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このたび、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)(※以下歴博)では、国立台湾歴史博物館、国立成功大学と共同で、特集展示(国際展示)「東アジアを駆け抜けた身体―スポーツの近代―」を2021年1月26日(火)~3月14日(日)に開催いたします。

歴博は、2014年以来国立台湾歴史博物館(台湾・台南市)との相互交流と研究協力を継続し、2016年には、特集展示(国際展示)「台湾と日本―震災史とともにたどる近現代-」を共催しました。

国立台湾歴史博物館には、オリンピックアスリートに関する記録物が大量に所蔵されています。そのうちの、1932年のロサンゼルスオリンピック(アメリカ)、1936年のベルリンオリンピック(ドイツ)の陸上競技に「日本代表」として出場した張星賢(ちょう せいけん/日本植民地期の台湾人選手)に関係する歴史的な資料がきっかけとなり、新たに近代のスポーツに関わる共同研究を開始することとなりました。一昨年からは国立成功大学(台湾・台南市)にも共同研究に加わっていただき、日本と台湾の近代史への理解を深めてきました。

この特集展示(国際展示)は、その研究成果展示として、1964年の東京オリンピック関係資料をはじめ、近代の学校運動会に関連する錦絵、写真、肉筆漫画など約120点の資料を通し、身体の改変や近代オリンピックへの参加という歴史的経験を共有してきた日本と台湾における「近代化」への過程を見つめ直し、台湾や東アジアとの歴史的関係を意識しながら、スポーツの近代史を紐解くものです。また、日本での展示のあとは台湾(国立台湾歴史博物館)でも巡回予定です。

広報画像① 張星賢スタート写真 
1930年代前半 国立台湾歴史博物館蔵

 

開催概要

東アジアを駆け抜けた身体からだ ―スポーツの近代―
開催期間2021年1月26日(火)~3月14日(日)
開催期間 2021年1月26日(火)~3月14日(日)
会場 国立歴史民俗博物館 企画展示室B
料金

一般:600円 / 大学生:250円
※総合展示もあわせてご覧になれます。
※高校生以下は入館料無料です。
※高校生及び大学生の方は、学生証等を提示してください。(専門学校生など高校生及び大学生に相当する生徒、学生も同様です)
※障がい者手帳等保持者は手帳提示により、介助者と共に入館が無料です。
※半券の提示で当日に限りくらしの植物苑にご入場できます。

開館時間 ~2月:9時30分~16時30分(入館は16時00分まで)
3月~:9時30分~17時00分(入館は16時30分まで)
※開館日・開館時間を変更する場合があります。
休館日 毎週月曜日(休日にあたる場合は開館し、翌日休館)
主催 大学共同利用機関法人人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館
國立臺灣歷史博物館(台湾)、國立成功大學(台湾)
特別協力 熊本県玉名市、公益財団法人野球殿堂博物館、筑波大学事業開発推進室、筑波大学附属図書館、天理大学附属天理参考館、早稲田大学大学史資料センター、立教学院展示館、孫基禎記念館(大韓民国)、真田 久(筑波大学)

本展のみどころ

  • 張星賢(ちょう せいけん)という知られざる日本植民地期の台湾人アスリートの競技人生をクローズアップしながら、激動の日本と東アジアの近代史を見つめ直す
  • 記念1000円硬貨や銅メダル(男子バレーボール)など1964年の東京オリンピック関係資料を展示
  • リレーバトン、ハードル、体操服、運動会のプログラムなど、100年前はどのような形をしていたのか、スポーツの近代史を紐解く
  • ラジオ体操参加カードはいつからある?
    はじめて「スポーツ」に出会った人々は、どういう反応をしたのか、野球やラジオ体操の普及から読み解く

展示の構成

プロローグ

日本にスポーツの概念が入ってきてからの約150年間の歴史を、日本植民地期の台湾人アスリート、張星賢(ちょう せいけん)の生きた道のりを中心に据えて振り返ります。張星賢をこれほどまでに光をあて紹介することは、日本では過去に類を見ないでしょう。

