連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

大内義隆の虚像と実像

大内氏の歴代のなかで義隆(よしたか)(1507~51)は知名度が高いものの、しばしば「文弱」と評される。たとえば、後世の軍記物語『中国治乱記(ちゅうごくちらんき)』は、詩歌(しいか)や管弦(かんげん)にふけって、佞臣(ねいしん)の讒言(ざんげん)に惑わされたあげく、重臣の陶晴賢(すえはるかた)に滅ぼされた暗君として描く。

そんな通俗的なイメージをまとう義隆であるが、近代の学校教育のなかで〈復権〉したようだ。一九一五(大正四)年、大内義隆像が東京帝国大学文科大学史料編纂掛(しりょうへんさんがかり)(現東京大学史料編纂所)から刊行された(写真1)。旧制小・中学校の授業用のビジュアル教材として制作されたものである。義隆像の模本(もほん)をベースにしたのだろう。

 なぜ義隆が教材に採用されたのか。付属の解説(本館は所蔵しない)は、現代の簡便な辞典とほぼ同様の内容なのだが、後奈良天皇(ごならてんのう)の即位費用を献じたことを特筆する。つまり、帝国日本において義隆は〈忠臣〉として評価されたわけである。時代は推移し、最近の研究では、東アジア諸国との交流の推進者としての姿が注目されている。歴史上の人物の評価が時代によって変わることの一例といえる。

写真1 「歴史科教授用参考掛図 大内義隆」
本館蔵
印刷物ながら、補彩して丁寧に仕上げている。冠の垂纓(すいえい)の繁文(しげもん)は、いわゆる「大内菱(おおうちびし)」である。

写真2 「版本聚分韻略(はんぽんしゅうぶんいんりゃく)(大内義隆刊)」刊記(部分) 本館蔵
「正四位下行太宰大弐兼兵部権大輔周防(しょうしいげぎょうだざいだいにけんひょうぶごんのたいふすおう)介臣多多良朝臣義隆(のすけしんたたらのあそんよしたか)」と公家様(くげよう)の署名をする。後世に表装が改められ、裏表紙の見返しには、本書と直接は関係しない1530(享禄3)年の日向版(真幸院長善寺(まさきいんちょうぜんじ))の刊記が筆写された。

さて、義隆が手がけた文化事業の事例として、一五三九(天文八)年刊行の『聚分韻略(しゅうぶんいんりゃく)』に注目しよう。この書籍は鎌倉時代の禅僧虎関師錬(こかんしれん)が著したもので、漢詩を作成するのに役立つようにと、漢字を意味と音韻(おんいん)にもとづき分類したものである。後世、日本各地で印刷・刊行され、山口では一四九三(明応二)年に初めて刊行されている。山口で刊行された書籍や経典を「大内版(おおうちばん)」とよぶ。義隆は先行する「明応版」を改版して「天文版」を刊行したのである。

わざわざ改版したのはどうしてか。その理由は刊行の趣旨文(刊記(かんき))に記されている(写真2)。詩作に必携の書である本書を世に広めるため、「桐梓之朽腐(とうしのきゅうふ)」(明応版板木の劣化)を待たずに板木を新調したのだという。その上で、「旧板(きゅうはん)」(明応版)より字を小さくし、「冊子(さっし)」の紙も短くし、「巾箱(きんそう)」(小型の箱)に納められるサイズに改めることで、「袖間(しゅうかん)」(袖の中)に忍ばせて携帯しやすくしたのだと説明する。

写真3 「版本聚分韻略」表紙
縦横の大きさは、16.2×14.6cm。ほぼ正方形の「枡形本(ますがたぼん)」である。

写真4 「版本聚分韻略」本文(部分)
「天」の項目を例にとると、印刷は「天 ー地」のみ。二重線と「テン」は朱書、「テン」「アメ」「ソラ」「キワム」は墨書で書き込まれる。学習の痕跡である。

たしかに「明応版」が大ぶりな長方形であるのに対し、「天文版」は小ぶりな正方形をしていて、手にとりやすい(写真3)。まさにハンドブックである。書誌学的には「枡形本(ますがたぼん)」や「巾箱本(きんうぼん)」「袖珍本(しゅうちんぼん)」とよぶ。義隆は学習者の利便性に配慮して改版を行ったのである。歴博が所蔵する天文版『聚分韻略』は、余白にびっしりと朱墨による書き込みがあり(写真4)、かつて所持した人物が熱心に学習したことがわかる。

義隆は文芸の振興を図ったわけだが、そこには実利的な意図もあったのではないか。中国・朝鮮において漢詩は官人(かんじん)の必須の教養であり、外交の場では漢詩の贈答が社交として行われた。また、中国皇帝への文書には韻をふんだ技巧的な文体が求められた。そのため、外交業務を担当していた禅僧たちには、実務的な漢文を読み書きする能力はもちろん、漢詩や洗練された漢文を作成する能力も求められたのである。外交を重視する義隆にとって、外交僧のためのハンドブックを備えておく必要があったのではないか。

その当否はともかく、義隆の文化的な営みは、大内氏歴代が育んできた「大内文化」の継承者としてのものであって、個人的な趣味・嗜好だけで説明するのは適当でない。一般論としても、室町文化は政治と密着したものだった。義隆は〈西国の覇者〉にふさわしい〈文化力〉を追求していたとみるべきだろう。

荒木 和憲(本館研究部/国際交流史)