よくあるご質問

日本史について

Q1.
日本人はどこから来たのですか?
A1.
日本列島に人が住みはじめたのは、今から三万年以上前と考えられています。まだ地続きだったアジア大陸から、狩りの動物を追ってやってきたのでしょう。でもこの頃の人の骨は見つかっていませんので、どのような人たちだったかはわかりません。

日本列島でもっとも古い人の骨は、沖縄で見つかった港川人です(約18,000年前)。出土した骨から全体の骨格を復原すると、写真のような姿をしていたと考えられます(第一展示室にあります)。その後の縄文人も含めて、南方系のモンゴロイドと考えられています。目鼻立ちのはっきりした、比較的背の低い人たちです。

弥生時代になると、朝鮮半島を経由して多くの北方系のモンゴロイドが渡ってきます。彼らはコメや金属の道具を伝えました。彼らは縄文人と混血して、その子孫が九州北部から瀬戸内、近畿にかけての地域に多く住んでいました。

古墳時代の中ごろ(5~6世紀)にも、朝鮮半島から多くの北方系モンゴロイドが陶器を作る技術や製鉄技術をもってやってきて、西日本に住みました。北方系モンゴロイドが多くはいった地域は西日本に限られていたのです。

このように、日本列島には、旧石器時代から古墳時代にかけて、多くの人々がアジア大陸の北から南からやってきました。こうした数万年にわたる積み重ねの結果、日本列島に住む人たちがつくられていったのです。質問は、「日本人はどのようにして形成されたのですか?」というのが正しいでしょう。
(考古研究系・藤尾慎一郎)
Q2.
三内丸山遺跡(青森県)はなぜ注目されているのですか?
A2.
一つは、やはり遺跡として大変すごいものだということです。1500年間にわたる生活の跡が、家、大きな家、直径1メートルもの栗の柱、お祭りの広場かと思われる土盛り、子供の墓地、「倉庫」等々、実に色々なものの跡が出てきました。

二つ目は、佐賀県吉野ヶ里遺跡の場合と同じように、広い面積を一度に発掘したことで、野球のグラウンドを予定していた所を全部掘ったので、建物をはじめとする色々な跡がいっぺんに見えるのです。普通の遺跡では部分部分の発掘しかできないので、こんなに目立つ結果はなかなか出てきません。

三つ目には、過大に取り上げられていることです。例えば、家の数は百軒、住人は500人などと報道されていますが、これまでに知られている縄文時代中期の遺跡では、大きな集落は十軒程度で、三内丸山遺跡でも同時に存在したのは野球グラウンド予定地で十軒か二十軒という見方もできます。しかし、この意見は取り上げられず、大きく見積もる意見だけが使われています。直径1メートルの柱の跡も、建物なのか柱が立っていただけなのかは全くわかりません。しかし、建物として空想の建物が建てられます。大胆な「想像復原」でしかないと断るべきでしょう。
(元館長・佐原真)
Q3.
邪馬台国はどこにあったのですか?
A3.
これは、たとえば卑弥呼がもらった金印が出てもだめで(後からよそに動かされる可能性があるから)、邪馬台国の位置を書いた地図が中国で出ない限り、万人を納得させるのは難しいでしょう。

私(佐原)は「どこにあったか」よりも、『魏志倭人伝』の記載が近年考古学的な事実で次々に正しいと確認されていることの方に関心を持っています。たとえば、日本から中国に絹織物を献上したという記述も、考古学による検証はとても無理だと思っていたところが、出土品の顕微鏡による調査で中国・朝鮮半島・日本それぞれの絹織物の違いが分かるようになり、立証されています。『魏志倭人伝』の考古学との比較については、『歴博』の「真(まこと)の部屋」という欄に連載をしているので是非ご覧下さい(71号~81号)。

なお、しいて「どちらか」というなら私は大和説で、卑弥呼の使いの時の年号を書いた「三角縁神獣鏡」が近畿を中心に出土していることなどからです。大多数の考古学者は大和説です。参考文献として、『邪馬台国への道』(朝日新聞西部本社編 不知火書房 1995年)を挙げておきます。
(元館長・佐原真)
Q4.
展示室の「青銅鏡」はなぜ顔がうつらないのですか?
A4.
展示室でお見せしているものは、実は鏡の「裏」の方で、ものがうつる「表」は下を向いているのです。なぜ裏の方をお見せするかというと、そこには様々な文様や銘文が鋳込まれているからで、これによって、鏡に託された古代人の考えや、鏡の年代などを知ることができるからです。

