連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」
中国画像石拓本資料
画像石拓本とは
画像石とは、中国の後漢時代(25~220)以降の、地下に石で造った墓の壁面にさまざまな絵を彫ったものである。普通は平たい石に、浅く絵が彫られているために、拓本によって記録されることが多い。拓本とは、凹凸のある文字や絵などの上に画仙紙とよばれる紙を湿らせてあて、乾ききらない前に、墨をつけたタンポという道具でたたき、凹凸を紙の上に浮かび上がらせる手法である。画像石のような細かい線で彫られた絵は、白黒の濃淡によって線を強調することができ、写真よりも鮮明にみえる場合が多い。
歴博は、「山東省漢代画像石原拓集(さんとうしょうかんだいがぞうせきげんたくしゅう)」「陜北地区漢代画像石原拓本集(せいほくちくかんだいがぞうせきげんたくほんしゅう)」「唐中宗皇后葦氏家族墓発見石槨線刻画拓本(とうちゅうそうこうごういしかぞくぼはっけんせっかくせんこくがたくほん)」「隋唐代線刻画(ずいとうだいせんこくが)」「河南漢画像石專拓片精選集(かなんかんがぞうせきせんたくへんせいせんしゅう)」「山東省沂南県北寨村漢画像石墓拓本(さんとうしょうきなんけんほくさいそんかんがぞうせきぼたくほん)」の画像石拓本資料を所有している。
画像のテーマには、日常生活風景、生前の事績、余興におこなわれる歌舞、宴会、馬車のパレード、謁見、狩猟、歴史故事、神話世界、神仙思想など多岐にわたっており、中国のそれぞれの時代の生活文化を知る上で貴重な歴史資料である。今回は、山東省沂南県北寨村漢画像石墓拓本(以下、沂南画像石墓)について紹介したい。
沂南画像石墓は、中国の山東省で発見された。その築造年代は後漢時代の終わりごろだと考えられている。墓は地下に作られ、南北8.7メートル、東西7.5メートルの大きさである。280個の切石で構築され、前・中・後室に分かれ、前・中室の左右には側室があり、さらに後室の隣りには厠(かわや)まで設けられている。
画像は、73点を数えるが、部屋ごとの画像のテーマに特徴がある。前室の壁には、神話や神仙思想に登場する、さまざまな神獣や仙人などが描かれている。中室の画像は、饗宴、馬車のパレード、歴史故事を中心とした内容である。後室のテーマには、侍女や厠、家具など日常の様子が主として登場する。
図1 墓主が生前に指揮をとった戦の場面 |
生前の生活場面
墓に入る正面に、戦争の場面を描いた画像がある(図1)。沂南画像石墓以外にも、戦争の場面が描かれた画像があるが、いずれも北方の民族である匈奴(きょうど)のような騎馬民族との戦いの場面が描かれることが多い。
中央に橋が描かれ、左から先のとがった帽子をかぶった騎馬民族が攻め、右から漢軍が迎え撃っている様子が描かれている。左の軍隊は、馬に乗り弓から矢を射ながら攻めている。一方の漢軍は、剣で戦いを挑んでいる。橋の左側では、漢軍の兵士によって、騎馬民族側の兵士の首が飛んでいる状況がリアルに表現されている。橋の右側の馬車に乗り軍隊を指揮しているのが、墓の主人公だと考えられる。
図2 音楽が演奏されている宴会の場面 |
図2の画像は、当時の宴会の様子が描かれている。楽隊が音楽を奏で、その周囲では、曲芸、踊り、サーカスなど、さまざまなショウがくり広げられている。例えば絵の左端では、剣を何本も放り投げそれを受けたり、頭の上にさまざまなものを乗せる曲芸を披露している。その下の絵では、皿を並べその上を舞うという芸を披露している。絵の中央付近では、綱渡りのショウがおこなわれている。その下は、剣が逆さまにして並べてある。一方絵の右側では、馬を走らせ、その背なかに人が立って演技をしている。
図3 宴会の料理を準備している場面 |
図3は、宴会のための料理の準備をしている場面である。左端が、穀物倉庫になっており、そこから運び出された穀物の場面が、豊かな収穫を表現している。倉庫の前に山積みされているのは、おそらくコムギ・アワやヒエであろう。
