国立歴史民俗博物館 館長 西谷 大

人文学研究は、なぜ必要なのでしょうか。人間社会を維持するためには、知識と知恵が必要です。その知識と知恵は人類の長い歴史のなかで蓄えられ作り上げられてきました。

私たちはその知識と知恵をよりよいものに高めていく必要があります。そのためには人類の歴史を多様な視点から見つめながら、歴史のなかで培われた知識と知恵がどのように生まれてきたのか、また社会と人にどのような影響を与えてきたのか、その歴史を明らかにする必要があります。

世界は激動の時代です。国家のあり方や国家間の関係性の枠組みが激しく揺れ動いているだけではありません。技術革新が誰も想像もしなかった方向へと急速に変化し、環境破壊や経済格差が進み、さらに今回の新型コロナウイルス感染拡大は世界システムそのものの矛盾を露呈させその影響は甚大です。

一体この先、私たちがどうなるのか、どこへ向かうのか、どうしたらいいのか誰にもわからず、その不透明感と不安感が世界を覆っています。しかし、新型コロナウイルス感染が終息した後には、おそらく世界は今一度、「人類の歴史活動のなかでの自分たちの立ち位置の確かな見解」といった、人文学研究に通底する問題意識をさけては通れないのではないかと思っています。

そして私たち自身が「人類の歴史を広い視野でみる力」「異質な世界観や価値観をもつ他者に対する共感力」を養うとともに、このような「力」をもつ次世代の人を、育てていく必要があると考えています。

さて、内田樹(専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長)が、今回のコロナ禍についてこのようなことを述べています。

「とりあえず今回のコロナ禍から私たちは「危機耐性が強かったのはどういう条件を満たした国か」だけは学んだ。それは最悪の事態に備えて国民資源に「余裕(スラック)」を残しておいた国。医療品、食糧、エネルギーなど生き延びるために必須の物資を他国に依存せず自給自足できる国。「自国ファースト」に閉じこもらず、国際協力の手立てを工夫した国。指導者が国民に明確なメッセージを発信し、「正常性バイアス」にとらわれない大胆な政策を採択した国である。それらの条件を満たすことがこれからの「あるべき国」の条件になるだろう」(AERA 2020年4月27日号)。

これは学問についても同じことが言えるのではないでしょうか。短期的な成果や今は目先の利益につながりそうにはないけれども、人文学の役目である人間やその社会そのものを見つめなおすためには、人間文化研究機構が有するような、学問の多様性と幅広さが必要です。そして日本という国に閉じ込もるのではなく、世界と連携しながら、人間が人間らしく生きるとはどういうことなのかという根源的な問いとメッセージを内外にむけて発信する必要があると思います。

疫病や病気は、当然ながら地域の歴史や生活様式と深く結びついています。国⽴歴史⺠俗博物館では、花王株式会社(社⻑・澤⽥道隆)感覚科学研究所と、⽇本⼈の「きれいにする⾏為」 (=⾝体・空間の洗浄、⽚付け、整理整頓)について共同研究をおこなっています。今回はその一端をご紹介したいと思います。

昨今の新型コロナウイルス感染拡大の状況下で、衛生環境に対する意識が、今まで以上に高まっている中で、はからずきわめて今日的な意義を有する研究となりました。

 

国立歴史民俗博物館 研究部教授 関沢 まゆみ

国立歴史民俗博物館では、考古学、歴史学、民俗学、そして分析科学などの参加のもとに、たとえば、戦争と社会、災害の歴史、高度経済成長の光と影、衛生と洗浄の近現代など、さまざまなテーマで、学際的、実証的、通史的、という基準のもとに共同研究を実践してきています。1990年代に実施した戦争をめぐる共同研究では、人類にとって戦争とは何か、この問いに、考古資料、文献史料、さらに体験者への聞き取り情報など、資料に基づく研究を行なってきました。そのなかで、人類の歴史は平和より戦争の状態がむしろ常態なのではないかという逆説的な点が注目されました。そして、あらためて平和の実現には理性と努力が不断にして継続的に必要なのだということが認識されることになりました。近代の戦争を中心とした共同研究では、戦争と兵士、戦死と慰霊追悼、戦時体験の記憶、などとともに、人びとが何を大義に戦ったのかなど人間の行動の動機への問いが出てきました。