弥生時代のお墓や古墳から出てくる鏡は、中国や日本で作られ、死者に添えられたものです。漢字で書かれた銘文には、鏡を持つ人が幸福になり、富み、出世し、長生きし、子孫が繁栄するなど、古代中国人の色々な願いが書かれています。古代の日本では、こうした鏡が、政治と祭の中で呪力を発揮する呪具として使われていたようです。

なお、表の方は、もちろん何も文様がないただの「鏡」ですが、中央が出っ張った凸面鏡なので、マジックミラーのような少し変な形にうつります。
考古研究系・藤尾慎一郎
Q5.
「前方後円墳」というのはどんな古墳ですか?
A5.
古墳は、真上から見た形で分類すると、基本形として、丸い「円墳」と四角い「方墳」があり、あとはこの基本形を組み合わせたものです。ですから、「前方後円墳」は円墳と方墳を組み合わせたもので、方墳と方墳を組み合わせたものは「前方後方墳」などとなります。このような様々な古墳の形は、造られる時期や時代に特徴があります。

「前方後円」という形については、死者を埋葬する円形の部分の手前に、祭壇の意味を持った方形の部分を付設したと考えられています。それで、手前が「方」、後ろが「円」で、「前方後円」となるのです。

この前方後円墳は、古墳時代前期の3世紀ころに奈良盆地で成立し、まもなく旧邪馬台国連合の西日本に広がり、中期(5世紀ころ)には東国もこの体制に統合されます。政治権力や祭のシンボルとして、大きな意味を持っていたようです。
考古研究系・藤尾慎一郎
Q6.
中世の市場はどんなところだったのですか?
A6.
日本史の教科書などでは、鎌倉時代には、交通の要所や寺社の門前などに月三回の市が立ち、室町時代頃から月六回の「六斎市」に、さらに中心的なところが都市に発展する、と書かれています。しかし、実際の物の取引や店の並び方などについては、『一遍上人絵伝』に描かれた備前国福岡市の絵などにうかがえる程度で、それ以上の具体的なことはほとんどわかっていませんでした。

ところが、最近は中世考古学の発達で、街道を中心とした市場の跡かと思われるものもいくつか発見され、遺跡からの市場の様子がうかがえるようになっていきました。また、市場には市神がまつられるなど、民俗的に興味深い慣行が従来から注目されてきましたが、近年、商人や市場の起源を書いた由緒書の資料がいくつか紹介され、話題になっています。こうした伝説と遺跡や民俗、それに狂言などの文学作品などを合わせて考えることで、中世の商人や市場についての新しい研究を行うことが出来るのではないかと期待されます。

このような考えから歴博では、1996年11月23日(土)に「第23回歴博フォーラム 中世商人の世界-市をめぐる伝説と実像-」を開催し、有意義な議論を展開することができました。
(元館長・石井進)
Q7.
中世のお城はどんなものですか?
A7.
ふつう「お城」というと江戸時代の、立派な天守閣を中心にした城をイメージしますが、他の時代にも城はありました。特に中世には、大名から村々の領主、さらには寺院や百姓までもが城を築きましたので、全国には数万と言われるほどのたくさんの城跡があります。

これらはふつう石垣や瓦葺きの建物などはなく、土を掘ったり盛ったりした堀や土塁(どるい)によってつくられています。守るに便利な山城が多くつくられたのも特徴で、毛利元就や織田信長などの戦国大名の多くは、普段は山の上で暮らしていたようです。平地にも館などが多くつくられ、「城ノ内」「殿屋敷(とのやしき)」などといった地名として残っていたりもします。

古代にも、多賀城のような政庁的な城や、朝鮮式山城などがつくられており、日本の城には長い歴史があります。詳しくは、歴博の教員8名が書いた『城の語る日本史』(石井進・千田嘉博編1996年10月朝日新聞社刊 2000円)を是非御覧ください。
(元研究部・千田嘉博)
Q8.
「小京都」というのはどこのことですか?
A8.
観光案内などでよく「小京都」という言葉を目にしますね。これは古くて情緒のある町、という程度の意味で使われているので、特に歴史的な用語ではありません。

