連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

古代出土文字の画像の公開を目指して

一 赤外線テレビ―漆紙文書への適用

漆塗りの作業では常に漆を良好な状態に保つために、和紙を漆液の表面に密着させてふたをする。これを“ふた紙”とよぶ。漆工人の用いる“ふた紙”は古代では多くの場合、役所の公文書の反故(ほご)を使用した。このような、漆のふた紙に利用され地下に遺存した文書が“漆紙文書”である。しかし、出土する漆紙文書は表面が風化したり、漆などに覆われたりして、ほとんどは肉眼で文字を読みとることが難しい。

一九七七(昭和五二)年、宮城県多賀城跡で初めて漆紙文書が発見された。当初、肉眼で解読したものの、資料としてどのように提示するかということから、一九七八(昭和五三)年五月、出土文字資料解読に初めて赤外線テレビを使用したのである。人間の視覚器官すなわち肉眼は、波長が〇・三八~〇・七八μm(一〇〇〇分の一ミリメートル)の範囲(可視光)の電磁波(光)に感覚を持っている。一方、赤外線用ビジコン(撮像管)の感度は〇・八~二・四μmであり、墨書の検出において肉眼よりはるかに高い検出力を発揮する。

赤外線用ビジコンは、操作が簡単で、普通のテレビにそのまま挿入するだけで、赤外線用テレビとして用いることができ、その赤外線テレビの映像を撮影するのである。

一九八〇年には、茨城県石岡市の鹿の子C遺跡から全国最大量の漆紙文書約三〇〇点が出土した。これらの膨大な漆紙文書の調査研究報告は茨城県教育財団から『常磐自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告書5 鹿の子C遺跡漆紙文書』として、一九八三(昭和五八)年に刊行された。『報告書』の中の写真は、例えば戸籍と具注暦(第66・67号文書)の全体写真はワンショット写真であるために不鮮明である。報告書には、見取図が掲載されているが、周知のとおり、見取図は調査者による一つの解釈である。やはり、出土文字資料は鮮明な写真を掲載・公開しなければ、第三者による検討はむずかしい。そこで、現所蔵者である茨城県石岡市教育委員会と協議し、解読調査後、発掘当時の状態すなわち断片のまま収蔵されている現状は、資料管理上好ましくないと判断し、歴博に全点借用し、ほぼ二年かけてすべて原状復元・接合し、新たに写真撮影を行い、部分写真を貼り合わせ、より鮮明な全体写真も完成させた。

二 木簡・墨書土器画像

この赤外線テレビカメラは、漆紙文書だけでなく、木簡や墨書土器などにもきわめて有効であることが判明した。古代国家が国分寺や大和の興福寺、薬師寺などの大寺院を公費によって経営するために、各国に本稲を割り当て、利息を得る出挙制が東国社会でも着実に実施されていたことが、一九九七(平成九)年、埼玉県児玉町山崎上ノ南遺跡出土の一点の木簡で見事に証明された。

〈釈文〉
 檜前マ名代女上寺稲肆拾束
     宝亀二年十月二日税長大伴国足

この木簡は、「檜前マ名代女(ひのくまべのなしろめ)」という女性が七七一(宝亀二)年一〇月二日に寺の稲「肆拾(四〇)束」を納めたことを郡の税長(税務担当の責任者)「大伴国足」が記録した札である。一〇月二日は稲の収穫直後にあたり、「寺稲」は武蔵国の場合、薬師寺の「出挙稲四万二千束」が割り当てられていた。

この遺跡出土の木簡については、出土直後に木簡学会『木簡研究』第二〇号(一九九八年)に、釈文と略測図が児玉町遺跡調査会の大熊季広氏によって紹介されている。しかし、諸事情により本遺跡の調査報告書は刊行されなかった。したがって、歴博における本木簡の写真は、歴博で撮影した写真によって、はじめて公開されることになるのである。

