連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

「越前島津家文書」に伝わる琉球国王の書状

本館が所蔵する「越前島津家文書(えちぜんしまづけもんじょ)」は、薩摩藩島津氏の一族である重富(しげとみ)島津家に伝えられた文書群である。本文書群は、播磨国下揖保荘(はりまのくにしもいぼのしょう)(兵庫県たつの市)の地頭として当国に根を張った、島津氏の祖忠久(ただひさ)の二男忠綱(ただつな)が興した越前島津家(忠綱は越前国守護代(しゅごだい)として一時当国に居住したことに因む家名)の所持した中世文書群と、元文(げんぶん)二年(一七三七)に前藩主島津吉貴(よしたか)が二男忠紀(ただのり)に越前家の名跡を継がせて再興した重富島津家の所持した近世文書群とからなる。重要文化財にも指定されている、本館が所蔵する文書群のなかでも有数の文書群である。


図1 「越前島津家文書」が納められた漆器
 


図2 中山王尚穆書状が収められた
「越前島津家文書」巻五

さて、この「越前島津家文書」のなかに、一通の琉球国王(中山王(ちゅうざんおう))の書状が伝わっている(図3)。本館は膨大な文書史料群を所蔵するが、本館が所蔵する琉球国王の書状は、実は「越前島津家文書」に収めされているこの一点のみである。そもそも、これまで「越前島津家文書」は、中世文書群ばかりに注目が集まってきたこともあり、この琉球国王の書状は日の目を見ることがなかったように思われる。そこで本稿では、この「不遇」の史料をご紹介したい。下に全文を掲げよう。


図3 中山王尚穆書状
 

[書き下し(本文のみ)]
一筆啓達(いっぴつけいたつ)仕(つかまつ)り候(そうろう)、弥(いよいよ)御堅固(ごけんご)の御勤仕珍重(ごきんしちんちょう)の御事(おんこと)に候、随(したが)いて太平布(たいへいふ)五疋(ごひき)之(これ)を進覧(しんらん)致(いた)し候、聊(いささ)か書信迄(しょしんまで)に御座(ござ)候、恐惶謹言(きょうこうきんげん)、
[法量] 縦20.7cm×横55.1cm

最初に、この書状の発給者(はっきゅうしゃ)と宛先を確認しよう。発給者は、琉球王国第二尚氏(しょうし)王朝の第一四代国王尚穆(しょうぼく)である。尚穆は、中国から任命された「中山王」の称号を使用したことがわかるが、これは当然のことながら、薩摩藩の許可を得ての行為だった。実は、琉球国王は薩摩藩に服属したことにより、日本の幕藩体制に組み込まれた存在だったため、寛永(かんえい)一二年(一六三五)以来、「琉球国司」と名乗るように薩摩藩から命じられてきた。しかし、正徳(しょうとく)二年(一七一二)、幕府が将軍の外交名義を「日本国大君(たいくん)」から「日本国王」に復したのを機に、薩摩藩も琉球国王に対し琉球国司から中山王への復号を許したのだった。

一方、宛先の「嶋津周防(すおう)」だが、本書状は年号が記載されていないうえ、後述するように、内容的にも特定の年代を絞り込むのが難しいため、不明といわざるをえない。候補を挙げるならば、一七五二~九四年という尚穆の在位期間を踏まえると、重富島津家の初代忠紀(一七三四~六六年)か、二代忠救(ただすく)(一七六四~一八二七年)のどちらかとなる。

次に、内容を確認しよう。まず一目見て注目されるのは、書体が典型的な御家流であること、そして小竪文(しょうたてぶみ)(竪文は竪紙(たてがみ)に書いた書状、竪紙は一枚の紙を折らず横長のまま縦に用いた紙)に日本通用の書式(和文体=和様漢文)で書かれてあることである。正徳五年(一七一五)、薩摩藩は琉球に対し、国王の書状は小竪文に和文体で作成するように命じた。おそらく、琉球に日本の支配下にあることを自覚させるための措置と考えられるが、本書状もこの薩摩藩の命令通りに作成されたことがわかる。すると、書体が御家流であることも、薩摩藩の同様の意図にもとづく命令に沿ったものと考えられる。琉球国王は、薩摩藩主と頻繁に書状のやり取りをしていたことに鑑みると、御家流は国王の右筆(ゆうひつ)が習得したと推測される。

本文は、書き出しが「一筆啓達仕候」で、書き留めが「恐惶謹言」という、とても丁重な書式となっている。島津家一門の筆頭に位置づいた、重富島津家の当主に対する書状にふさわしい書式といえる。続いて本文の内容だが、口語訳してみると、「ますますご活躍とのこと、めでたく存じます。太平布を五疋進上いたします。取り急ぎお手紙まで。」ということになろう。特定の働きに対する感謝状ではなく、定型的な挨拶文となっている。例年、琉球国王は薩摩藩主に対し、春から夏にかけての時期に挨拶の使者を送っていた。本書状の日付も四月三日であり、この時期に該当することからも、本書状は国王から重富島津家への定例の挨拶状として送られたものと見てよいだろう。

しかしながら、定例の挨拶状だとすると、このようなさして貴重でもない書状がわざわざ残されたのはいったいなぜか、気になるところである。残念ながら、その理由は不明だが、この種の書状があえて一通のみ残されたという事実に着目すると、本書状は琉球国王が初めて重富島津家に送った定例の挨拶状であり、重富島津家ではこのことを記念するべく残したと推測できよう。この推測が妥当だとすると、本書状の宛先である「嶋津周防」は、忠紀となる可能性が高い。ちなみに、贈り物の太平布とは、宮古(みやこ)や八重山(やえやま)で生産された上質の苧布(ちょふ)のことである。江戸時代には、多くが藩庫に入れられて大坂や江戸の市場に売り出され、薩摩藩の財源を支えた物資でもあった。

定例の挨拶状が、贈り物とともに琉球国王から重富島津家に届けられていたとすると、両者の間には日常的な交流があったことが想定できる。すると、重富島津家は、薩摩藩において琉球に関わる何らかの役目を果たしていたと考えられる。薩摩藩における藩主一門の役割とは、いかなるものだったのか。「越前島津家文書」に豊富に残されている近世文書群について、藩主やほかの一門が残した文書群と関連づけながら分析を進めることで、この課題に迫ることができるだろう。冒頭で述べたように、これまで「越前島津家文書」は、中世文書群ばかりが注目を集めてきた。しかし、今後、近世大名島津氏ならびに薩摩藩の研究を進めるうえでも、「越前島津家文書」が大いに活用されることを期待したい。

 

田中 大喜(本館研究部/日本中世史)