連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

風説と怪異・妖怪-流行病と予言獣

近世後期、とりわけ幕末から明治にかけて、錦絵や摺物などの話題としてさまざまな怪異や妖怪が登場してくる。なかでも、豊作や疫病の流行を予言したあと除災の方法を告げて消え去ったという異形のモノ(予言獣(よげんじゅう))にまつわるうわさは広く知られている。図1は、文政二(一八一九)年に肥前国平戸に出現した姫魚(ひめうお)と称する予言獣。二本の角をもつ女の顔に魚体が結びついた人魚の一種で、つぎのように記されている。

此度肥前国平戸におゐて沖にうきあかる
姫魚龍宮より御使なり
此魚ものを云
七ケ年の間豊年なり
其印にハ北斗星の片傍に箒星出る
しかしころりと云病はやり人多く死す
我姿を絵に書一たひ見ハ此病をのかるへし
と云て直に海中へしつミにけり
             魚金色也
             長一丈三尺
             髪長一丈斗
             背ニ宝珠ノ玉三ツ有リ

文政二年 卯之月十五日出ル

龍宮よりの使いだという。背に三つの宝珠の玉があり、口には赤い実をつけた小枝をくわえている。七か年の豊作ところり(疫病)の流行を予言したのち、難を逃れるには我姿を描いて見るとよいと言って海中に沈んだという。文政二年には姫魚のほかに神社姫と称する予言獣の摺物が江戸の市中に出回ったようで、斉藤月岑(げっしん)の『武江年表』には、文政二年の夏にコロリという痢病(赤痢)が流行った際「これを避くる守り也とて、探幽が戯画百鬼夜行の内ぬれ女の図を写し、神社姫と号して流布せしを、尊ぶものありしなり」と記されている。加藤玄悦の『我衣(わがころも)』にも、この年の夏に流行った赤痢騒動の最中に神社姫の絵を売り歩く者のいたことを書き留めている。おそらく、こうした疫病の流行と密接にかかわって流布していたのであろう。

図1 「肥前国平戸において姫魚竜宮より御使なり」
江戸時代 本館蔵
図2 「海出人之図(越後国福嶋潟)」
江戸時代 本館蔵

図2は、越後国福島潟に現れた予言獣で柴田旦なる者がその正体を見届けたという。予言の内容と疫病除けの方法は姫魚と基本的に変わらない。しかし、頭に角がなく、乳房と手が描かれていて、腰からしたも魚というよりも巨大な貝に似た形である。図3も同じ越後国福島潟に出たもので、記載の内容はこちらもほとんど同じである。手足まで描かれていて一段と人間の姿に近く、人魚のイメージとはほど遠い。この摺物は文政二年から三十年ほどあとの嘉永年間(一八四八~五四)に出回ったようで、幕末の風聞や世情を書き記した『藤岡屋日記』につぎのようにみえる。

 嘉永二酉年閏四月中旬
 越後福島潟人魚之事
 越後国蒲原郡新発田城下の脇ニ、福島潟と云大沼有之、いつの頃よりか夜な〳〵女の声にして人を呼ける処、誰有て是を見届る者無之、然ルニ或夜、柴田忠三郎といへる侍、是を見届ケ、如何成ものぞと問詰けるに、あたりへ光明を放ちて、我は此水底に住者也、当年ゟ五ヶ年之間、何国ともなく豊年也、且(但カ)十一月頃より流行病ニて、人六分通り死す、され共我形を見る者又ハ画を伝へ見るものハ、其憂ひを免るべし、早々世上に告知らしむべしと言捨つゝ、又水中に入にけり。

  人魚を喰へば長寿を保つべし
   見てさへ死する気遣ひはなし

 右絵図を六月頃、専ら町中を売歩行也。

記述の内容からみて図2・3と同種のものであるといってよい。ここでも最後に「右絵図を六月頃、専ら町中を売歩行(あるく)也」とある。疫病の心配される夏場にこの手の絵図を有り歩く者のいたことがわかる。おそらく、疫病に対する庶民の不安に目をつけて、異形のモノの出現と予言という形でそれを煽りながら一稼ぎを企てた者の意図がこうした絵図の随所に顔をのぞかせている。

図3 「越後の国に光り物出て女の声にて人を呼ぶ…」
江戸時代 本館蔵
図4 「猿のかたちの光物(熊本)」
明治15年 本館蔵

疫病の流行にかかわって予言獣を描いた絵が話題になったとの記録は明治に入ってもいくつか確認できる。明治一五(一八八二)年八月三一日付の『読売新聞』には「昨今市中の絵草紙屋にてコレラ病除けの守りなりとて三本足の猿の像やまたハ老人の面(かお)に鳥の足の付いたえたいの分らぬ絵などを発売するハ愚人を惑し甚だ予防の妨げに成るにつき此ほど其筋より発売禁止の儀を警視廰へ達せられましたと」とでている。この記事にみえる「三本足の猿の像」とは図4の錦絵のことであろう。予言獣の名はアマビコとなっているが、豊作と疫病を予言し除災の方法を告げる内容は変わらない。「御届明治一五年七月」とある。日本で初めてコレラが発生したのは文政五(一八二二)年で、その後たびたび流行に見舞われている。明治十年には「虎列刺病豫防法心得(これらびょうよぼうほうこころえ)」が出され、その後も法規、法令が整備されて防疫の強化が図られていくなかで、それまで庶民のあいだで行われてきた呪(まじな)いや祈祷といった呪術的なやり方との軋轢が生じてくる。三本足の猿(アマビコ)の絵などもその対象で「愚人を惑し甚だ予防の妨げに成る」ものとして、関係者の取り締まりが一段と厳しくなっていったことが理解できる。

図5 「人形魚 悪病除」 本館蔵 図6 「雷奇獣 寛政八年六月 肥後国熊本」
江戸時代 本館蔵

予言獣を中心に紹介したが、ほかにも、悪病除けとして用いられた人形魚(図5)、激しい雷鳴とともに空から落ちてきた雷奇獣(図6)、大坂金城堀より上がったという怪獣(図7)、
淀川のほとりに浮かびでた怪魚(図8)など、巷の話題になった妖怪は数多い。

図7 「怪獣 慶応二年六月九日 大阪金城堀ヨリ上ル」
江戸時代 本館蔵
図8 「雷光の図説・淀川の大魚」
江戸時代 本館蔵

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常光 徹(本館研究部・民俗学)