また、2011年3月11日に発生した東日本大震災を契機に、自然災害の歴史とその記憶、歴史文化資料のレスキューなどをテーマに共同研究が進められました。歴史的な視点から平安時代の貞観大地震、近代の三陸地震などくりかえし大津波に襲われてきた地域の歴史、また、気候変動と水害の実態、などが分析されました。津波に襲われてもまた危険な海の近くに戻って行ってしまう人びとの行動傾向、これも歴史の中にくり返されてきたことが注目されました。また、洪水の危険があることがわかっていても河原に住み、そこに市が立ち経済活動も活発に行なわれてきました。今も話題になっている「経済か生命か」という選択と、共通する問題点がそこにはありました。人間はやはり何より経済効率を求める行動をする傾向が強いということがわかりました。

科学技術の発達と医学医療の発達が人間社会に豊かさをもたらす歴史を知りながら、人間がさらに利益をもとめて危険に向かってでも行動し思考する動機や意味付け、そして価値付けをすることについての研究は、やはり人文学が責任をもって参加する分野です。自然科学と人文科学の協業による、人間社会に何らかの形で貢献できるその可能性の追求と限界性の自覚、つまり科学が万能ではない、しかし希望の中で実現可能なこととは何か、への問いの中で、歴博の広義の歴史学を中心とした学際的な研究は試みられています。

さて、2018年度から花王株式会社と産学協業、文理協業の試みとして、「清潔と洗浄をめぐる総合的歴史文化研究」を行なっています。この共同研究のなかで、目に見える汚れと目に見えない汚れがあることが理系の研究者から指摘されました。前者は洗剤などで洗うことできれいになりますが、後者はうがいをしても洗ってもさっぱりしない落とせない汚れ感です。近代以降、私たちは身体や生活の衛生と清潔と健康を追求してきました。ただのごしごし洗いから石鹸や洗剤の使用へ、そして今では殺菌、除菌へとあくなき欲求が人間にはあることがよく見えてきました。物理的なきれいを求め続けてきたのですが、どんどんと欲求はエスカレートするという傾向です。先端的な技術開発の恩恵を受けても受けても人間の清潔と衛生、きれいと美しいへの欲望には際限がないこと、そして、かえって不安心理が肥大化するなど、逆の問題も起こっています。

一方、目に見えない汚れに対する恐怖は根強いもので、それは洗剤や化学薬品などで落とせるものではありません。盛り塩や祓え清めなどの儀礼的な対処が歴史と民俗の中で伝えられてきました。これについては、古くには折口信夫が、自然にたまっていく霊的なものや穢れは定期的に祓えやる、そしてリセットするというリズムが重要であることを指摘しています。

人文学では、人間の行為や思考を、物のレベルで分析するだけではなく心のレベルとも合わせて分析してきました。たとえば、疱瘡(天然痘)の歴史についてみると、かつて疱瘡は子供が一度は罹患し、致死率も高かった恐ろしい病気でした。多数の死者も出してきました。ウィルスの知識がなかった時代、疱瘡は疱瘡神がもたらす病気と考えられていました。人びとは、その病と闘うのではなく、疱瘡による赤い斑点と同じ、赤い御幣や赤飯、赤い衣類やだるまなどを描いた赤絵で疱瘡神をなだめて、帰ってもらおうとする習俗がありました。そして、元禄期の香月牛山による症状の観察などから、疱瘡は3日ごとに症状のあらわれ方が決まっており、膿が山のように膨張する「山あげ」を無事に経れば快方に向かうということが知られてきました。そこで、赤絵に富士山の絵柄が加わりました。しかし、そのような知識がないようなところでは、疱瘡になると伝染を恐れて患者を山の中に隔離したという地域もありました。不安のなかで、隔離と差別があらわれたのでした。危機に際して、恐怖が差別と排除を生むということは、歴史のなかで繰り返されてきました。人間の行動を物と心の両方から研究する人文学のしごとが必要だとあらためて思います。

花王株式会社との産学連携の共同研究では、このように洗ってきれいになるものとならないものがある、物理と心理、認識と感覚という課題を共有してきています。ちょうど、研究期間の3年目に入った2020年の2月、急に今回の新型コロナウィルスの感染の大問題が起こりました。当初はこれほど世界規模の危機が迫って来ているとは多くの人が思いませんでした。しかし、見えないウィルスの脅威が急速に迫ってきました。この危機に直面して、社会に横たわる恐怖と差別、受容と排除という問題が浮き上がってきています。清潔と洗浄をめぐる研究も、戦争や災害の研究と同様に、人文学では人間の思考や行動の明と暗についての研究になります。

技術革新の恩恵を受けて、私たちの生活は快適なものとなりました。しかし、危機に直面したときの対応の仕方について、人文学が行動的であるとともに理性的であるためにはどうしたらよいのか、スピード感をもって、実証的に現在未来も見すえた歴史の中に学び、その成果を発信する必要があると考えています。