戻る

信長の政権構想


(企画展示図録『天下統一と城』[2000年10月]より)

1. 安土城の清涼殿と公家一統の政道

 安土城の清涼殿
 2000年2月、滋賀県教育委員会は、安土城本丸御殿の発掘成果を発表し、その建物が、内裏の清涼殿にきわめて似たものであるとした。これは、信長が正親町天皇の行幸を予定していたとされることとも合致し、信長の政権構想ともからんで大きな関心を呼んだ。
 今回作成した安土城のCGでも、発掘の成果と安土城郭研究所の御指導に基づいて、本丸御殿は、当時の清涼殿風の建築にされている。
 では、信長が安土城に清涼殿風の建物を置いたことの意味は、そしてそもそも信長が目指していた政権とは、いったい何だったのだろうか。今回の出品資料を手がかりに、少し考えてみたい。

 三条西実澄の手紙
 まず注目されるのは、公家三条西実澄(実枝)の二通の書状である(『田中穣氏旧蔵典籍古文書』424-3・4*)。日付を欠くが、実澄から実枝(さねき)に改称するのは天正2年(1574)12月であり、文中の史実からも、一通目は天正2年3〜12月、二通目は同3年11月3日のものであることが判明する。三条西実澄は、『実隆卿記』などで有名な三条西実隆の孫、当時権大納言であった。
 最初の書状( 写真1写真2 )で目を引くのは、「信長公家一統の政道、五百年以前の如く申し行うべきの由、存じより候・・・」という文言であり、実澄は、これで鳥羽(後鳥羽か?)上皇以来の無念が改まる、と喜ぶ一方、「かつは悦び、かつは恐怖し、一歓一懼、薄氷を踏む如きの心中に候」と、事態の推移を恐る恐る見守っている様子がうかがえる。いずれにしても、このころ信長は、公家たちに「公家政権復活」と思いこませるような言動をしていたことは間違いない。事実、天正2年(1574)3月には信長は従三位・参議に叙任し、さらに天正4年(1576)11月には内大臣にまでなるのであり、この時期の信長は公家政権に本格的に参加し、昇進を続けていた。
 また、三条西実澄(実枝)の次の手紙からは、手紙の相手は醍醐寺理性院の僧で、ここで行われていた「大元の法」の修法について相談をしていることがわかる。「大元の法」は、もと宮中で行われていた大法で、特に逆臣を退け、国の怨敵を降伏し、国王の威力を増進せしめるために修するとされる(『国史大辞典』)。実枝はこの修法を「当時節漸く相応じ候」今にふさわしい、とし、また「大元の法」のための新図(修法のための図像か)を信長にお見せするのは「もっともに存じ候」と言っている。これも、明らかな信長待望論である。
 公家の方から見れば、事実上の最高権力者となった信長が公家政権復活の形で政権を築いてくれるなら、自分たちにとっても利益が大きいわけであり、これは足利義満が天皇に成ろうとした時、武家よりもむしろ公家の方が、強力な公家政権を期待して積極的に受け入れようとしたこと(今谷明『室町の王権』[中公新書])と同じ状況と言えよう。
 信長の方の事情を考えてみると、元亀4(天正元)年の7月には足利義昭を追放し、室町幕府を滅亡させてしまったので、国制の新たな枠組みを作る必要があった。幕府がない以上、朝廷という枠組みを利用する以外に、方策はなかったと言えよう。また、これも今谷明が指摘するように、信長は朝倉氏など敵対する勢力との一時的な休戦が必要になった際には、天皇の権威を利用して、その朝廷による和解という形を取っていた(『信長と天皇』[講談社新書])。「天下布武」が最終的に実現していない以上、自分よりも上級の権威を確保しておく必要があったのである。
 信長がこの時期に公家政権に急接近するのは必然であり、公家たちに信長歓迎の機運が出るのもまた無理からぬものがあった。
 しかし、それは最終的に信長が公家政権を構想した、ということではない。信長の官位昇進は、天正5年(1577)11月の右大臣までで、それも翌天正6年4月には辞してしまうのである。