けれども、やはり京都は古代以来日本の政治や文化の中心であり続けたので、それぞれの時代に京都をまねた都市がつくられました。平安時代末の奥州藤原氏の平泉(岩手県)は、当時京都の中心であった鳥羽などをモデルにしたようですし、秀吉が大改造して聚楽第(じゅらくてい)を中心にした城下町となった京都は、全国の城下町づくりに強い影響を与えています。室町時代の幕府「花の御所」も、全国の国人領主や守護の館のモデルになっていることも分かってきました。

律令時代の平安京のままではなく、時代によって姿を変え続けたところに、数多くの「小京都」を生み出した京都の根強さがあったのです。
(元研究部・小島道裕)
Q9.
「楽市令」というのはどんな法律ですか?
A9.
「織田信長は楽市令を出して商人が自由に営業できるようにした」と言うふうによく説明されますが、実際に「楽市」とされたのは、安土などの個別の都市や市場で、全国法令ではありません。読んで字のごとく、「楽市」という、誰でも商売ができて、税金も取られない市場、という慣行が中世にはあったようで、市場が新しく作られた際などにこうしたことが行われたようです。

今日残っている楽市令の多くは、戦国大名や織田信長などが、自分が新しくつくった城下町などを繁栄させるために、キャッチフレーズの意味もかねて、こうした内容の法令を出して特権を与えたものです。この時代は、各地で現在に続く都市が一斉につくられはじめた時で、そんな時代の息吹を今日に伝えるものと言えましょう。

2000年にリニューアル・オープンした第2展示室では、楽市令のいくつかを展示しましたので、是非見に来てください。
(元研究部・小島道裕)
Q10.
「民俗学」は「民族学」とどう違うのですか?
A10.

当館の姉妹組織である大阪の「民博」は「国立民族学博物館」で、「民俗学」と「民族学」は使い分けられています。一般的にいえば、「民族学」の方は世界のいろいろな民族の文化を対象とし、「民俗学」は一国内の風俗・慣習などを対象とする、という違いがあります。当館は日本の歴史と文化を扱っているので、「民俗学」になります。もっとも、「日本」の範囲は何か、日本だけで文化が完結するのか、と考えていくと、区別は必ずしも明らかでない面もあるのですが、ともあれ当館は「国立歴史民俗博物館」ですので、くれぐれもお間違えなきよう。

歴博について

Q1.
歴博があるのはどんなところですか?
A1.
歴博が建っている佐倉城址(千葉県佐倉市)は、幕末の開明的な老中堀田氏の居城で、周囲の堀には今も水をたたえ在りし日の面影を伝えています。本丸跡は芝生広場、また、二の丸・三の丸跡は疎林広場として整備されており、遊歩道が巡っています。堀に突き出した出丸にはベンチなども置かれ、全体が佐倉城址公園となっています。

銘木「夫婦もっこく」、姥が池の蓮、桜と豊かな緑と四季の花に包まれ、眼下には印旛沼を望む景勝の地で、一年を通じて歴史と自然を満喫することができます。
Q2.
歴博はどのような組織なのですか?
A2.
歴博は、平成16年4月1日の国立大学の法人化と同様に東京の国文学研究資料館、京都の国際日本文化研究センター、総合地球環境学研究所、大阪の国立民族学博物館らの大学共同利用機関と連携し「大学共同利用機関法人 人間文化研究機構」を創りました。機構所属の研究機関である歴博は、一般の博物館とは異なり、我が国の歴史学、考古学及び民俗学に関する資料の収集・保管、調査研究を大学の教員等と共同で行うことを目的とした研究機関であると同時に、その成果を博物館に展示し、皆さんに観覧いただいています。

