連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

東海道物錦絵

数えでいうと、今年は東海道400周年となる。慶長6(1601)年、家康の命で、東海道の諸宿に伝馬制が布かれた。これがいわゆる東海道五十三次成立への第一歩と考えられているからである。

江戸と京都を結ぶ街道の整備は、たんに人の往来の活性化をもたらしただけではなく、出版文化の上にも大きな影響を及ぼした。増大する旅人の需要に応え各種の街道絵図や道中記、あるいは名所図会も刊行された。名所の故事来歴や見所を説き、精細な挿絵を添える名所図会は、今日の旅行ガイドブックと同様に考えるむきもあるが、「読みあきた枝折(しおり)は泊まり名所図会(『柳多留(やなぎだる)』120編)」と川柳に詠まれたように、居ながらにして各地の名所を疑似体験する読み物としても利用されていた。読み物といえば、仮名草子『竹斎(ちくさい)』や滑稽本『膝栗毛(ひざくりげ)』など、東海道を舞台として生み出された文学作品も少なくない。

東海道五十三次之内

三代歌川豊国画 嘉永5(1852)年
各宿場にちなむ歌舞伎の人物を物故者も含めた人気役者の似顔絵で描いた揃物。嘉永5年閏2月から刊行が始まり、同年8月に完結して目録もだされたが、好評のため間もなく間(あい)の宿の図が追加刊行され、総図数が大きくふくらんだ。背景の風景描写は、広重の保永堂版「東海道五拾三次」の影響が顕著である。

ところで、旅の疑似体験をもたらすものとして、もっとも華やかなのは浮世絵の名所絵である。19世紀初頭前後から、歌川豊広、葛飾北斎らによって、東海道五十三次を題材とした錦絵の揃物(そろいもの)が刊行されていたが、画期的であったのは、天保4(1833)年ごろに、歌川広重(1797~1858)が版元保永堂から刊行した「東海道五拾三次」(全55図)である。現代でもさまざまな商品のデザインに利用されるほど有名なこの揃物は、当時としてもロングセラーとなり、この後の東海道物の錦絵の方向を決定づけるものとなった。広重以前の東海道物は、宿駅ごとの光景を描きながらも、あくまで人物中心で風俗画の域をでなかったのだが、保永堂版「東海道五拾三次」は、街道の風景を季節の装いをまじえ、旅情豊かに描き出したのである。広重自身も、その後数多くの東海道物の錦絵揃物を制作しているが、歌川国貞(三代豊国)、渓斎英泉(けいさいえいせん)といった同時期の絵師たちも広重の影響を受け、たとえ画面の主役が歌舞伎役者や美人といった人物であろうとも、背景には緻密な風景描写を取り入れた東海道物を手がけている。

もっとも、そうした錦絵の東海道物は、必ずしも当時の街道の風景を写実的に描いているわけではない。保永堂版「東海道五拾三次」は、前半の宿場はともかく、後半の京都に近い宿場の図に、『東海道名所図会』の挿絵に基づくものが多いことも指摘されており、図によってはまったく絵師の想像力の産物としか思われない風景さえ見られる。しかしながら、街道を行く旅人たちの姿は当時の風俗を知る画像資料として有効であろうし、幕末の将軍家茂の上洛を当て込んだ「上洛東海道」と呼ばれる作品群や、維新以後の開化風俗を織り込んだ東海道物などは、ときの世相や、民衆の旅や街道に対する意識をうかがい知るうえでの、好資料ともなりうるであろう。

東海道 文久3(1863)年

文久3年の将軍家茂の上洛を当て込み、総計16名の絵師で描き分けられた大規模な東海道揃物。各図に必ず将軍の行列が描き込まれていることから、俗に「上洛東海道」と呼ばれている。寛永年間の家光以来の徳川将軍の上洛は、庶民にとっても大事件であったことがうかがえる。

大久保 純一(本館情報資料研究部)