2. 龍の意匠−安土城天主と朱印

 信長が官位を極め、そして辞職するのと相前後して身辺に目立ってくるのが、龍の意匠である。信長が安土に居を移すのは天正4年(1576)2月、安土山下町に楽市令の掟書を出すのが翌天正5年6月、天主の完成するのが天正7年(1579)5月であるが、この安土には、龍、ないしは中国風の意匠が目につくのである。
 安土城の天主に描かれた画像に、「三皇五帝」など中国の題材が多いことは大西広・太田昌子の指摘があるが(『安土城の中の天下』[週刊朝日百科])、七重目の内柱には上り龍・下り龍が、また八角形に作られた六重目の下壁には、飛龍と鯱が描かれていた(『信長公記』)。
 また、有名な「天下布武」の朱印にも、二匹の下り龍が「天下布武」を囲む形の新しいデザインの物が登場する。この「龍の朱印」の初見は、安土に移ってからの天正5年(1577)5月10日 であり、前年11月の内大臣就任を契機とする説(相田二郎など)もあるが、それは公家政権内での相対的な昇進に過ぎず、天主に見られる龍の意匠と合わせて、安土への移転を契機と見る宮上重隆の意見の方が妥当だろう。すなわち、信長は、岐阜への移転を契機に「天下布武」の印判を使用し始めたように、安土への移転を契機に、「龍の朱印」を使い始めたのである。
双龍に囲まれた「天下布武」の朱印

 もっとも、この「龍の朱印」を捺した文書は、現在の所12点しか知られておらず、一方では従来からの馬蹄形の印も使われ続けており、どのような使い分けがあったのかは定かでない。ただ、それが使われた時期や対象にはある程度の傾向がある。
 すなわち、第一期は、天正5年(1577)の5月から閏7月までの5点で、宛先は安土山下町を除けば、ほぼ武士と言える。この時、信長は安土にいる。
 第二期は、同じ天正5年(1577)の11月21日から12月1日までの4点で、宛先は公家または寺社で、内容は知行の宛行い関係である。右大臣就任の直後であり、この時信長は京都にいる。(この他、写しで朱印の種類を確認できないが、同年11月22日の久我季通宛の知行還付も、内容と日付から見てこの一連の文書の一部の可能性がある。)
 第三期は、天正7年(1579)5,6月のもので、この時信長は安土におり、宛先は安土の西光寺貞安と、大和の筒井順慶である。この他、天正6年(1578)4月の匂当内侍宛がある。
 以上、はっきりした使い分けを論じるのは難しいが、「龍の朱印」が安土と色濃く関係していることと、公家・寺社宛ての知行安堵などに意図的に用いようとした形跡があることは指摘できそうである。
 言うまでもなく、龍は中国皇帝のシンボルである。とすると、安土と龍の意匠の問題は、次のように整理できないだろうか。すなわち、安土城は、「清涼殿」を持ち、天皇の居所を用意する如くでありながら、実はその上に中国皇帝をイメージした天主がそびえ立っており、「天皇を従えた皇帝」という権力の表象となっている。(城郭の構造としても、最近の発掘調査によって、大手道から続くと思われていた「黒鉄門」は、実は安土山西側の琵琶湖畔から直接天主へと続く、いわば「信長専用の道」で、本丸御殿への道とは別であることも判明した。特異なほど質的に突出した権力を信長が目指していたことは明らかである。)
 また龍の朱印についても同じように、特に公家に対して皇帝のイメージで臨むことにより、天皇を超えた権力者であることの示威を行う。信長の城下町安土は、もちろん「皇帝」の居所であるから、龍の印判が捺されるのは必然なのである。
 本能寺の変直前に派遣された勅使への返答をめぐる信長の政権構想については、史料の新しい解釈によって、近年は征夷大将軍説が強まったように見えるが、それが正しいとしても、やはりそれをもって最終的な信長の政権構想とすることはできない。信長は天下布武の途中で倒れたのであり、最終的に統一戦争を自らの手で完成させたなら、その先には調停者としての天皇を必要としない政権構想を持っていたはずである。そのことが、ほとんど奇想天外なほどの安土城の斬新な構造や、龍の意匠に予言されていると考えたい。そして、未完に終わり、そのままの形では継承されなかったとはいえ、この天守を中心としたきわめて求心性の強い城と城下町の、そして集権的な政権自体の構造として、近世武家政権に引き継がれたのである。

(*『田中穣氏旧蔵典籍古文書』は、写真を「館蔵中世古文書データベース」の中で閲覧できます。

戻る

National Museum of Japanese History, All rights reserved.
http://www.rekihaku.ac.jp