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室町時代の小京都

 観光案内などを見ていると、「小京都」という言葉をよく目にする。「○○の小京都□□を訪ねて」といった具合だが、その意味するところは、古い町並を残した、歴史のある静かな地方都市、ということらしい。たいていの場合、実際は旧城下町で、昔の−と言ってもせいぜい江戸時代末期から明治ころだが−の雰囲気をとどめている所、ということになるようである。従って、これらのほとんどは実際には京都とは関係がなく、単に「古都」というイメージで京都という言葉を使っているだけである。
 しかし、そうと割切れる場合はよいのだが、その町が中世以来の歴史を持つ場合、たとえば大内氏の山口や公家出身の戦国大名一条氏の土佐中村などのような場合、往々にして「京都を模した町づくりがなされ」というふうに、あたかも現在の町並ないし町割りが中世に京都をモデルとして「碁盤の目」のように作られた、などと説明されることがあるようである。京都から勧請された社寺などの存在を見るとそう信じたくもなるが、残念ながら現在の町並は実際は大部分が近世以降のもので、一部の道は踏襲されているにしても、中世の段階ではたいていの場合「碁盤の目」をなすほどの町はなかった。一般に中世の都市と近世の都市は規模に大きな差があり、中世の地方都市の多くは、中心街路が一本だけ、やや発達しても二本の十字交差程度であったらしい。そもそも京都自体が平安京以来の「碁盤の目」はとっくに崩壊して、今に続く町並が整ってくる15世紀後半の応仁の乱後には、上京・下京や寺院門前などの部分部分に町が集中していたことは既に周知のことであろう。

図1
図1 発掘された江馬氏館跡の遺構(原図は『江馬氏城館跡?』1997年)
写真1
写真1 江馬氏館跡の庭園遺構(南側から。『江馬氏館跡発掘調査概報』1979年より)
写真2
写真2 東(とう)氏館跡の庭園
写真3
写真3 高梨氏(中野氏)館跡の庭園

 では、地方の大名が京都を模倣し、京都的な都市をつくる、という話は幻想に過ぎないのだろうか。ところが最近、面白い事実が分ってきた。
 図1と写真1は、飛騨(現在の岐阜県神岡町)にある江馬氏館のものである。ここは石組の庭園遺構があることで知られ、早くから史跡にも指定されており、京都に憧れた戦国武将の庭園趣味、などと説明されてきた。ところが発掘調査では、館が造られ使われていた時代はずっと古く、14世紀の末ころ、つまり室町時代もまだ初期の、三代将軍義満のころであることが分ってきた。義満はよく知られるように室町幕府の権力を確立させた人物で、1378年には新たに建設した有名な「花の御所」に移り住んでいる。
 「花の御所」自体はごく一部が発掘されているだけだが、幸い16世紀の「洛中洛外図屏風(歴博甲本)」に同じ様式で建てられたと見られる幕府=将軍邸の姿が描かれており、ほぼその有様をうかがい知ることができる。正面には正門と脇門、広場の奥に「遠侍(とおさむらい)」という玄関的な建物があり、左へまわると会見の場である主殿、さらに進むと庭に面して、上下関係にこだわらない室町的な宴会などの儀礼の場である会所がある。これらとは別に、奥の方にはプライベートな生活の場である「常の御殿」や台所などがある。
 ここでもう一度江馬氏館の構造(図1)を見ると、門が二つあることから始って、広場、建物構成、庭園、さらには庭が広場と塀で隔てられて奥まった場所と位置づけられている点など、左右は反対だが全体はそっくり同じである。文献資料を読直してみると、このころは江馬氏は室町幕府の御家人であったことが判明する。この館が室町幕府との関係の下に、新造なった「花の御所」をモデルとして造られたものと推定して間違いなかろう。
 近年、これと同じような、14世紀末から15世紀前半を中心とする地方国人領主の館がいくつか見つかっている。美濃(現岐阜県大和町)の東(とう)氏館(写真2)、信濃(現長野県中野市)の高梨氏(中野氏)館(写真3)などがそれで、いずれも100m四方程度のほぼ方形の館であり、共通して石組の池を持つ庭園を伴っている。京都の幕府=将軍邸がその共通のモデルであると思われる。
 この14世紀末〜15世紀前半という時期は、南北朝の内乱を終えてから1467年に応仁の乱が勃発して再び内乱が始るまでの、室町幕府の最盛期に当る。応仁の乱で室町幕府が地方の支配権を放棄してから後は、それまで基本的に京都にいた守護たちが国元へ帰ってしまい、戦国時代の幕開けとなるのだが、実はそれまでの間は、地域社会の有力者であった国人領主たちが、直接幕府と結びついて地方の政治秩序を形成していた側面がある。今日の行政単位になぞらえて言えば、一国ごとに置かれていた守護が県知事、国人領主は市町村長に相当すると言えようが、県知事に必ずしも全県を統治する力はなく、市町村がそれぞれ独自に中央と結びついて独自の行政を行っているような体制、とでも言えるだろうか。そして、地方において直接室町幕府の権威と権力を体現していることを示すための装置が、幕府=将軍邸をコピーした館だったのである。

