連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

古代に何を表した? ―館蔵古墳時代コレクション―

石製腕飾り

古墳時代前期の四世紀に作られた。緑色をした碧玉(へきぎょく)と呼ばれる石で作られることが多く、腕飾りと考えられている。大きくは三種類に分けられる。形が鍬に似て卵形の大きな孔があるものは鍬形石(くわがたいし)(写真1)と、外形が楕円形で表面に放射状の帯を配している扁平な形と文様が車輪に似ているものは車輪石(しゃりんせき)(写真2)と、外形が環状のものは石釧(いしくしろ)(写真3)と呼ばれる。

石製のものも腕飾りとして使用されたが、割れたものを細紐で連結して修復した事例があることをみると、大事にされていた。しかも、すべての人が着用できたものでもない。集落や祭祀遺跡から出土することもあるが、ほとんどは古墳に葬られた死者の副葬品として発見される。そして大型の古墳には数多く副葬された事例をみる。身を飾る装身具というだけでなく、死者の生前の地位を象徴していた。

しかし、腕を通すにはあまりにも孔が小さいもの(写真4)もあるので実用でなく、権威を象徴する宝器であったとみる考えもある。昔、京都にお住まいのお公家さんの末裔の中にはこんな小さな孔でも通す細い手首の方もいたと、ある先生から教わった。仮に手首に通せたとしても、腕飾りとして持ち上げ続ける力がそのお公家さんにあったか疑問だから、やはり腕飾りとしては非実用の場合もあったのであろう。古い頃には碧玉(へきぎょく)主流の材質であったが、新しい時期になるとほとんどが緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん)に替わった。それが、実用の腕飾りから非実用の腕飾りへの変化に関連するのか、興味深い。

奈良県島の山古墳では、かつて後円部から八〇点の石製腕飾りが発見された。近年、その前方部で緑色凝灰岩製の鍬形石・車輪石・石釧など一四〇点が出土した。前方部にも粘土槨と呼ばれる埋葬施設が存在していたが、それら大量の石製腕飾り類は木棺の内部に納められたのでなく、木棺全体を覆った粘土の表面に貼り付けるかのように置かれていた。新しい時期の石製腕飾りを当時の人々がどう使用したのか、その考えを証言する事例として注目される。

写真1 鍬形石 写真2 車輪石
写真3 石釧 写真4 孔が小さい車輪石

金銅製品

四世紀の日本列島では倭風の石製腕飾りが流行したが、中国大陸や朝鮮半島では金属で、身体その他を装飾することが増えた。とくに少ない量ですべてが金製に見える金銅製品がさまざまな文物に用いられるようになり、五・六世紀には日本列島でも金銅製品の製作が行われた。

金銅製帯金具(写真5)は、一昔風に言えばバックル式ベルトのバックルと飾り金具となろうか。バックルには透かし彫りの文様がある。右側三分の二は左を向く四本足の龍全体が表現され、左側三分の一は龍に向かい合う右向きの鳳凰(ほうおう)がいる。こういう帯金具は、格を示すものであったとされるが、甲の帯に用いられている例があって、厳格に使用されたのか不明である。

その帯に吊り下げられるのが金銀装飾のある大刀で、金銅製単鳳柄頭(たんほうえがしら)(写真6)を装着したものもあった。

写真5 金銅製帯金具

写真6 金銅製単鳳柄頭

金銅は人だけでなく馬も飾った。馬を御する轡(くつわ)と人が坐る鞍を飾るだけでなく、それらを固定するための革紐まで金銀で飾った。鉄地金銅板被せ杏葉(ぎょうよう)(写真7)は、馬の尻に回された革紐から吊り下げられた飾り板である。

金銅製冠(写真8)は、額を覆う幅広の帯に透かし文様が表現されているのを除くと、山字形立飾りなどの特徴から新羅で使用されたものとみられる。新羅では王は金製、妃は銀製など位によって素材が規定されていた。といっても、王や妃の副葬品に規定外の金銅製品があって、その理由を証言させるのは難しい。

四世紀末から朝鮮半島と日本列島の間で人の移動を伴う交流が盛んになった。倭風である石釧が新羅の都・慶州で出土したり、倭製と半島製を組み合わせた甲冑が半島で出土したりする事実は、人の移動が争いによるものであったとは言えないことを物語る。また、朝鮮半島から日本列島に技術や知識を持つ人々が渡来し、優れた文物をもたらしたこともあった。

写真7 鉄地金銅板被せ杏葉 写真8 金銅製冠

やがて、六世紀の多くの男女は耳環(じかん)(写真9)を着装することになる。その多くは金銅製あるいは鉄地金銅板被せで耳たぶに孔を開けて装着した。

千葉県山武(さんむ)市蕪木(かぶらき)五号墳から出土した金銅装小刀(写真10)は、鞘部を一枚の金銅板で覆い刃側に二か所の吊り下げ穴を設けたもので、類例は極めて少ない。この古墳から五キロほど離れた姫塚古墳に並べられていた小刀を腰に下げる二十体近い男性埴輪の中で、一体だけこの金銅装小刀にそっくりな小刀を表現した男性像があった。二つの古墳は造られた年代も近く、姫塚古墳に並ぶ男性埴輪のうち一人のモデルが蕪木五号墳に葬られた人物であったことを証言している。

同じ蕪木五号墳から出土した金銅製巾着(きんちゃく)形容器(写真11)は、くびれ中央の表裏に比較的大きめの孔が穿たれている。姫塚古墳の人物埴輪群像の多くが腰に巾着形の袋を紐で吊り下げている。まさにその紐の使用法を具体的に示すのが、金銅製巾着形容器である。この容器の口に近い部分には小さめの孔が十個以上穿(うが)たれており、上から見ると内外に波打っている。この小穴に紐を通して有機質の蓋をしたのであろう。とすれば、この容器に液体が入れられれば漏れるから、個体あるいは粉末などを入れて腰に吊り下げたことになる。

写真9 耳環

写真10 金銅装小刀

写真11 金銅製巾着形容器

金銅技法つまり古代の金メッキ技法は、金アマルガム法だったとされる。金を水銀に溶かしたような状態にしてこれを絞り、アマルガム状態にして銅器などの表面に塗り展ばし、熱を加えて水銀を蒸発させることによって金を銅器に固着させた。

古墳時代の比較的小型品を製作している間は、蒸発した水銀の毒性に気付くことはなかったが、大量の水銀を使ったおよそ百年後の東大寺大仏の鍍金に際し、その有害性の大きさに気付かされることとなった。

大量に摂取すれば死にいたり、蓄積すれば子々孫々にまで害をあたえる水銀利用技術の駆使には慎重さが求められる。現代の原子力利用に警告を発する歴史の証人である。

杉山晋作(本館名誉教授・日本考古学)