画面の中央から右側で、さまざまな食材が料理されている。中央やや右では、二人の人物が棒に通してブタを担いで、台所にもちこもうとしている。その右では、ウシを今まさに屠殺しようとする情景が描かれている。右端が厨房であるが、甑(そう:蒸し器)や煮物用の鍋はあっても、炒めるための中華鍋がない。鉄製の中華鍋が普及し炒め料理が一般化するのは、後世の12世紀に至ってからである。
図4 墓主が邸宅から出かける場面 |
図4は、出行という、馬車に乗りパレードをして遊びにでかける情景を描いている。右から2台目のパラソルに紐がついたのが墓の主人の馬車である。 図5は、おそらく主人のごく身近な生活を描いていると考えられる。上段は武器庫の様子を描いている。剣、刀、矛、戟(げき)などの武器がみえ、その下段に描かれた左側の人物は、手に食べ物の入った容器をもち、その下には酒壺が描かれている。おそらく主人に食事を運ぶところなのだろう。
図6も、やはり日常生活を描いたものである。上段には神獣が描かれているが、下段には厠が描かれている。厠の下は肥だめになっており、侍女がその周囲で掃除をしている。その横に置かれているのは尿瓶(しびん)である。
図5 武器庫と主人に食事を運ぶ場面 |
図6 上段は神獣・下段は厠・厠の下は肥だめ |
歴史物語と神話世界
図7は、「鴻門の会」を扱った画像である。漢王朝をおこした劉邦(りゅうほう)を、項羽(こうう)の部下である范増(はんぞう)が、酒席で殺そうとする有名な場面である。范増は項羽の従弟項荘(こうそう)に剣の舞をさせその最中に刺させようとするが、劉邦に脈を通じる項伯(こうはく)が剣を抜いて舞いに加わり劉邦をかばう。劉邦の腹臣の樊噌(はんかい)の助けもあり、劉邦は厠に行くと称して席をたち、そのまま自陣に疾駆してようやく虎口を脱する。場面は范増と項荘が、互いに牽制しあいながら剣の舞をおこなっている場面である。
画像は、こうした歴史故事だけでなく、神話世界をテーマにしても描かれる。 図8に描かれた人物には、目が4つある。彼は、蒼頡(そうけつ)という文字を発明した神様である。隣りに座っているのはおそらく神農で、蒼頡が差し出した何か草らしきものを食べている。神農は、作物の栽培を人間に教えた神であるが、その前にあらゆる草を食べて、それが栽培に適しているかどうか研究したといわれている。この絵もおそらく、神農をめぐる物語を描いたものであろう。
画像のもう一つの特徴は、死後の世界をテーマにして描いている点であろう。戦国中期以前の人々が考える世界は、神々の住む天上世界・人が住む現実世界・死後人間が暮らす三つの世界に分かれていた。戦国時代後期~漢にかけて(前3~後2世紀)、仙人から不死の薬をもらい受け、不死を得るという三神山信仰と、死者の魂が西方の想像上の山である崑崙山にゆき、永遠の生命を得るという昇仙思想が流行するようになる。そして死後の世界は、生前世界の延長であり、生きていたころと同じ生活が営まれると考えられるようになる。
図9は、その神仙思想に関係した画像である。上段には、中国の古代神話に登場する伏犧(ふっき)と女?(じょか)という、体の下半身が蛇の神様が描かれている。女?(じょか)は天地を補修し、人類を創造した造物主として知られている。その下に中央に描かれている人物は、西王母という崑崙山に住むとされる神様である。その周囲にはさまざまな神獣が描かれている。彼女の左右にいるウサギを頭をした神獣は、西王母のために不死の仙薬を作っていると考えられている。
図9 歴史物語(「鴻門の会」を描いた場面) 図8 神話世界(蒼頡と神農) 図9 神仙思想に関連した画像
このように画像石拓本資料は、当時の人々の日常生活の様子が描かれているだけでなく、考古資料ではわかりにくい、歴史、神話、死後の世界や神々の姿までが生き生きと表現されており、当時の社会や精神文化全般を具体的に知る上で、非常に貴重な歴史資料であるといえる。
図7 歴史物語 |
図8 神話世界(蒼頡と神農) |
図9 神仙思想に関連した画像 |
このように画像石拓本資料は、当時の人々の日常生活の様子が描かれているだけでなく、考古資料ではわかりにくい、歴史、神話、死後の世界や神々の姿までが生き生きと表現されており、当時の社会や精神文化全般を具体的に知る上で、非常に貴重な歴史資料であるといえる。
西谷 大・本館考古研究部