福島県立博物館テーマ展
「山口弥一郎のみた東北」をみて

 山口弥一郎という名をご存知の方は多くはないだろう。日本民俗学の周辺でも、彼の名を覚えていた者は少数派かもしれない。あの東日本大震災が起きるまでは。  

 もちろん、震災以前から彼の先見性に気づき、その軌跡を書誌学的に辿ろうとした試みがある。故郷の福島県では地元の偉大な先達として、心に留める人たちも少なくなかったはずだ。ただ、全国的な知名度や論文でのレファレンスを考慮する限り、最初に述べた印象に大過ないはずである。そこで、改めて問い直したい。山口弥一郎とは何者なのだろうか。彼が目指し、成し遂げ、残したのものは何だったのか。その問いに対して山口の膨大な調査の系譜を辿りつつ、民俗学の新たな可能性を垣間見せてくれたのが、福島県立博物館で行われた「山口弥一郎展」である。  

 一九〇二(明治三五)年、山口弥一郎は福島県の会津地方、旧新鶴村に生まれた。福島県師範学校を卒業して教員となるが、赴任先のいわきで、東北帝国大学の田中館秀三に出会い、師事するようになる。それ以後、教員を務める傍ら、東北各地を地理学や民俗学の視点からフィールドワークを行うようになる。彼が東日本大震災後に再注目されたきっかけは、展示の序文に記されている。

その山口が近年注目を浴びるようになったきっかけは、平成23年の東日本大震災でした。山口は生前のライフワークとして、三陸地方を中心に東北各地を歩きまわり、津波被災地の暮らしや復興の過程を調べました。その仕事は東日本大震災後に大きく評価され、昭和18年刊行の著書『津浪と村』は復刊されて広く読まれています(展示より)。  

 冒頭に記したように、山口の仕事は、一九三三(昭和八)年の昭和三陸大津波後の東北沿岸地域の調査をまとめた『津浪と村』とともに再評価されるようになった。確かに彼は津波後の被災地に赴き、地域がどのような痛手を被り、どのような問題を抱え、そしてどのように復興しようとしているかをつぶさに捉えてきた。しかし、山口の仕事を戦前の津波研究に収斂させることは、その全体像を見誤らせるものでもあった。このことは、この展示において、もっとも痛切に思い知らされたことである。  

 展示の大きな流れは、決して難解なものではない。山口弥一郎の人となりを人生の軌跡に沿ってほぼ時系列に沿って紹介している。  

 教員となった山口は、一九二三(大正一四)年に県立磐城高等女学校に赴任する。教諭の傍ら炭鉱集落の研究も進める。研究調査の過程で彼は、地域の人々の生活世界やそこで語られる民間伝承の重要性に気づき、民俗学を志すようになった。一九三五(昭和一〇)年日本民俗学講習会に参加して、柳田國男に師事し、磐城民俗研究会の創設にも貢献している。展示の序盤ではこの磐城時代のフィールドワークの軌跡が紹介される。すでに述べた三陸部での津波調査もこの時期に開始された。  

 次に戦時下の岩手時代から戦後の帰郷後の営みが紹介される。一九四〇(昭和一五)年、山口は岩手県の中学校に赴任し、終戦の年には同じ岩手の北上山地の学校に異動となる。地元の農家に寄寓しながら、教員生活を続ける。終戦の年に帰郷した彼は、いったん公職を退き、実家で農業経営にあたることになった。当時のノートには、一方では寄寓者として未知の場所でのインテンシブな調査が記され、他方で同郷人としての視点からの「帰郷(帰農)採録」を残されている。それらは奇しくも柳田國男が唱えた学問の三分類―旅人の学、寄寓者の学、同郷人の学―に対応するものであった。

一九四七(昭和二二)年以降では、教員への復職と文化財行政での実践的な営みが提示される。赴任先の会津高等女学校(会津女子高)では、フィールドワークを積極的に取り込んでいた様子が、画像資料などを通じて照射される。昭和30年代には、福島県の文化財審議委員や県史編纂委員を歴任し、地域の民俗調査や文化財指定を推進した。この時期の山口は、ダムに水没した村や廃村となった集落の調査を積極的に行っていった。さらに還暦をゆうに超えた一九六五(昭和四〇)年以後、山口は東京の大学に迎えられ、八〇代半ばまで後継の育成と自身の研究に邁進した。  

