連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

『隆房卿艶詞絵巻』に見える葦手 ―王朝絵巻のかな文字絵―

平安時代は、よく知られているようにひらがなが生まれた時代であった。奈良時代に編纂された日本現存最古の歌集『万葉集』においては、漢字の音や訓(字義)を用いて日本語を表記することが行なわれているが、そのような表記は正倉院文書や木簡・金石文、さらに朝鮮半島の石碑や木簡などにも見出される。これはそもそも「卑弥呼」などの例があるように、外国語の音に漢字を当てて表記する方法は中国で生み出されたものであるが、やがて自らのコトバを書き表わすために周辺民族で用いられるようになり、朝鮮半島を通じて日本列島にもたらされたのだと考えられる。そしてそれは、カタカナとひらがなを生み出すことにつながった。

カタカナは漢字の一部分(省画)をもってその漢字音を表記する方法で、これまで九世紀初頭に日本で生み出されたと考えられてきたが、近年、七世紀末や八世紀の新羅写経に書き込まれた新羅語のなかに省画が発見され、カタカナのルーツが新羅にあった可能性が高まった。七世紀後半から八世紀前半にかけての新羅の学者(ソルチョン)薜聡(せつそう)が、『三国史記』や『三国遺事』に「方言」(新羅語)をもって儒教の経典を読んだ、訓解した、と伝えられていることは、あるいはこうした動きとも関連するのかもしれない。

図1 『隆房卿艶詞絵巻』詞書部分 図2 『隆房卿艶詞絵巻』第一段「のどかに」
図3 『隆房卿艶詞絵巻』第二段「木たかき」「としたち」

カタカナが漢文の訓みを示すものとして生まれたのに対し、ひらがなは漢字をくずした書体で書くところから生まれた。しかもひらがなが誕生してまもなく、かなり早い段階から連綿体(続け書き)も生まれた。このことは、文字情報を正確に伝えることを重視するカタカナとは異なり、ひらがながわかりやすさ・正確さを第一義とはしていなかったということを意味するのであろう。ひらがなは、和歌や書状など、親しい関係にある個人間のやりとりに用いられたのであり、筆跡から筆者が特定できるほどに、筆者の個性や心情が込められたものであった。

さて、こうして誕生したひらがなは、さらに様々な書体を生み出した。その一つが「葦手」である。「葦手」という語の史料上の所見は延喜二一(九二一)年に宇多上皇の後宮であった藤原褒子が主催した歌合を記した『延喜二十一年京極御息所(きょうごくのみやすどころ)褒子歌合』十巻本に「青鈍(あおにび)の裾濃(すそご)の裳に雌黄(しおう)して葦手かけり」と見えるものであるが、具体的にどのようなものが書かれたのかは明らかでない。ただ天禄四(九七三)年の『天禄四年円融院・資子内親王乱碁歌合』、また後の事例から推測するに、葦が生えている水辺を描いた絵のなかにひらがなを描き込んだ文字絵と見て良いであろう。『宇津保物語』や『源氏物語』にも葦手で歌を書いたことが記されている。

「葦手」の実例は平安後期以降のものが確認されているが、国立歴史民俗博物館には鎌倉時代の作品が収蔵されている。一二世紀後半、公卿藤原隆房(たかふさ)と小督(こごう)との悲恋の物語を墨だけを用いて描いた(白描)『隆房卿艶詞絵巻』である。男(隆房)と女(小督)は恋仲であったが、女はその美貌により天皇(高倉天皇)のもとに召し出され、やがて皇女を出産する。一方、男は女のことがいつまでも忘れられず、苦しい日々を過ごすという内容である。冒頭には金銀泥下絵に詞書(ことばがき)が記され(図1)、ついで葦手を交えて場面が展開していく。

図4 『隆房卿艶詞絵巻』第三段
図5 『隆房卿艶詞絵巻』第四段

「のとかに」

「木たかき」

「としたち」
図6 『隆房卿艶詞絵巻』の葦手

第一段には桜の幹が「のとかに」と記され、小督と高倉天皇が清凉殿にて月をながめて過ごす場面が描かれる(図2)。第二段は老松にからまる藤の蔓(つる)が「木たかき」と記され、憂いに女房たちと隆房、さらに別棟に手紙らしき紙束を傍らに置く小督と思われる人物が描かれ、その外の庭には柳と梅と梅の幹に「としたち」と記される(図3)。第二段の前半は初夏であり、後半は早春であって、そこには時間差が存在する。第三段には清凉殿台盤所に集う女房たちと、昼御座(ひのおまし)にて向かい合う高倉天皇と隆房、それに小督が描かれる(図4)。第四段は小督への思いを断ち切ろうとして隆房が北野社に参詣する場面を描く(図5)。最後に隆房の乗る牛車が竹叢のある家の前を通りかかるところで画面は終わるが、それはかつて小督が暮らしていた家という設定なのであろう。

隆房と小督の悲恋は『隆房集』や『平家物語』などによって当時広く知られたところであり、それを踏まえてこの絵巻は作成されたと見られる。本絵巻には描かれていないが、高倉天皇の寵愛を一身に受けた小督は、皇后徳子の父平清盛(隆房の舅でもある)の怒りを買い、宮中より放逐され尼にさせられてしまう。小督が皇女出産後、再び内裏に参入することなく尼となったことは同時代の記録にも記されており、事実であったらしい。
白描(墨絵)部分は絵を主体とし、記された葦手は多くはないが、それだけに効果的に用いられている。三箇所の葦手(図6)はいずれも詞書より抜き出した言葉である。鎌倉時代後期という成立時期の推定からも、能書家であり和歌など文芸にも優れていた伏見院を中心とする宮廷周辺で製作されたと推測される。

なお、葦手はこれ以降も行なわれ、広く文字を用いた意匠一般を指すようにもなる。文字絵という観点からは、このほか「へのへのもへじ」に代表される文字を組み合わせて絵とする組み合わせ文字絵との関係も検討すべきであろうが、後考を俟ちたい。

小倉 慈司(本館研究部/日本古代史)