この展示企画は、国立台湾歴史博物館に戦前のオリンピック選手の写真やメダルが大量に存在すると聞いたところから始まりました。その一人である張星賢は、台湾に生まれ、早稲田大学に入り、卒業後は南満洲鉄道株式会社に所属しながら競技を続けた人物です。張星賢の生涯を見つめる作業を通して、これはそのまま日本と東アジアの近代史を凝視する作業なのではないかと思い至りました。本展示は「スポーツ史を展示する」試みよりも、スポーツの歴史の中から浮かび上がる「声」をみずからがどのように聴くか、ご覧のみなさまにどのように聴いていただくのか、を考えることに主眼を置いています。

この展示は全4章で構成されます。第1章では19世紀後半、近代の幕開けと、スポーツの概念が外国から入ってきたばかりの状況を概観します。第2章では、1900年代の前半、スポーツという概念はどのような「波」を人々のあいだに引き起こしたのか、野球のグローバル化や女性にとってのスポーツに着目して展示します。続く第3章では「日本代表」「満洲国代表」として世界を駆け抜けた張星賢に焦点を当てます。一人の競技人生という窓を通じて、激動の世界史・日本史を展望します。最後に第4章では、戦後に再編成された日本のスポーツの歴史を振り返ります。

広報画像② 「児童教育体操運動図絵」 1899年 
国立歴史民俗博物館蔵

第1章 近代史のなかのスポーツ

日本の近代化と共にスポーツという新しい文化がどのように入ってきたのか、人々の間にどのように定着していったのか、また、その過程でどのような葛藤を人々の間に引き起こしていたのか、ということも含めて考えます。

第1章 第1節 鋳(い)なおされる身体

近世までは、膝を曲げた状態の「なんば歩き」や前かがみ、猫背の姿勢は、特におかしなものではありませんでした。幕末から近代に至ってこうした姿勢が西洋人から奇異なものというまなざしを向けられるようになりました。そこでまず必要とされたのは、膝や背を曲げず直立する姿勢や靴を履いて歩行することでした。

広報画像③ 「西洋ウンドヲアソビ」 
1860年代 国立歴史民俗博物館蔵

幕末から明治前期(19世紀後半)には、スポーツの概念が存在していなかったため曲芸の一種のようなものとして「ウンドヲ」が認識されていたことを示す。

 

第1章 第2節 スポーツを通じた近代文化の波

1900年代に入り、中等学校(旧制中学校、実業学校)では野球が隆盛し、それに対して「野球害毒論争」が新聞紙上で行われました(1911年)。日清戦争後に日本へ割譲された台湾では、日本式の学校の増加につれ、漢族の女児が体操や通学に支障のある纏足(※てんそく)をやめるべきかどうかが論争となりました。日本人女性として初めてアムステルダムオリンピック(1928年)に出場し銀メダリストとなった人見絹枝が台湾で巡回指導を行ったのは、ちょうど同じ頃(1920年代)でした。
※纏足:子供の頃から足を布と小さな靴で拘束し、小さいままに維持するもの。纏足靴への美しい刺繍なども含めて、漢族の文化だった。

広報画像④ 「浦和高等女学校大運動会 物乾競争」
1900年代 国立歴史民俗博物館蔵

変形袴スタイルで運動会に臨む女学生たち。高等女学校は義務教育ではなく、小学校卒業時に受験をして入学する中等教育機関。1900年代(明治末期)と推定される。

広報画像⑤ 「女子スポーツ双六」『主婦の友』
1925年1月号付録 国立歴史民俗博物館蔵

ゴール目前に「結婚」があり、「スポーツなんぞしていられない」という台詞が入っている。

広報画像⑥ アムステルダムオリンピック女子100m予選の人見絹枝『アサヒ・スポーツ 第九回国際オリムピック競技特別号』 1928年9月 個人蔵

 

第2章 帝国日本のスポーツとオリンピック

日本は日清戦争で台湾を割譲され、日露戦争後に樺太の南半分を領有、1910年に「韓国併合」を行いました。こうして「帝国日本」が完成する時代に、ヨーロッパでは古代のオリンピックが近代オリンピックとして復興、開催されるようになりました。