 展示された資料の中心は、山口家から福島県磐梯町に寄贈された一次資料類であるが、会場自体は決して広いものではない。三〇分もあれば事足りる人たちも多いだろう。しかし、展示の端々には、山口への深い理解と資料へのひたむきな情熱がみなぎっている。以下では、私個人が本展示で受けた印象を三点ほど紹介しておきたい。1)同時代人としての山口の存在、2)地域社会の動態への眼差し、3)持続(サステイナブル)する学問とは何か、という点である。  

 最初の気づきは、ある意味で当然すぎることかもしれない。二〇〇〇(平成一二)年に九八歳の天寿を全うした山口弥一郎は、つい最近まで我々と同じ時代を歩んでいた。しかし、戦前の津波研究の枠組みで捉えていた私は、彼を遠い過去からの警鐘者(ワーナー)としか考えていなかった。そんな距離感が打ち砕かれるのは、彼の書き込みが入った一九九五(平成七)年の新聞記事である。言うまでもなく阪神・淡路地区を襲った大震災の惨状を伝える紙面である。山口はこの都市災害に対して、人文科学の知の結集をとく。バブルの終わりから東日本大震災に連なる「失われた二〇年」を象徴する災害に立ち合い、そこに新たな研究の必要性を刻印していたわけである。その意味でも山口が挑んだテーマは、我々にとって直近の課題に他ならない。  

 第二に山口が現場に見出した地域社会のダイナミズムである。それは、淡々と始まるオープニングから静かに描きだされる。田中館秀三に師事した山口は、地理学の視点から磐城市の炭鉱の発達と人の移動に注目した。彼は炭鉱の掘削地点が移動するにつれて、人々が居住する街場も移動していくダイナミズムを明らかにした。掘削地の移動と街の中心地の移動がパラレルに示された地図が、展示室の壁面に示される。地理学的な視点ならば、このような流動性は、客観的な事実として提示しやすかったのかもしれない。しかし、イエやムラの永続性というイデオロギーをつい最近まで固守してきた民俗学において、このような視線は十分に撹乱的である。彼の視点は、初発において民俗学が自らの存在理由とする地域社会の固有性や固定性を軽々と超えでていた。かといって彼の議論は漂泊民や芸能民のような、共同体の外部を前提とした存在へと跳躍することはない。その安易な物言いが周縁と中心に関する議論を定形化させるだけであったことは周知の通りである。  

 残念ながら、民俗学において現在においてもなお、社会のダイナミズムを真正面から捉えた研究は見出せない。それに対して山口は、炭鉱以後も、津波被災地や凶作による廃村、戦後のダムの水没村に至るまで、常に揺れ動き、流動する地域社会を直視してきた。このような地域のダイナミズムは、現代の地域社会とも地続きの問題に他ならない。その意味で彼の問いかけは、戦前の津波調査からも一貫したものだった。  

 ここに及んで「学問の持続(サステイナビリティ)とは何か、という漠然とした問いが、頭をもたげてきた。展示を行きつ戻りつしながら、私は時代を束縛する重苦しい雰囲気の先にある何かを確かに実感していった。  

 今日、民俗学をはじめとする人文科学は、苦境の只中にある。学問の有効性に疑問が付され、研究環境は悪化の一途をたどっている。予算は先細り、集約的なアーカイブ化や大規模な電子化といった、地道なフィールドワークとはかけ離れたテーマしか採択されない。他方で民俗学のスキームは、未だ旧来の枠組みを超えることはできず、眼前で進行しつつある過疎化・高齢化に対しての提言一つもできていない。  

 その状況を鑑みつつ、山口の仕事の系譜を振り返れば、何が見えてくるだろうか。彼の営みは、決して奇を衒うものではない。柳田の視点を踏襲しつつ、日常の視点に立って生活文化を丹念にノートに記した。学生たちを連れて、消え去ろうとする村の営みを丁寧に聞き取り、記録した。地域の文化財行政に寄与し、滅びゆく民間伝承のサルベージを行った。それらは戦後から高度経済成長期、多くの民俗学者が様々な地域で行った営為に通じるものである。ただ今回の展示資料が明らかにしたものは、社会的な要請やしがらみによって遂行される調査や研究とは、明らかに質を異にする視点があり、実践が垣間みえる点である。  

 すでに述べたように彼は対象とする社会の変動を常に見据えていた。様々な災害によって突然、村々が消え去ることもある。基幹産業の変化やマクロな社会的要請によって、圧倒的な変容を強いられることもある。その現実を彼は冷静に日常の生活の端々から捉えなおそうしていた。むしろ、教育者であり、文化財行政に積極的に携わった山口だからこそ、裏面で進行する研究分野と現実との乖離や制度矛盾を熟知していたのではないだろうか。  