 こうした体制の下には、一国あるいは周辺の国々をも統治し、織田信長のような専制権力へとつながった戦国大名のような強力な支配者は存在しない。国人領主のような地域領主たちが−さらに言えば武士だけが領主でもないのだが−、庭園に象徴されるような中央との政治的、文化的結びつきの下でゆるやかに連合して地域秩序を形成している体制、いささか牧歌的すぎるかもしれないが、連歌や茶会のような上下関係の乏しい横並び的な文化が盛行した室町時代にふさわしいそんな体制があったと考えてみたい。このような政治秩序を、モデルとなった京都の将軍邸にちなんで「花の御所体制」と呼んでみてはどうかなどと考えている。

 ところで、地域支配の一方の主役であるはずの守護の館だが、これは、応仁の乱以前は、守護は在京を基本としていたためか、その国元の館、守護所は、発掘調査によっても検出されているのは15世紀後半以降、応仁の乱後の守護が在国するようになってからである。そしてそれらもまた、京都の幕府=将軍邸の模倣である。
 発掘調査の進んでいる山口の大内氏館は、方約160m(一町半)の平地の館だが、江馬氏館と位置も形もよく似た池が検出されている。連歌師飯尾宗祇が1480年に山口を訪れた際には、「池は海こずゑは夏の深山かな」という発句を詠んだことも有名で、庭園と会所を一つの特徴とする館の構造は、確実に規範として地方へ受けつがれている。最近大河ドラマ「毛利元就」でもよくテレビにセットが映っていた山口の大内氏館は、大内氏=京都好み=公家風というステレオタイプで描かれることが多いのだが、実は武家の政権が京都にあった室町時代においては、京都風=武家風でもあるのである。そしてそれは大内氏に限らない。近年全国で調査が進んでいる守護所遺跡は、ほとんどが平地の、一辺が150〜200mほどの方形館であり、おそらく、その内部は大内氏館に見られるような、また江馬氏館などと同様の、京都の幕府=将軍邸と共通する構造を持っていたと思われるのである。
 庭園について言えば、遺構自体はまだそれほど検出されていないが、たとえば後に織田信長も一時居城とする尾張の守護所清洲では、1526年に連歌師宗長によって、「庭ひろく古きたち(館)の、ほりせき入れて、柳の古木、藤山吹のきし(岸)、池のさゝなみ、水鳥の羽うちかわす様・・・」と描かれており、広大な池と豊かな花木を持つ庭園があったことが知られる。美濃の守護所革手(現岐阜市内)なども同様である。園地とそれに面した会所は、ほぼ守護館に共通の施設だったと見てよいであろう。
 また、そこで行われていた儀礼の痕跡を示す遺物に「かわらけ」がある。今日でも、京都の高尾山や比叡山などで「かわらけ投げ」の遊びをさせてくれるところがあるが、あの素焼きの皿であり、儀礼としては今日では神前結婚式の三三九度に使われているらしいが、汚れやすく使い捨てである故に、清浄な容器として儀式に使われるものである。守護所遺跡では、江馬氏館などでもそうだが、これが、しかも「手づくね」と呼ばれる京都風のものが大量に出土し、この種の儀礼的な宴会が行われていたことを跡づけている。