一九八〇年代に発掘調査された千葉県八千代市萱田遺跡群といわれる権現後遺跡・北海道遺跡・井戸向遺跡・白幡前遺跡の四遺跡出土の墨書土器の総点数は一,四七〇点という全国最大の数量である。これらの膨大な墨書土器全点が次々と歴博の第二調査室に持ち込まれた。何日も赤外線テレビの画面で墨書文字を解読し、そののち全点の写真撮影(マミヤRZ6×7カメラおよびポラロイドカメラ(白黒フィルム)を使用)を行い、レリーズで指先の皮がむけてしまうこともあったほどである。これほどの点数は、それぞれの報告書には、全点数の写真を掲載することができなかっただけに、未掲載写真をも含めて公開していきたい。

三 画像データベース公開に向けて

現在、このような歴博で調査時に撮影した膨大な写真資料の整理・画像データ化作業を行っており、科学研究費補助金基盤研究(A)「古代における文字文化形成過程の総合的研究」および館内の共同研究の一環として、データベース公開を目指している。

写真の整理作業は、まず、写真の遺物がどの遺跡から出土した遺物であるのか照合することから始める。写真の多くは、遺跡報告書の作成に際し、墨書文字を解読することを主な目的として撮影されたものである。特に墨書土器の場合、一つの遺跡から数百点も出土し、一度に持ち込まれることがある。近隣の複数の遺跡から出土したものを短時間で一緒に調査することもある。それらを、後に刊行された報告書記載の遺物番号と再照合させながらカードに整理していく。これは、出典となる報告書に照合することで、遺物の出土情報を得ることができるようにするためである。さらに、これらを県別・遺跡別にまとめ、遺物一点ごとの情報に一枚から数枚の写真カットデータを収めていく。写真カットには、遺物の全体写真のほか、文字の部分拡大写真、漆紙文書の調査作業工程の写真も含めることとした。

例えば、秋田県秋田市の秋田城跡出土第一六号漆紙文書は、死亡した人々の名前と年齢、死亡年月日を書き上げた「死亡人帳」である。この漆紙は、当初二つ折りの状態で出土したが、それを展開し、赤外線カメラにて文字を判読したところ、左文字であった(帳簿の裏面が風化することにより、裏側から文字が左右反転して見えている)。カメラの反転機能を使い撮影することにより、正位文字として判読が可能となった。朱や墨でチェックした部分もはっきりと確認できる。また、第一七号文書は、内側の漆付着により展開できないが、表裏の写真をつなげて展開した状態にすることができる。これらの写真は、調査過程そのものの記録としても意義を持っているのである。

歴博では、これらの調査成果をもとに、秋田城跡出土死亡人帳をはじめとした主な資料の精巧な複製を作成し、展示や研究に活用している。現在は、宮城県多賀城跡出土の漆紙文書や千葉県庄作遺跡出土人面墨書土器などを展示中である。複製により、遺物の形状や肉眼では見にくい文字情報も観察することができる。

現時点で整理が終了している遺跡は、およそ三三〇カ所、遺物数にして三五〇〇点、データ化した写真カットは約八三〇〇枚にのぼり、未整理分を含めるとさらに増える。周知のように、出土文字資料は、時間の経過とともに、多くの場合劣化し、なかには全く墨痕を失うケースもある。それだけに出土直後に撮影された画像はきわめて貴重といえよう。三〇年間にわたり、全国各地の遺跡から出土直後に調査依頼を受けた赤外線テレビの画像写真の蓄積を画像データベースとして公開することは、複製の制作と同様、展示・研究の上で意義のあることである。

「古代出土文字画像データベース」が出土文字資料の所蔵者の御協力を得て、公開され、古代史研究の新たな展開の一助となることを願いたい。

※画像は「総合誌歴博No.180」本誌をご覧ください

平川 南 (国立歴史民俗博物館長)
武井 紀子 (科研費支援研究員)