1910年代以降国内では、中等学校野球大会(のちの「甲子園野球」)や、中等学校ラグビーフットボール大会(のちの「花園ラグビー」)、高等教育機関のスポーツ大会や国際交流試合が盛んになっていきました。当時のスポーツの主な担い手は、中等教育機関(義務教育ではない旧制中学校・実業学校)や高等教育機関に進学することのできた一部の男子生徒でした。日本からオリンピックに参加した人々も、ほとんどはこのような教育機関でスポーツを経験した男性エリート達でした。

広報画像⑦ オリンピック大競技双六『少年倶楽部』1920年1月号付録 個人蔵

アントワープオリンピックの開催された1920年の『少年倶楽部』1月号付録。『少年倶楽部』は少年たちに絶大な人気を博していた雑誌。

 

第2章 第1節 帝国日本のスポーツ

1920年代後半から、国内の野球やラグビーの中等学校全国大会に満鉄(南満洲鉄道株式会社)附属地や朝鮮、台湾から出場するようになりました。同じ頃、六大学野球連盟が結成されました。また、ラジオ放送が徐々に普及し、ラジオ体操が作られたのもこの時期で、それは全国に広まり、特に子供の夏休みの行事として定着していきました。

第2章 第2節 ラジオ体操の帝国

1925年にラジオ放送が開始され、1928年にラジオ体操が簡易保険局により制作されました。ラジオ体操は全国に広まり、植民地を含む各地の神社や学校で実施されました。押印するカードや参加メダルが、子供の参加を促しました。

広報画像⑧ ラジオ体操参加カードとメダル裏面 
1940年代 個人蔵

 

第2章 第3節 近代オリンピックと日本

第一次世界大戦の後1920年代には、一時的な緊張の緩和ムードが国際社会に生まれました。しかし世界恐慌を経て徐々に再び緊張の時代へと入っていきます。そうした時代の空気の中で開催されたのが、1924年パリオリンピック(フランス)、1928年アムステルダムオリンピック(オランダ)、1932年ロサンゼルスオリンピック(アメリカ)、1936年ベルリンオリンピック(ドイツ)です。台湾や朝鮮から、日本選手としてオリンピックに出場する選手が現れるのは、1932年のロサンゼルス大会と1936年のベルリン大会でした。そしてその両大会には、台湾から日本選手として出場した張星賢がいました。また、朝鮮から日本選手としてベルリンオリンピックに出場した孫基禎(ソン ギジョン)はマラソンで金メダル、同じく南昇竜(ナム スンニョン)は銅メダルを獲得しました。

 

第3章 世界を駆け抜けた台湾人アスリート:張星賢

1930年代、2度のオリンピックで日本代表として活躍した台湾人アスリート・張星賢を中心に展示を構成します。1910年10月、台湾中部の中心都市・台中に生まれた張(〜1989)は、公学校(台湾人が通う小学校)卒業後、台中商業学校に進学し陸上競技の素質を開花させました。そして早稲田大学専門部に進学し、学生陸上の名門であった早稲田大学競走部に入部。そして1931年の入学早々に実力を認められ、翌年のロサンゼルスオリンピックに日本選手として出場する切符を手にしたのです。卒業後、南満洲鉄道株式会社に就職した張は、1936年のベルリンオリンピックの日本代表にもなりました。

植民地台湾・日本本国・満洲という日本帝国の政治的磁場でスポーツマンとして生きつつ、アメリカからヨーロッパまで、世界を駆け抜けた張の姿・意識に光をあてます。

広報画像⑨ 第20回全日本選手権(兼第7回明治神宮体育大会)記念章 1933年10月31日−11月3日 
第二十届全日本選手權大會兼第七回明治神宮體育大會(1933) 紀念 国立台湾歴史博物館蔵

 

