連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

「帝国日本」時代の地球儀

珍しい戦前地球儀

2013年、歴博では一体の地球儀の寄贈を受けた(図1)。寄贈者は、横須賀市ハイランドという珍しいカタカナ地名にお住まいの方である。地球儀は京都府何鹿(いかるが)郡中筋(なかすじ)村(現綾部市上延町)で農業を営んでいた寄贈者の祖父(1867〜1942年)が購入したもので、同型の一体を地元の中筋村尋常高等小学校に寄贈し、もう一体を孫たちのために残したという。学校教材ということもあり、縦43センチ、横44センチ、高さ56センチメートルという比較的大型のもので、1932年3月に建国宣言をおこなった「満州国」が描かれていること(図2、3)、購入者である祖父の没年に鑑みて、1935〜40年頃に製作、購入されたものと考えられる。

製作は合資会社地文館、神戸と東京に会社を置いていたと見えるが(図1南極側の記載)、京都大学所蔵近代教育掛図データベースによれば、神戸市山手通五丁目に本社があった会社であり(代表窪田苗美)、昭和初期にいくつかの世界地図を製作・販売していた会社である。樋口米蔵『地図教材を作って半世紀』(グローバルプランニング、2012年)によれば、1930年代から高度成長期までの地球儀製作は「主に大阪に集中」していたというが、同社はその近隣に位置していたことになる。

ところで、この地球儀の製作・販売を調べていく過程で、戦前の日本帝国時代の大型地球儀はかなり珍しいことが分かってきた。最初にご教示いただいたのは、埼玉県の渡辺教具製作所(地球儀の製作・販売を中心とするメーカー)に付置された地球儀・天球儀に関するミニ博物館館長の渡辺美和子氏であるが、敗戦後、帝国時代の地球儀のほとんどが学校現場で廃棄され、現在までその時代の地球儀が残っているのは稀(まれ)とのことであった。前掲樋口も、連合国軍総司令部による修身・国史・地理の授業停止とともにそれまで全国の学校にあった掛地図はほとんど破棄させられたというが、地球儀もまた同様の措置を講じられたのである。こうして地球儀をめぐる歴史もまた、戦時教育から占領期教育改革への推移の断面を体現したものであることが見えてきた。

であれば、孫に残された地球儀の片割れである村の小学校に寄贈された地球儀は恐らく廃棄の運命を辿ったのであろう。中筋村は、1899年明治の町村合併で誕生した村であり、人口は明治〜昭和戦前期2,000人余の村であるが、農業を中心とし、とりわけ全農家に対する養蚕農家率七割(1932年)という蚕糸業地帯であり、グンゼ製糸の発祥の地である。中筋尋常小学校は1887年に創立され、1907年に尋常高等小学校となった。1935年当時の児童数323人、1940年424人とある(『中筋村誌』1960年)。この児童たちに、寄贈された地球儀はどのように活用されたのだろうか。同村史も敗戦直後の総司令部指令で「修身・国史・地理の三教科の授業は禁止」され奉安殿は取り壊した、と記す。

図1 2012年に歴博に寄贈された地球儀

図2,3 1932年に建国した「満州国」が描かれている

図4 慶應4年、明治天皇の即位式のおりに使用された日本製大地球儀(秋岡武次郎『地球儀の用法』より)

 

 

近代日本と地球儀

平面的な地図と異なり、地球儀は中心をおかない「無機的な地理情報」ではあるが、近世の代表的な地球儀制作者である沼尻墨僊(ぼくせん)が1855年(安政二年)作成の「大輿地球儀(だいよちきゅうぎ)」(最初の印刷による普及型地球儀)の収納箱の付け文中に「専ら我神皇国を以て一地球の中土となし」と記したように、必ずしも国家観と無縁ではない(千田稔『地球儀の社会史』)。そして、明治天皇即位式でも地球儀が利用された。『明治天皇紀』第一(吉川弘文館、昭和43年)は、神祇官判事福羽文三郎が「嘗(かつ)て権(ごん)中納言徳川斉昭の孝明天皇に進献せし地球儀を奉幣案に接して安置せんことを建議す。蓋(けだ)し斉昭の意たるや、宇内(うだい)の体制を洞観し、皇威を四表に発揚せんことを庶幾(しょき)せるに外ならず」と記す。四表は天下を指す。しかし、当日雨のため構想どおりにならなかった(図4)。

