『国立歴史民俗博物館研究報告』160 2010)も参照。

小倉 慈司(本館研究部/日本古代史・史料学)