第3章 第1節 台湾から東京、そして世界へ

張が獲得した日本の一線級の陸上競技大会およびオリンピック関係のメダルを中心に張の競技人生の歩みを見渡します。台中商業学校で陸上スポーツの基本的能力を認められた張は、在学4〜5年の頃から長距離・三段跳・中距離で実績を残し、半年間の台湾実業団での競技活動を経て、早稲田大学に進学。明治神宮大会(全日本選手権)、学生陸上選手権などで400m・400mハードル・1600mリレーを得意種目とする中距離ランナーとし て確立していきました。

広報画像⑩ 第10回オリンピック、ロサンゼルス大会参加記念章(表) 1932年7月30日−8月14日
1932年洛杉機奧運參賽紀念章 Xth OLYMPIAD 1932 /LOS ANGELES CALIFORNIA  国立台湾歴史博物館蔵

 

第3章 第2節 早稲田時代とロサンゼルスオリンピック

ロサンゼルスオリンピック、その後の競技活動や早稲田競走部の交友関係、東京での学生生活と台湾人同胞・故郷との関係を軸に構成します。オリンピック関連では、移動する船上での風景やアメリカ日系人世界の観察が興味深く、大学陸上部の活動では、植民地にまたがる学生運動部の遠征が注目されます。スポーツは、否応無く植民地との関係形成に繋がっていました。一方で張は、日本人による台湾人差別への反発を持ち、民族的な台湾人ジャーナリズムとの関係も強く、アスリートとしての人生を保証してくれる植民地の体系と、現実との矛盾のはざまで生きることとなりました。

広報画像⑪ ロサンゼルスに向かう早稲田大学の選手 
沖田芳夫関係資料44写真(国際大会) 
早稲田大学大学史資料センター蔵

陸上チームは男子26名、女子9名が選出され、男子選手の中には台湾の張星賢のほか、朝鮮出身の金恩培、権泰夏が含まれる。

広報画像⑫ 第4回日本学生陸上競技対校選手権400mハードル決勝 甲子園 1931年5月30-31日
張星賢就讀早稻田大學時期参加大阪甲子園擧行的「全日本學生對抗競技」勇奪氏四百公尺中欄第二名 国立台湾歴史博物館蔵

この大会で張星賢は2位に入った。なお戦前のハードルは木製でTの字を逆にした形をしており、倒れづらく怪我が頻発したため、戦後は鉄製でLの字を逆にした形に改良された。

広報画像⑬ 満洲ハルビンでの対抗試合100m 
1933年7月13日
1933年偽滿洲哈爾賓比賽100公尺冠軍張星賢剪影(張星賢自傳書籍 照片頁編排校對稿) 国立台湾歴史博物館蔵

早大競走部は1933年7月に朝鮮・満洲遠征を行い、各地で対抗試合を行った。大連の試合で、満鉄陸上部監督の林周介(京都帝大卒)と知り合い、満鉄就職を勧誘された。

 

第3章 第3節 満鉄時代とベルリンオリンピック

張は早稲田大学を1934年3月に卒業し、1年間の就職浪人の後、1935年4月に南満洲鉄道に就職、400mの正式陸上トラックをもつ大連で満洲での競技人生に入りました。張は、この就職の時点で、オリンピック候補選手の一人に選ばれており、翌1936年5月の全日本予選の実績により、満洲から唯一のオリンピック日本代表となったのです。張の身体は、日本代表・台湾だけでなく満洲の期待まで背負うこととなりました。

広報画像⑭ 三外地(台湾、朝鮮、満洲)対抗陸上競技大会における満洲チーム 1935年11月
張星賢任職滿鐵時期代表滿洲隊回台參加首屆「三外地對抗賽」與隊友分別於台北、台中、台南合照  国立台湾歴史博物館蔵

満洲チーム主力は張など日本で活躍した陸上選手であり、満洲が総合優勝した。

広報画像⑮ アメリカ陸上種目4冠のジェシー・オーエンスとオリンピック村練習場にて 1936年
張星賢與百米及二百米冠軍美國オーエンス合照 国立台湾歴史博物館蔵

写真の左から二人目。ベルリンオリンピックで100m・200m・400mリレー・走幅跳の4冠達成、ナチス政権下のオリンピックで、アメリカでの激しい黒人差別をくぐってきたアフリカ系アメリカ人ランナーが、最大の英雄となった。この時の走幅跳の銅メダルでオーエンスとともに表彰台に上ったのは田島直人(三段跳は世界新で金、京都帝大)。