また、平成11年度から神奈川県三浦郡葉山町にある総合研究大学院大学の文化科学研究科日本歴史研究専攻博士後期課程を担当し学生の教育を行っています。従って、この「歴博」は、大学の教員等による共同の研究機関であり、調査研究の成果を展示する博物館であり、大学院学生の教育機関でもあります。
Q3.
歴博の展示はいつも同じなのですか?
A3.
歴博の展示には、常設の総合展示と年2回程度の企画展示、および屋外の「くらしの植物苑」があります。総合展示は常設ですが、資料保存の問題などもありますので、コーナーにもよりますが、毎月相当数の展示品を入れ替えています。

当館の展示品は決して模型やレプリカ(複製品)ばかりでなく、国宝・重文を含む実物も多数展示されていますので是非ご注目ください。(主な展示替えは、れきはくホームページの「期間限定の展示資料」でご案内しています。)
Q4.
歴博は学校の校外学習に利用できますか?
A4.
もちろん大歓迎で、全国の多くの学校に利用していただいています。

先生方には、下見やお申し込みの際に、当館の利用についてご相談に応えることも可能です。

パンフレット等資料のご請求、団体見学のお申し込み・ご相談は、広報・普及係へお願いします。
Q5.
博物館の職員にはどうしたらなれるのですか?
A5.
大学共同利用機関法人人間文化研究機構の機関として設置されている「歴博」で働く人々は、大学共同利用機関法人職員が中心です。仕事の内容により大別すると、大学と同様に研究教育を担当する研究教育職員と事務処理を担当する事務職員がいます。

研究教育職員は、専門分野に応じて情報資料研究系、歴史研究系、考古研究系または民俗研究系のいずれかに所属し、教育研究活動に専念しています。募集は原則として公募です。事務職員は、国立大学法人等職員採用試験の合格者の中から採用されます。この他に、研究に関する職務に従事する非常勤研究員及び事務に関する職務を補佐する事務補佐員等が在職しています。非常勤研究員は、高度な専門的能力が要求されますので一定レベルの教育を受けた経験者が優先されます。事務補佐員は、必要に応じて職業安定所などを通して公募を行い、面接により採否を決定します。

なお、警備等一部の業務については、民間へ委託していますので、法人職員だけでなくいろいろな方々が働いています。
Q6.
歴博の展示には、なぜ複製品が多いのですか?
A6.
展示品の中には「複製」という表示が付いたものがあるのにお気づきかと思います。これは、実物資料(原品)ではなく、それをもとに形や色を模して作ったもので、「レプリカ」とも呼んでいます。

展示ではもちろん実物をお見せするのがよいのですが、なにしろ実物は世の中に一つしかないので、全国の重要な資料のすべてを歴博に持って来てしまうわけにはいきません。それに、絵画など保存のためには長期間展示することができないものもあります。

そこでとられているのが複製品による展示という方法で、これですと所蔵者の許可さえいただければ、必要な資料を、いつも展示しておくことができます。

複製品の作り方は、仏像や石造物などの立体的な資料は、型を取るか計測して樹脂などで成形した上に着色、絵画などの平面的なものは、巨大なカメラで精密に撮影した上で多色刷り印刷または手彩色、といったものです。

原品と完全に同じというわけにはいきませんが、展示テーマの中で資料の意味を理解していただくには十分なものになっているはずですので、ご理解の上でご覧いただければ幸いです。
Q7.
車椅子で展示を見ることが出来ますか?
A7.
もちろんできます。障害者用駐車場、トイレ、スロープも整備しております。レストランも使えます。

また、車椅子の貸し出しも行っていますので、総合案内にお申し付けください。
Q8.
レストランはお弁当の持込ができますか。館内でお弁当を食べるところはありますか?
A8.
レストランでは、お弁当の持込はご遠慮願っております。

館内でお弁当を食べられるところは、中庭があります。また、館に隣接した芝生広場がありますのでご利用ください。
Q9.
駐車場はありますか?
A9.
歴博には、無料の駐車場があります。

なお、ゴールデンウィークなどの混雑時には、お待ちいただく場合もあります。
Q10.
館内を一通り見るのに、どのくらいの時間がかかりますか?
A10.
当館の展示室は、総合展示が第1室~第6室(約8,200㎡)、他に企画展示室(約700㎡)があります。見学される方の興味、関心によって見学時間は異なります。

団体で入館される方は、2時間ぐらいの見学時間を設けているようです。