連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

子どもの考古学―東京都八王子市宮田遺跡出土の「子抱き土偶」―

一口に考古学といっても様々な研究分野が存在する。たとえば、動物の骨を取り上げて、そこから過去の人の行動を復元する「動物考古学」、同様に植物を取り上げる「植物考古学」などはもはや老舗であり、最近では、土に埋まっていた虫の遺骸から過去の環境を探る「昆虫考古学」や過去の人の心のあり方を探る「認知考古学」という分野まで提唱されてきている。このような分野とはやや趣を異にするが、最近しばしば目にするようになったテーマとして、あえて名称をつけるとすれば「子ども考古学」がある。この「子ども考古学」は、文字通り過去における子どもたちを対象としたものであり、その研究内容には、子どもたちがどのような過程を経て成長していくのかといったライフヒストリーを追ったものや、不幸にも亡くなってしまった子どもがどのように埋葬され、そのような埋葬を行う背景にはどのような「想い」があったのかという精神文化に踏み込んだようなものまである。要は、子どもに関連する事象を対象にする考古学ということであって、その内容はなかなかにぎやかである。

確かに、考古学的な資料をみわたしてみると、子どもに関係する遺物が意外に多いことに気が付く。たとえば、粘土の板に子どもの手や足を押し付けて焼成した「手形・足形土版」は、東日本を中心として各地で見つかっているし、中には青森県沖中遺跡出土例のように、まるで赤ちゃんが「おくるみ」を着ているような恰好をした土偶もある。さらには、石川県上山田貝塚出土土偶のように、幼子を背中に背負った女性を写したものもある。埴輪という豊かな人物造形を作った古墳時代には、たとえば茨城県黄金塚古墳出土埴輪のように、子どもに授乳する女性を表したものがある。このような資料は、難しいことは抜きにして、見ていて大変に微笑(ほほえ)ましく感じられる。

国立歴史民俗博物館にも子どもに関する有名な資料がある。東京都宮田遺跡出土土偶がそれである(図1)。この土偶は、高さ七・一センチほどの小さなもので、土偶本体の頭の部分は発見時にすでに欠けていたのであるが、両腕に赤ちゃんをしっかりと抱きかかえている様が造作されている。このため「子抱き土偶」として知られている。お母さんは横座りをしており、単に子どもを抱いているというよりも、あたかも授乳をしているようにも見える。お母さんの方には、沈線で様々な文様が描かれており、特に膝の部分の渦巻きが印象的である。赤ちゃんの方には目や口の表現の他、縄文時代中期前半期の土偶に特徴的なカモメ状の文様が眉間に刺突文で描かれている。しかしながら手足の表現がないところから、この赤ちゃんは何かで包まれていたのかもしれない。当時の日常生活の一光景をうかがわせる逸品である。

図1 東京都宮田遺跡出土土偶 図2 宮田遺跡 昭和43年度発掘調査地区。図中のA4号址から「子抱き土偶」は出土した

ひところは各地で開催される土偶の展覧会には必ず出品されるほどの人気者であったが、もともと焼成があまり良くなく、最近では表面の亀裂も多くなり破損の危険性が高くなったため、貸し出しを中止せざるを得なくなってしまった。誠に残念であるが、しかたない。

この子抱き土偶だが、写真等では有名であるが、その出土状況などは意外に知られていない。そこで、この土偶が最初に報告された『多摩考古』一二号をもとにして、出土状況を記述しておこう。

まず、はじめに出土した年月日であるが、報告によれば昭和四三(一九六八)年の八月一〇日から十四日の間ということになっている。出土した場所は、宮田遺跡昭和四三年度発掘調査地区のA地区、A―4住居址である(図2・3)。この住居址は、長軸が六・二メートル、短軸が五・四メートルの楕円形を呈し、内部には外周を浅く掘り込んだ周溝が存在した。このうち住居址南側の周溝内より、逆位の状態で件の土偶が出土したらしい。この住居址からは、土偶だけではなく、打製石斧が一四本も重なった状態で出土しており、なにやら通常の住居址とは異なった様子をも感じさせる。

図3 宮田遺跡 昭和43年度発掘調査地区
A-4号住居址
図4 住居址の炉として使用された土器

図4は、この住居址の炉として使用されていた土器であり、中期の前半、勝坂式のなかでも新道式段階の範疇で捉えることのできるものである。土器の真ん中には、オオサンショウウオ状の抽象文が描かれている。住居址南側の周溝付近から出土した土器は特定できないが、図5の住居址内の埋土の堆積状況と土坑や柱穴の位置関係から判断すると、図の右側が南であると思われ、住居址南側の周溝はII層によって覆われていたと推定できる。図6はII層から出土した土器の実測図であるが、炉の土器よりもやや時期的に下り、藤内式段階のものが含まれる。問題の土偶は周溝内から逆位で出土しているところからみて、もともと住居内において使用されていたものというよりも、II層から出土した土器などと一緒に住居の跡に落ち込んできたものと考えた方が自然である。とすれば、土偶が周溝内に埋まった時期は、これらII層出土土器と同じ頃である可能性が高い。その時期は、縄文時代中期の前半、放射性元素である炭素14を用いた較正年代を基にしておおざっぱに言うと、大体五三〇〇年くらい前になるだろうか。

図5 A-4号住居址内の埋土の堆積状況 図6 住居址南側の同溝から
出土した土器の実測図

現代に残された土偶から、五〇〇〇年前の人々の子育ての様子がうかがえる。そこには今も昔も変わらない子への愛情を感じることができる。博物館の展示だと、土偶のような呪術具に対して、やれ当時の精神文化だ、なんだと気負った説明をしてしまうことも多いが、この土偶のように、見たまま、感じたままの気持ちをそのまま家まで持って帰ってほしい、そんな展示があってもいいのではないかと思っている。

山田 康弘 (本館研究部・先史学)