 

第4章 スポーツの戦後

戦後の復興とスポーツは密接な関係にありました。敗戦により社会的経済的基盤の多くを喪失した日本において、スポーツ選手の活躍は、失われた一体感や誇りを再び想像し、獲得するための格好のメディアとなりました。また、スポーツの復興が、戦争によって断ち切られた社会関係や歴史的なつながりを再接続する役割も果たしました。物理的に「帝国」ではなくなった日本において、人々が共通して抱くことのできた一体感や誇りは、「帝国日本」の時代に引き起こされた人々の移動・還流に影響されたものでもありました。他方、植民地から解放された台湾は、大陸からの人の流入や、政治的粛清などあらたに厳しい時代を迎え、複雑な国際関係のなかで、オリンピックには「Chinese Taipei」(中華台北)として出場するに至っています。

第4章 第1節 ラジオ体操の改定、野球の復活

1945年の敗戦後、戦争遂行のために休止していたスポーツは軒並み大会を復活させ、それらは今日まで継続しています。六大学野球連盟は、1945年10月には早慶戦を行い、1946年春季からリーグ戦を再開しました。ただし、戦前のラジオ体操は、その集団性や行き過ぎた規律訓練など、戦争動員に果たした役割をGHQから懸念されて変更することになりました。1946年には新ラジオ体操が作成されましたが普及せず、現代に続くラジオ体操第一が1951年に作成されました。

第4章 第2節 東京・札幌オリンピックの再招致

戦後復興と高度経済成長を下支えした企業が、バレーボールやラグビー、サッカーなどの名門チームを育成しました。これらの企業スポーツは、1964(昭和39)年の東京オリンピックでの日本チームの活躍を後押しすることになります。団体競技の発展は、個別の企業への帰属意識を高めただけではなく、試合で実践されるチームプレーが、「企業戦士」養成の一要素としても受容されていきました。

広報画像⑯ 東京オリンピック開会式男性用ジャケット
1964年 個人蔵

バレーボールは1930年代に競技ルールが統一され、オリンピックで初めて公式種目になったのが1964年であった。

広報画像⑰ 東京オリンピック銅メダル表面(男子バレーボール) 1964年 個人蔵

この銅メダルは、男子バレーボールの代表メンバーだった小瀬戸俊昭氏のご厚意により展示に至った。この頃には、スカウトのしくみなども含め企業一丸となって競技スポーツの選手を輩出する体制ができあがっていたことがうかがわれる。

 

エピローグ

張星賢や孫基禎、人見絹枝や前畑秀子、運動会の写真に写る一人一人のような、歴史を生きた人々が発し続ける問いを、みなさまにどのようなかたちで持ち帰っていただけることでしょう。

国立台湾歴史博物館・国立成功大学と共同研究を始めた頃、日本側メンバーは、恥ずかしながら張星賢のことを誰も知りませんでした。張星賢の残した資料を読み解くという作業は、近代の日本と世界の関係史を読み直すこと、そのものでした。「私(たち)」とは誰なのか、いつ、どのような形状の「波」と格闘してきたのかということを、運動・スポーツの歴史的いとなみというピンホールカメラから問いかけることができた、そんな思いです。思いがけない感染症の拡大を経てオリンピック・パラリンピックとともにこの展示も延期され、2021年の開催となりました。この毎日が歴史となって、未来を生きる人々に対して、どんなメッセージを投げかけることになるのでしょうか。

【展示プロジェクト委員】

■展示代表:展示代表:樋浦 郷子(ひうら さとこ)(国立歴史民俗博物館 研究部 准教授)
専門分野 帝国日本の教育/宗教/文化
所属学会 教育史学会,歴史学研究会など
学歴 神戸大学大学院国際協力研究科博士前期課程【1998年修了】
   京都大学大学院教育学研究科修士課程【2006年修了】
   京都大学大学院教育学研究科博士課程【2011年修了】   
博士(教育学・京都大学)【2011年取得】
職歴 1999年  新潟県立両津高等学校教諭
   2002年  新潟県立新潟江南高等学校教諭
   2012年 帝京大学宇都宮キャンパス専任講師
   2016年~国立歴史民俗博物館研究部准教授

