連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

執念がもたらした宝物 ~ 高句麗広開土王碑 水谷悌二郎氏旧蔵原石拓本 ~

広開土王碑とその拓本

歴史の教科書にも登場する高句麗の広開土王碑は、四世紀における日本列島と朝鮮半島の動向を、ほぼ同時代において記録した、稀有な歴史資料である。

中国の吉林(きつりん)省集安(しゅうあん)市に所在するこの石碑は、高句麗の広開土王(在位三九一~四一二)の事蹟を後世に示すために、四一四年、子の長寿王が建てたもので、高さ六・三九メートル、基底部の周囲約七・二九メートル、重さ約三〇トンの、方柱状の自然石の四面に、一七七五文字が刻まれている。古代東アジアを代表する石碑と呼ぶにふさわしい巨碑である。最近では二〇一二年に広開土王碑と内容がよく似た「集安高句麗碑」が発見され、広開土王碑は再び注目を集めている。

石碑は一八八〇年に発見されたが、一五〇〇年あまりの歳月を経て、碑の表面はかなり風化し、文字が読み取りにくくなっていた。そこで、石碑の文字を読み取るために、発見直後から石碑の文字を写し取るためのさまざまな墨本が作られたのである。それは大きく「墨水廓塡本(ぼくすいかくてんぼん)」「石灰拓本」「原石拓本」の三類型に分類される(武田幸男(たけだゆきお)『広開土王碑墨本の研究』吉川弘文館、二〇〇九年)。

このうち、最も長期にわたり、最も数多く製作され、最も広く流布した墨本が石灰拓本であった。石灰拓本は、当時の中国人拓工が、拓本をとりやすくするために、碑面に石灰を塗布して碑面を平滑にした上で拓本をとったもので、石灰を塗布することにより、曖昧な文字を明瞭に拓出する効果をはたしたのである。

ところが石灰拓本には大きな問題がある。それは、石灰の塗布により文字を明瞭に拓出する過程で、本来の文字とは異なった文字を作り出してしまっている部分もあるため、碑文の正確な解読には適さないことである。すなわち学術的には価値が低い拓本ということになる。石灰拓本はむしろ商品として広く流通したのである(三上喜孝「再生産される広開土王碑」『歴博』一九五、二〇一六年)。

学術的に価値が高い拓本は、石碑に何の加工も施さず、発見当時の石碑の文字をそのまま拓出した「原石拓本」である。その原石拓本を追い求め、初めて発見し、初めて研究の俎上に載せた人物がいた。水谷悌二郎(みずたにていじろう)(一八九三~一九八四)である。

図1 図2
歴博では、2010年度企画展「アジアの境界を越えて」(図1)、2014年度企画展「文字がつなぐ 古代の日本列島と朝鮮半島」(図2)において、水谷原石拓本をもとに広開土王碑の大きさを表現した。

水谷悌二郎と原石拓本

「水谷悌二郎氏は、広開土王碑に情熱と執念をかけた人である。不屈の探究心をもって王碑の研究に集中し、生涯を通じて本格的な王碑の研究に挑みつづけた人である。ひとり野に在り、ひそかに結実した研究は、やがて論文「好太王碑考」として現れた。それによって研究水準は一気に上昇し、王碑研究の流れは大きく転回して、百年来の研究史に一期を画したことは、いまでは周知の事実である」と武田幸男氏が評するように(「水谷悌二郎の「原石拓本」研究」前掲書)、水谷悌二郎は在野にあって広開土王碑の研究に執念を燃やした類い稀なる研究者であった。

水谷は、広開土王碑の石灰拓本を入手したことがきっかけで銀行勤めをなげうち、一九二七年、三三歳のときに東京帝国大学の文学部聴講生として再入学した。これ以後、広開土王碑の研究に没頭することになる。