 現在、歴史学や民俗学の周辺では、例えば一〇〇〇年続くムラの研究やレジリエント(回復可能性)な社会の探求といったテーマが目につく。それらの研究自体を否定するつもりもないが、そこで見出されるものが、学問自体の持続性に結びつくものでないことは確かである。対象の持続性をいくら強調したところで、希少な絶滅危惧種のサンプルが標本化されるに過ぎない。圧倒的大多数の地域社会は、常に変化し続けている。むしろ問題は、変化し続ける社会を私たちはどう捉え、どう位置づけるべきか、である。この展示に端を発するであろう山口弥一郎研究は、そのための重要な視座を与えてくれるのではないか。そんなうっすらとした期待を抱きつつ、もっとじっくりと山口の仕事に目と耳を澄ませたくなった。  

 もちろん、本展示が示す山口の可能性はこれだけにとどまらない。学校現場、とりわけ女性教育において彼が行った実践の意義、あるいは、会津というローカルな空間での民俗学の後進の指導といった営みは、学問の持続性ともリンクする重要なテーマである。また、調査の現場における歴史学や考古学といった他分野との学際的な調査研究のあり方も、今、この時期に再考すべき重要なテーマとなりうる。何れにせよ山口弥一郎の展示は、より広い文脈の中で再現され、共有されるべきだろう。(川村清志)

編集中ブックレットの紹介
(気仙沼のカミと妖怪)

 久しぶりの投稿となります。現在、プロジェクトでは、先に紹介した祭りのブックレット以外にもう一冊、ブックレットの制作を並行して行なっています。昨年の夏に本館で行なったパネル展示「気仙沼のカミと妖怪」を再構成したものです。この展示では、本館の総合第4室の再現尾形家住宅を舞台として行いました。タイトルの通り、尾形家の故郷である宮城県気仙沼市の資料をもとに、尾形家のある小々汐地区とその周辺部のに継承されてきたカミや妖怪を紹介しています。

編集中ブックレットの紹介
(輪島市皆月日吉神社山王祭 祭日編)

 新年度を迎えたものの、今時のコロナ禍のため、研究員も自宅での作業となっております。そのためプロジェクトに関する共同研究や調査は、全く行えておりません。これは、年度レベルでの計画の変更も必要かもしれません。ただ、これまでの調査研究のまとめや中間報告に関する作業段階についてに少し紹介させていただきます。

 まず、現在、進行中の作業として、本プロジェクトの拠点調査地である能登の輪島市についてのブックレットの制作をご紹介します。タイトルにあるようにこれは、輪島市皆月で行われる山王祭についてのブックレットになります。本プロジェクトではこれまで、すでにこの祭りの準備編を刊行してきました。本編はそれに続く祭日編になります。 

 このブックレットの特徴は、本プロジェクトの研究員と地元で祭りに携わる青年会とそのOBが協働で作成している点にあります。地元での聞き取りや参与観察に加えて、青年会員達自らが経験した祭りの記憶や技能についてまとめながら、自分たちにとっての祭りの意味を問い直すための作業です。まさに文化研究の拠点としての地域社会と研究者の新たな関係性を模索する試みでもあります。 

そのために、画像の撮影と編集はもちろん、ブックレットの編集も全て研究員と地元の青年会員が協働で作業を行なっています。紹介した画像はそうやって編集中のブックレットのページになります。

研究発信ブログを開設しました

人間文化研究機構広領域基幹連携型研究プロジェクト「日本列島における地域社会変貌・災害からの地域文化の再構築」の研究ユニット、「地域における歴史文化研究拠点の構築」では、2017年から試行版としてFacebookのホームページ機能を活用して、研究過程を発信してきました。

地域における歴史文化研究拠点の構築(試行版)

 これまでに100人を越える方々に興味をもっていただき、フォローをしていただくことができました。ただ情報発信の方法としては、オープンにしていたとは言え、会員制のSNS上での発信であったことと、サイトの機能上の問題から発信できない情報があったことも事実です。

 このほど「地域における歴史文化研究拠点の構築」ユニットが籍を置いている国立歴史民俗博物館の公式サイト内に情報発信用のブログスペースを確保することができたため、こちらからも発信をすることになりました。

 こちらのブログでは、これまでのイベントや研究過程、成果物公開に関する情報のほか、これまで困難であった研究成果物(ブックレットやパンフレット、ちらしなど)のPDFによる頒布、著作権・肖像権などの条件がクリアできれば研究上制作した動画等の公開を視野に運用していく予定です。

 今後ともFacebook上での発信と合わせて、当ブログを閲覧していただければ幸いです。