主な著書に、『神社・学校・植民地―逆機能する朝鮮支配』(京都大学学術出版会、2013年)共著に、平田諭治編『MINERVA はじめて学ぶ教職4 日本教育史』[担当:分担執筆, 範囲:第5章](ミネルヴァ書房  2019年1月)等がある。

 

私はこどもの頃から教師になりたくて、故郷で高等学校の英語教師になりました。働いているあいだ、学校生活の細かなことがすべて歴史を背負っていると考え始めて、学校の歴史を研究してみたいと思い、そこから研究の世界を目指すことになりました。働きながら不思議だと思ったことの一つが、運動会・体育祭でした。学校では運動会・体育祭の練習が長時間設けられています。ある時同僚のALT(Assistant Language Teacher)に「明日の5時間目は体育祭の練習だから英語の授業はないよ」と伝えたら、ALTに「なぜSports Dayにリハーサルがあるの?」と問い返されて、言葉に詰まったことがあります。要するに日本の運動会には固有の歴史があって、Sports Dayだけでは伝えることが不可能な概念なのでした。

それから長い時間が経過して、今回国立台湾歴史博物館・国立成功大学という最良のパートナーを得て、あらためてアジアにおける運動とスポーツの歴史をかえりみることが可能になりました。展示代表としてのみならず、個人的にも、この機会を与えられたことに心から精一杯感謝しています。人生、何が起こるかわかりません…。

 

江 明珊(Associate Curator & Chief, Exhibition Division, National Museum of Taiwan History)
張 淑卿(Curator, Exhibition Division, National Museum of Taiwan History)
陳 怡宏(Researcher Chair, Research Division, National Museum of Taiwan History)
陳 明祥(Curator, Exhibition Division, National Museum of Taiwan History)
劉 維瑛(Researcher, Research Division, National Museum of Taiwan History)
謝 仕淵(Associate Professor, National Cheng Kung University)
金 誠(札幌大学 教授)
荒川 章二(国立歴史民俗博物館 名誉教授)
川村 清志(国立歴史民俗博物館 准教授)
小瀬戸 恵美(国立歴史民俗博物館 准教授)
西谷 大(国立歴史民俗博物館 館長)

 

関連イベント

歴博講演会

第426回講演会「女性とスポーツの近代」
新型コロナウイルス感染拡大防止のため開催中止となりました。大変ご迷惑をおかけしますが、ご了承ください。

日時 2月13日(土)  13:00~15:00※開催中止
講師 樋浦 郷子
会場 本館講堂

巡回情報

台湾
国立台湾歴史博物館 2021年に巡回予定(詳細は未定)

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※上記素材以外の作品画像が必要な場合は、別途お問い合わせください。

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  • 展覧会名、会期、会場名、クレジット(リスト参照)を必ず掲載してください。
  • 資料画像は全図で使用してください。文字を重ねる、トリミングなど画像の加工・改変・部分での使用はできません。部分使用については事前申請・許諾が必要です。
  • Web上に掲載する場合は、72dpi以下の解像度にしてください。
  • 転載、再放送など2次使用をされる場合には、別途申請いただきますようお願いいたします。
  • 基本情報、図版使用の確認のため、ゲラ刷り・原稿の段階で広報事務局までお送りいただきますようお願いします。
  • 掲載、放送後は必ず、掲載誌、同録テープを、本展広報事務局へ1部お送り願います。

本リリースに関するメディア問い合わせ先

国立歴史民俗博物館 広報事務局(株式会社ユース・プラニング センター内)担当:大山・平野・池袋
〒150-8551 東京都渋谷区渋谷1-3-9 ヒューリック渋谷一丁目ビル3F
TEL:03-3406-3411/FAX:03-3499-0958/Mail:rekihaku@ypcpr.com