連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

戦後60年間の「風景」の記録-石井實フォトライブラリー-

石井實(みのる)フォトライブラリーは、故石井實氏(一九二六~二〇〇七)が、終戦直後から二〇〇七年一二月に亡くなられる直前まで撮り続けた、日本各地の写真三十数万コマを中心とする資料群である。

石井氏は、東京都の小学校教員を振り出しに(図1)、都立高校や大学の地理教員を勤めながら、地理研究と教材開発の一環として、日本各地の景観を撮り続けた。それらは、地理学的に意義のある自然景観や文化景観などを記録したものであり、戦後最大の科学的地誌書『日本地誌』全二一巻(一九六七~一九八〇、二宮書店)にも数多く掲載されている。また、氏自身もそれらの写真を「地理写真」と名付けて、著書や写真集を刊行している(『地域を写す』〔一九七四、古今書院〕、『地理写真』〔一九八八、古今書院〕、『地と図―地理の風景―』〔一九八九、朝倉書店〕、『地理の風景 古代から現代まで』〔一九九九、大明堂〕、『写真集・東京 都市変貌の物語 1948-2000』〔二〇〇一、KKベストセラーズ〕など)。

撮影された写真のなかには、東京都市部や奥多摩の山村など、地域を定めて継続的かつ多角的・体系的に撮影した写真も多く、地域を記録した資料群としてきわめて高い価値をもっている。また、撮影地点を固定した定点撮影も行っており、景観の変貌を一目で知ることができる写真もある。

図1 東京都鎌田国民学校教諭任命証書

図2 コンタクトプリントを貼り付けた写真集

しかも、これらの写真は、終戦直後から高度経済成長期を経て、二一世紀初頭までに撮影されたものであり、日本の景観や生活文化が大きく変貌した時期を写しとったものである。その意味でも、歴史資料としての価値はきわめて高い。

石井氏は、生前から、この自らのライフワークが永く研究資料として活用されることを強く望み、本館への寄贈の意思を示されていた。そして、二〇〇九年二月、この資料群は正式に本館の所蔵となった。

この資料群の中心となるのは、約九千本の三五ミリ・ネガフィルムで、コマ数にすると三十数万コマにのぼるフィルムと、それらすべてのコンタクトプリントを貼り付けた写真帖二六八冊である(図2)。これらは撮影日順に整理され、とくに写真帖には撮影日と撮影場所などのメモが記載されている。

図3a 撮影日誌の1ページ。1964年11月1日に今諏訪で「ホームのあと」と記録

図3b 山梨交通の今諏訪駅跡(現南アルプス市)(1964年11月1日)

図4 "Maide in OccupiedJapan"と刻印されたカメラ

また、これとは別に撮影日誌一五冊も残されており、撮影の年月日はもちろんのこと、撮影行のルートが詳しく記載されている(図3)。写真という画像のみならず、そのバックデータとして撮影の時間と場所を特定できる点が、これらの写真の歴史資料としての価値を高めている。

石井氏の写真歴は、戦中の「一〇銭の子供カメラ」にさかのぼるが、本格的に撮影を開始した頃には、さまざまな形態のフィルムを工夫して使用していた。現在整理中ではあるが、ブローニー判のフィルム二〇〇〇枚あまり、ガラス乾板約二五〇枚などのほか、前述の三五ミリ・ネガフィルムと同時に撮影されたと思われるスライド用のカラーポジフィルムもあり、テーマや場所ごとに整理されている。また、近年のものでは、デジタルカメラによる写真一万五〇〇〇枚以上が電子データとして保存され、その画像付き一覧表がバックデータとともにプリントアウトされて一二冊のファイルに収められている。

このほか、石井氏が使用したカメラなどの機材や収集した各種写真、文献類などもある。このうち、占領下の日本で製造され、"Made in occupied Japan"と刻印されたカメラ(図4)や一九三〇年代の朝鮮半島各地を写した写真などは特筆される。

以下では、これらの写真のなかから、いくつかを紹介しよう。

変化を写す

〔図5〕は、東京駅丸の内側の一九五〇年と一九九二年の写真である。左端が東京駅、正面が東京中央郵便局、右端が丸ビル。この四〇年あまりのあいだにビルの高層化が進み、車もずいぶん増えた。一九五〇年の路上に目をやると、ボンネットバスがとまっている。

〔図6〕は、渋谷駅から南方を望んだ一九六一年と二〇〇〇年の風景。右側に山手線、左側に東急東横線の線路がみえる。一九六一年には高いビルはほとんどなく、恵比寿駅付近まで見渡せた。右上のその辺りに小さく写っている煙突は、いまはオフィスビルに変わったビール工場。

図5a 東京駅丸の内側(1950年)

図5b 東京駅丸の内側(1992年)

図6a 渋谷駅から南方を望む(1961年)

図6b 渋谷駅から南方を望む(2000年)

社会を写す

〔図7〕は、一九五〇年の夏、東京のある小学校で写された一枚。敗戦から五年、日本はまだ食糧難の時代。子供たちはみな痩せていた。

一九六〇年六月一五日、日米安全保障条約改定反対運動いわゆる安保闘争において、国会議事堂構内に突入した学生と警察隊とのあいだでおきた混乱で、東大生 樺(かんば)美智子さんが死亡した。〔図8〕は、国会議事堂前での追悼風景。祭壇には「虐殺抗議」の文字が大きく掲げられている。

図7 東京のある小学校(1950年)

図8 国会議事堂前に設けられた樺美智子さんの祭壇(1960年)

産業を写す

〔図9〕は、一九六八年、栃木県壬生町にある輸出玩具工場団地内の工場のなかの作業風景。東武鉄道宇都宮線には「おもちゃのまち」駅も開設された。

〔図10〕は、一九七〇年、岡山県児島(現倉敷市)の縫製工場。児島は学生服や作業服の産地であった。いずれも日本の高度経済成長期の風景である。

図9a 栃木県壬生町の輸出玩具工場(1968年)

図9b 東武鉄道宇都宮線の「おもちゃのまち」駅(1968年)

図10 岡山県児島の縫製工場(1970年)

風を写す

〔図11〕は、一九五三年、蔵王山の山形側山中にあった偏形樹(へんけいじゅ)を南側から写した写真。冬の卓越風が西から東に吹くために、風上となる左側の枝は成長が阻害されているが、樹木の下半分は雪に埋もれるために風の影響を受けず、両側に枝がのびている。気候をとらえた一枚である。

図11 蔵王山中の偏形樹(1953年)

ここに紹介した写真は、石井實フォトライブラリーの一部にすぎない。現在、これらの写真群は、本館の共同研究「『地理写真』の資料化と活用」において整理作業が進行中で、近い将来、公開も予定している。

青山 宏夫(本館研究部・歴史地理学)