東京空襲が激しさを増す一九四五年五月一五日、水谷は江田文雅堂という古書店で、ついに長年追い求めていたものを入手する。このときの様子を、水谷は日記にこう記している。「午前七時半、数ヶ月振リデ東京ヘデル。……真砂町文雅堂病(一月カラ四月マデ病ンダト)後ノ主人ニ請フテ、好太王古拓本ヲ見ル。正に最初拓本間違無シ。鬼神呵護ヲ得タルモノダ。…生命ヲ延シテ研究ヲ完成シタイ。一旦帰宅。……一時半又出デテ、三時半文雅堂。四〇〇円ヲ内金トシテ宝物ヲ獲。五時半迄帰宅」(武田幸男『広開土王碑との対話』(白帝社、二〇〇七年)。このとき入手した拓本こそが、原石拓本だったのである。

水谷による原石拓本の発見により、真に学術研究の名に値する広開土王碑研究が始まったといってよい。武田氏によれば、原石拓本は碑石が発見された一八八〇年直後から一八九〇年頃までに制作され、現存する原石拓本は一三本にのぼるという。最も有名なのは北京・琉璃廠(るりしょう)の名拓工・李雲従(りうんじゅう)が一八八九年に手拓したものであり、水谷の原石拓本もこれに含まれる。そして現在、水谷悌二郎氏旧蔵の原石拓本(以下、水谷原石拓本と呼ぶ)は、本館が所蔵している。

図3
水谷原石拓本調査風景(2016年3月9日)
図4

歴史資料自在閲覧システム
水谷原石拓本は脆弱であり原本観察を頻繁に行うことができないため、歴博では高精細のデジタル画像により文字を観察するシステムを開発した。写真は、第I面第9行、上から6字目の「倭」。

 
図5
第I面上段の基本用紙貼り合わせ図
 

水谷原石拓本の調査

武田幸男氏を中心とする研究グループは、長年にわたり広開土王碑墨本の資料調査をおこなってきた。おもに石灰拓本を中心に全国各地に残る拓本の類型化や編年をめざし、拓本の着墨パターンや拓出文字の特徴、さらには拓紙を構成する料紙(基本用紙)の規格やその貼り合わせ方など、細かな点に注目しながら拓本の観察をおこなうのが、調査の手法である。

二〇一六年三月九日と一〇日の二日間にわたり、武田氏を中心とする研究グループ(武田幸男、北村秀人、大井剛、土居邦彦、赤羽目匡由、稲田奈津子、三上喜孝)による水谷原石拓本の調査がおこなわれた(図3)。水谷原石拓本は、もちろん写真等により公開されてはいるが(図4)、実際に拓本の料紙(基本用紙)がどのように貼り合わせているかといった、モノそのものとしての調査自体はおこなわれてこなかった。このときの調査はこうした点を中心に進められた。

巨大な石碑の拓本をとる作業は容易ではない。当時の拓工は、碑の文字面を覆うように小さな基本用紙を縦横に何枚も貼り合わせ、碑の四面を採拓した。そしてこのときの基本用紙の規格やその貼り合わせ方には、時期によって違いが見られることが、これまでの石灰拓本の調査で明らかになった。ところが原石拓本については、これまでそのような調査がおこなわれたことがなく、基本用紙の規格やその貼り合わせ方を知ることが第一の課題となった。
調査の結果、拓紙を構成する基本用紙の規格が一辺の長さ四七センチ前後の正方形であることや、碑の文字面を覆うように基本用紙を縦横に貼り合わせる作業を一つの碑面につき二度おこない、拓紙を二層に重ねて拓本をとったことがわかった。これらは、石灰拓本には見られない特徴である。

調査結果を示したものが図5であるが、これだけを見ても何のことやらわからないかも知れない。一つ言えることは、原石拓本の基本用紙の規格やその貼り合わせ方は、これまで調査してきた石灰拓本のそれとはまったく異なるという事実である。他の原石拓本についても同様の調査を行えば、原石拓本の「モノとしての特徴」が明らかになっていくであろう。調査成果の詳細については別稿を期したい。

水谷氏が手に入れた「執念の宝物」、広開土王碑原石拓本は、発見から七〇年以上たったいまもなお、私たちに数多くの課題を投げかけている。

図6
広開土王碑水谷原石拓本
各面につき拓本が上段・中段・下段の3段に分割されている。

三上 喜孝(本館研究部/日本古代史)