 このような、庭園と会所に代表される室内儀礼の他に、屋外でも室町幕府系の共通した儀礼が行われていた。そのための施設が馬場(犬追馬場)である。たとえば、越後の守護所は直江津付近にあったが、1491年にここを訪れた室町幕府の管領細川政元に随行した冷泉為広の日記によると、政元は毎日のように馬場へ出て守護上杉氏と会い、更に犬追物などを行っている。越前一乗谷の朝倉氏館、近江観音寺城の六角氏館などにも付近には「犬馬場」「イノばんば」などと呼ばれる地名が残っており、守護クラスの館には普遍的に付随していた施設と見ることができる。犬追物は正式に行うと犬数百匹を用いる大規模な行事であり、これを行う馬場を持つことが一つのステータスシンボルだったと思われる。江馬氏館や東氏館などの国人館にも馬場が伴うのは同様の意味であろう。京都でも、16世紀前半の「洛中洛外図屏風(歴博甲本)」を見ると、幕府の建物のすぐ横に犬追物の場面が描かれており、実際には馬場はやや離れた場所にあったようだが、両者の関係を示唆しているのであろう。馬場の跡地には、大正時代までやはり「犬の馬場」という広場が残っていたという。
 また、越後府内で細川政元の一行は「至徳寺」という寺院に逗留しているが、このような迎賓館的な禅宗寺院が付属していることも、守護所にかなり共通する特色のようである。京都の「花の御所」が、広大な相国寺に隣接していることの影響なのかもしれない。

 以上、14世紀末〜15世紀前半の国人館、15世紀後半〜16世紀前半の守護所においては、京都の幕府=将軍邸の影響の下に、それを明らかに意識した館が造られていることを見た。それは、京都=中央の幕府につらなり、その権威と権力を地方において体現する存在であることを示し、また応仁乱後の守護所においては、守護が国元に下って建設した、自らの領国の「首都」としての意味も込められていたと思われる。こうした意味において、これらの館はまさに「小京都」なのである。

 一つ気が付いたことだが、守護所は東側に市場が付属することが多く、それは東側に川があり、その水運を利用していることによるらしい。東側に川、というのは、つまり京都と同じ立地であり、これが意図的なものであれば、あるいは京都の選地の際に採用されたという「四神相応」の風水思想を意識して立地を選んだのではないかとも思えてくる。前述のように、守護は本来在京が原則で、京都の地形やその占地の背景は当然知っていたであろうから、自らの「小京都」づくりにそれを反映させたとしても不思議はない。「○○川を鴨川に見立て・・・」という説明は、あるいは本当なのかもしれない。
 思えば、いつの時代にも京都は常に地方政治都市のモデルであった。遡れば、奥州藤原氏の平泉が、12世紀当時の院政期京都の中心であった「鳥羽の水閣」を模しているし、下って豊臣秀吉の時代には、聚楽第を中心とし、周囲に寺町を配した御土居の中の京都が、やはり全国の城下町のモデルになっている。首都として姿を変え続けたそれぞれの時代の京都が、それぞれの時代の地方政治都市のモデルであり続けたのは、考えてみれば当然のことである。決して中世や近世には見ることもおそらく知ることもできなかった古代の平安京がモデルであり続けたわけではない。
 従来あまり注意されていなかったが、京都が武家政権の所在地、武家の都であった室町時代に、各地に「小京都」が造られたのはあまりにも当然のことである。そのことが、また庭園などに代表されるその独自の様相が、具体的な遺跡から明らかになりつつある。

(『あうろーら』12号、1998年7月、21世紀の関西を考える会発行)

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