連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

失われた内海世界を史料にさぐる

大小の潟湖が点在し、山間から流れ下る河川がこれに注ぎ込む独特な景観は、砂丘列の発達した日本海沿岸の地域性を考える際の重要なモチーフとなりうる。ただし、深く入り込んだ湾や潟湖と河川の作り出す内海が歴史的に存在した形跡は、日本海沿岸のみならず太平洋沿岸から東シナ海沿岸にも確認され、これまでの史資料の読み方に変更がせまられている。江戸時代前期の絵地図、たとえば正保の日本図や国絵図にみられる、関東の霞ヶ浦や椿海、土佐の浦戸湾、薩摩半島の万ノ瀬川流域などはその一例である。それらは海洋と接点をなす内陸部の舟運による交通路であると同時に、湖岸の村落による漁業の網場や鳥類の狩猟場となり、あるいは周辺の耕地を潤す用水源となることもあり得た。

このような潟湖と人間の関わりあいを現代にいたるまで歴史的にふりかえるとき、ひとつのキィ・ワードとなりうるのは「海」である。

1 正保日本図 17世紀 240.0cm×228.0cm (本館蔵)

2 正保日本図にみる内海世界 下総東部には現在は姿を消した椿海もみえる

3 正保日本図にみる西日本海沿岸部

『万葉集』に「布施水海」と詠まれた富山県の十二町潟のように、古代から潟湖は「水海」と表記されてきた。鎌倉時代前期に佐渡へ配流された順徳天皇の撰になる歌論書『八雲御抄』の名所部「海」にも、現在の海洋とならんで潟湖をさす「水海」が列挙されている。これは歌の世界ばかりではなく、地域社会に直接関わる文献史料が大幅に増加する鎌倉時代以降の古文書・古記録をみても、現在の海洋が「塩海」「大海」と表記されるのに対して、潟湖は「水海」「湖海」などと表現されている。つまり、古代・中世の人びとにとっては、海洋も潟湖も「海」なのであり、「海」という語彙を現代のわれわれとは異なる感覚のもとに使用していたといえる。 

4 象潟道之記 寛政4(1792)年 (本館蔵)

そうした「海」の語彙に変化が生じるのは、どうも江戸時代のことらしい。興味深いことに、潟湖を「海」として表記することは希になり、かわって現在の○○潟・□□湖のような固有名詞が史料上で定着するのは、かの琵琶湖をはじめとして近世以降のことである。これは自然としての潟湖に対する社会認識、さらには人間とのかかわり方が大きく変化し、それまで複合的に利用されていた潟湖そのものが、開発の対象とされていくことと軌を一にしている。流入する河川の運んだ土砂の堆積による湖面の干上がりはもとより、秋田県の象潟のように地震で地盤が大きく隆起した例もあるが、人為的な潟湖の消滅という点では、現代に引き継がれる干拓事業の影響がみのがせない。

5 永禄六年九月廿日北国下り遣足帳 永禄6(1563)年 本館蔵 醍醐寺の僧侶が越後国蒲原津付近(現在の新潟市周辺)で頻繁に舟賃を支払っている

6 柴山潟より白山を望む (明治期生活史関係資料) (本館蔵)

7 加能越三国図 文政9(1826)年刊 83.0cm×79.0cm (本館蔵) 加賀三湖や河北潟、邑知潟などがみえる

江戸時代なかばから進行した干拓は、いくつもの潟湖の姿を消し去り、あるいは湖面を大幅に縮小した。かつて加賀三湖と呼ばれた木場潟・今江潟・柴山潟の現状は、その具体例のひとつである。なかでも現在は著名な温泉地に隣接することで知られる柴山潟は、東南方向に白山の偉容を仰ぎつつ船の行き交う水面を明治まで保ったが、いまでは三分の二以上の湖面が陸地に変わった。

干拓後も旧湖岸線の内外で耕地の区画方向が異なるなどの現象から、往事の潟湖の輪郭をしのぶことができた場合でも、近年の急激な圃場整備事業によってそれすら困難となり、潟湖の存在じたいが忘れ去られたところも数多い。近世以来つづく「新田開発」の歴史の舞台という視点から離れて、断片的な史資料から浮かび上がる「失われた内海」の存在とその多様な社会的機能を視野に収めることにより、現代に残った、あるいは残された潟湖の歴史的個性とその未来像もみえてくるに違いない。

高橋一樹 (本館研究部・日本中世史)