連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

皇朝十二銭の原料と製作技術

銅元年(708)、わが国で初めての「本格的かつ継続的に大量に鋳造された」貨幣として、和同開珎(わどうかいちん)が発行された。ここでなぜ単純に、わが国で初めての貨幣、と言わずカギカッコ内のような形容がついているかというと、これに先立ち、無文銀銭や富本銭(ふほんせん)、円形銅板(無文銅銭)などがあったからである(これらは本格的な流通貨幣にならなかった)。さらにいうと、これ以前から米や布などが「物品貨幣」として使用されていた。和同開珎以降、乾元大寳(けんげんたいほう)が発行される天徳2年(958)までの約250年間に、十二種類の銅銭「皇朝十二銭」が発行され続けた。

和同開珎は大きく2種類にわけることができる。一つは製作や字体が古朴な感じであることから「古和同」とよばれ、銀銭と銅銭がある。現在残っているものの中で銅銭の数はきわめて少なく、銀銭の十分の一くらいしかない。もう一つは「新和同」と呼ばれるもので、こちらは銅銭だけである。「続日本紀」によると、銀銭は和銅元年(708)5月に発行が開始されたが、翌年8月には使用を廃止しており、きわめて短期間のものであった。
和同開珎が発行された最大の目的は、平城京遷都(710)を控え、都の建設のための財源づくりであった。銅銭1文は平城京造営などの使役に対する1日分の労賃に相当し、原料の銅素材の3~5倍に相当する高い価値が与えられた。

無文銀銭(歴博蔵) 表面に銀片を貼り付けている。一定の重さに近づけるためと考えられる。

富本銭(複製・歴博蔵、原品・奈良文化財研究所蔵、奈良県平城京跡出土) 奈良県飛鳥池遺跡からの出土で、和同開珎に先立って鋳造されていたことが確実となった。

古和同(銀銭、歴博蔵)

古和同(銅銭、歴博蔵) 古和同の銅銭は全体として、鉛やスズなどの濃度が低い。

新和同(歴博蔵) 古和同とは字体が異なっている。

そうなると当然、私鋳銭(しちゅうせん)、つまり偽金をつくる者もたくさん現れることになる。発行開始翌年の和銅2年(709)には早くも銀銭の私鋳に対する刑罰が定められ、私鋳銭の横行していたことが知られる。これは和同銀銭廃止の一因にもなった。銅銭の私鋳もおさまらなかったため、和銅4年(711)には「斬」(死刑)という重い刑罰さえ適用されたが、それでも私鋳は絶えることがなかった。これに加え、飢饉による米価の高騰もあって、銭の価値はしだいに下落していく。これに対応するために新銭として萬年通寳が発行され、和同開珎の10倍の価値が与えられた。しかし、銭の価値の下落は止まらず、次々と、全部で十二種類の銭貨「皇朝十二銭」が発行されていった。私鋳銭者として摘発された者の中には、京都や奈良の下級僧侶や、本来犯罪を取り締まるべき立場の検非違使の役人までもが含まれている。このように偽金作りが横行したということは、渡来人によって伝えられた銭貨を作れるほどの精巧な鋳造技術が、民間にまで広く行き渡ったということでもある。

銭は、ふつう「銅銭」と呼ばれるが、多くは純銅ではなく青銅でできている。青銅は銅とスズの合金であるが、皇朝十二銭も含め、東アジアの青銅製品ではたいてい鉛を含んでいる。これは鋳造時に融点を下げることや熔けた合金の流動性を高める働きをするが、その他に銅よりも鉛の方が地金価格が安かったためとみられている。

1 種銭をはさみ、まず目の細かい土を上からかぶせる

2 さらに目の粗い土をかぶせて押し固める。

3 鋳型は表裏2枚で一組となる。

4 堰(熔けた青銅が流れる通路)を切り、種銭を取り出す。

5 受け口をつけ、再び2枚の鋳型を合わせる

6 鋳型を焼き固め、まだ熱いうちに熔けた青銅を流し込み、鋳造する。

7 鋳造後の「枝銭」。1枚ずつ切り離し、バリをとって完成。

8 できあがった和同開珎。当時の偽金作りの技術にどれだけ近づけたかは不明。

皇朝十二銭の成分を調べてみると、スズが数%以上含まれているものが見出せるのは和同開珎(新和同)、萬年通寳(まんねんつうほう)、神功開寳(じんこうかいほう)、隆平永寳(りゅうへいえいほう)の初期4銭種のみ(その数もさほど多くはない)で、それ以降はほとんどにおいてスズが1%以下になる。鉛の濃度で分類してみると、鉛濃度の低いものが多い(10%以下が中心)和同開珎~隆平永寳、鉛濃度が全体として高くなる(10~40%のものが中心)富壽神寳(ふじゅしんほう)~寛平大寳(かんぴょうたいほう)、そして鉛銭が出現する(すべてではない)延喜通寳(えんぎつうほう)・乾元大寳と、大きく3つの段階にわけることができる。この変遷については、時代とともに銅の採掘量が減少していったことと、律令国家の支配力が弱体化し採掘地から銅が納められなくなっていったことから、鋳銭に使うための原料銅の確保がしだいに困難になっていったためとみられる。