 

図5,6 師範学校編纂『地理初歩』

図7 塩津貫一郎訳『地球儀問答 全』

図8 久保譲次訳『地球儀用法 全』

しかし、明治初年の学校教育ではこうした国家観の影は見えない。師範学校編纂『地理初歩』(明治7年8月改正、文部省刊行)は「人民居住する所の地球は一の行星(こうせい)にして其形円きこと殆ど橙の如し」「此地球表面の事を知り得る学を「ゼオガラヒ―」と云ふ」(行星とは惑星の意)と丸き地球の話から始まる(図5、6)。その他、翻訳によるテキストということもあるが、塩津貫一郎(しおずかんいちろう)訳『地球儀問答 全』(明治8年12月刊、学校必用、京都書林)では、挿絵図がインド洋中心に描かれ、地球儀とは、なぜ地球というか、自転と公転、太陽系、緯度、経度、地球の気候、大陸、海洋等の話に展開し(図7)、久保譲次(くぼじょうじ)訳『地球儀用法 全』(明治7年9月、東京・松栢堂)もまた、日本が東の端におかれ、地球儀とは、地球とは、太洋と大陸とは、地球の方向、寒国と熱国などの説明が続いている(図8)。総生寛(ふそうかん)編輯『小学 地球儀教授書 全』(明治8年11月、東京書林)では、地球上の日本の位置を「東半球亜細亜の東邉に表立し」、中国を「支那は亜細亜州三分の一を領し」、朝鮮は「満州遼東に接し海中に突出したる半島を言ふ」と淡々と説明する(図9)。中筋村がある京都府の1885年(明治8年)の下等小学教則によれば、地球儀を含む地理の初歩教育は六級でおこなわれていた(『京都府百年の資料 五 教育』)。入学児童は八級からスタートし、首尾良くいけば四年間で一級まで終了して卒業する仕組みであった。しかし明治初期の自由発行から認可制、さらに国定化に向かう教科書教育の確立に並行して必須の授業教材としての地球儀教育は後退し、明治20年代には地球儀は学校が備えておくべき「校具」の一つとしての位置付けになっていった。地図学者、そして古地図のコレクター(コレクションの一部は歴博に寄贈されている)として著名になる秋岡武次郎(あきおかたけじろう)『地球儀の用法』(小光社、昭和8年3月)が、「地球儀の用途及び用法に就ては我が国人には比較的に了解されをらざる様である」と同書の冒頭に述べざるを得ない状況になっていったのである。

図9 総生寛編輯『小学 地球儀教授書 全』

図10 『教育必須参考書 地球儀の話』

帝国の時代と地球儀

学校教育での地球儀の復活は、国家主義的な価値観の広がりを援軍として展開されようとしたかのようである。文部省認定『教育必須参考書 地球儀の話』(東京 聯邦(れんぽう)社発行、大正15年3月)は、「地球儀を動かす手は世界を動かす手」として、先の明治天皇即位で取り入れた地球儀の事例を紹介し(図10)、将来の新日本国民育成に地球儀を活用することを説いた。同書の解説では、日付変更線の説明で、「我が国は真の日の本」と題し、「著名な独立国の内では日本の日付は世界各国中最も早」く、新年の初日影は日本を先ず照らし最後にアメリカを照らす、と述べる。満州事変後に刊行された前掲秋岡武次郎『地球儀の用法』では、明治天皇即位礼で使用された地球儀の写真とともに、地球儀の上に乗る幼少時代の昭和天皇と秩父宮が紹介されている。また、同書の「地球儀による時刻に関する測定」では、日本はアメリカや中国なみに五種の標準時名称を持つことが強調された(日本中央、日本西部、南洋諸島東部、南洋諸島中部、南洋諸島西部の五種、ただし、日本中央と南洋諸島西部の時刻は同一なので時刻の種類は四つ)。国家主義は、地理教育、地球儀の教育に深い影を落とし、そのことが占領軍による地理教育禁止、掛図・地球儀の廃棄に繋がったと言えようか。高度成長期の各家庭への地球儀の普及は、こうした帝国時代の歴史と表面的には切断された所で、日本列島に閉じた小さな領土の日本が経済大国に踏み出す過程で展開されたのである。

荒川 章二 (本館研究部)