不純物として含まれる成分からも技術の変遷をうかがうことができる。12銭種のうち、奈良時代に発行された和同開珎、萬年通寳、神功開寳の初期3銭種には鉄が数%程度まで含まれているが、平安時代に発行された隆平永寳以降のものにはほとんど含まれていない。銅に鉄が混ざると金属としての性質を損ねるので、意図的に混合したものとは考えがたい。これについては、成分として鉄を含み鉱石の大部分を占める黄銅鉱(CuFeS2)が原料として使用され、鉄を取り除くための製錬技術がこの前後で変化したのではないかと想定することができる。 和同開珎が発行された年は、続日本紀に「武蔵国秩父郡から和銅を産出」の記事が出てくる年であることから、両者をむすびつけ、この和銅が和同開珎の原料になったとする通説がある。ちなみに「和銅」は「日本(で初めて)の銅」という意味ではなく、「にきあかがね」と読み、精熟した銅、つまり製錬をしなくてもすでに金属となっている銅、「自然銅」のことである。

鉛同位体比を測定する装置(表面電離型質量分析計)

抽出した鉛を載せるフィラメント

これについて古代銭貨の研究者の間では以前から「和銅産出と和同開珎に直接のつながりはない(すでに鋳銭の準備は整えられており、開始のきっかけとなる瑞祥としていわば政治的に利用された)」との説が唱えられていたが、私たちの自然科学的な分析もそれを裏付ける結果になった。鉛には、性質が同じで重さがわずかに異なる4種類の原子(同位体)が混ざり合っているが、その混合比率(鉛同位体比)が周囲の地質条件を反映し鉱床によって異なっていることを利用し、皇朝十二銭を分析して原料の産地を探る試みを行ったところ、新和同以降の銭の8割近くの鉛同位体比が、ある数値範囲に集中していることがわかった。同時期に銅・鉛の採掘や製錬を行っていた鉱山や近接する遺跡から試料をとってきて分析したところ、山口県にある長登銅山とその近くにある平原遺跡、蔵目喜鉱山に近接する坂部遺跡の出土品の測定値がこれと一致することがわかった。つまり、これらの鉱山が鋳銭原料の主要な供給地であった可能性が高い。ただし、古和同の多くはこの数値範囲から外れており、それらの原料の産地はまだ十分に絞り込まれていない。なお、いずれの場合も秩父の鉱山と近い値を示すものは見つかっておらず、和銅と和同開珎が直接むすびつくとは今のところ考えられない。

皇朝十二銭(本館蔵) 大きさの変化がよくわかる

銭貨の鋳造は「鋳銭司(ちゅうせんし)」(当時は「じゅぜんのつかさ」と読んでいたらしい)とよばれる機関によって行われた。所在地として河内・長門・周防などが記録に残っている。皇朝十二銭の各銭貨について発行枚数の記録はないが、出土量を比較してみると和同開珎が圧倒的に多く、奈良時代から平安時代初期に発行された萬年通寳、神功開寳、隆平永寳、富壽神寳などが主体であり、それ以降の承和昌寳(じょうわしょうほう)から乾元大宝までは出土量が減少している。銅の不足や新銭を次々に発行したことによる価値の低下と鋳造経費節減の必要から、銭貨はしだいに小型化し、前述した通り鉛の割合の多い粗悪な品質のものになっていき、それがまたインフレを引き起こすという悪循環が生まれ、銭は世間の人々に嫌われるようになっていった。こうして、銭の価値の低下、通用の困難さに加え、政府による大規模な造営工事もなくなり、銭を発行する意義が薄れていく。そして天徳2年(958)の乾元大寳をもって皇朝十二銭の鋳造は終わりを告げる。 こののち、中世になると銭貨が大量に使用されるようになるが、それは国家権力とは関係なく、交易活動が活発になったことから生まれてきた。ただし、政府による発行は行われず、中国から輸入した宋銭や明銭など「渡来銭」がその主役であった。日本が再び自前の銭貨を大量に発行し流通させるようになるのは、江戸時代、徳川幕府の三貨制度ができてからである。

齋藤努(本館研究部・文化財科学)