歴博が所蔵する『永禄六年北国下り遣足帳(けんそくちょう)』は、戦国時代に行われた京都から東北までの長大な旅の記録であり、物やサービスの具体的な支出を記録した史料としても稀有のものである。その内容からは、お金さえ払えば宿泊や食事ができるという中世後期の旅行システムの充実ぶりや、旅籠(はたご)に支払うのが朝食代と夕食代のみであるといった、当時の旅の様々な側面が明らかになってくる。
『永禄六年北国下り遣足帳』という史料
永禄六年(一五六三)の秋九月、京都の醍醐寺から北国に向かって旅立った僧侶がいた。これは、その僧侶が記した旅の消費の記録である。帳面の題は「北国下リノ遣足」とあるのみで、目的は不明だが、しかしそれが公的なものであったことは、このような会計帳簿を作成していたことから明らかである。このような支出メモは、当時「小日記」と呼ばれていたようで、大徳寺や東寺にも同じような旅の会計簿が残されている。こうした記録は、今でいえばレシートを貯めておくようなもので、本来なら「出張」が終わって会計報告を提出してしまえば、永年保存の必要はないはずだが、幸運にも破棄されずに伝わったことによって、私たちは当時の旅の様子について、興味深い事実を知ることができるのである。
旅の経路
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それではまず、この僧侶が通った道筋をたどってみよう(図1)。出発地は醍醐寺(京都市伏見区)と思われるが、九月二〇〜二二日日の最初の宿泊は、付近の笠取西庄(かさとりにしのしょう 宇治市)になっている。そこから近江へ抜け、中山道で湖東を北上して越前へ。三国湊からもずっと陸路をたどって越後府中(上越市)に滞在し、信濃の善光寺にも参詣している。越後府中へもどってから南下して三国峠(みくにとうげ)を越え、一一月一六日に上野の鶏足寺(けいそくじ 足利市)に到着。『遣足帳』では、ここまでを「下りの路銭」としていったん集計し、しばらく記録がとぎれる。半年ほどの間、下野、常陸など北関東をめぐっていたらしいが、翌永禄七年(一五六四)五月には、岩城から現山形県南部と思われる長井まで足をのばす。再び岩城へもどった後、西に向かい、会津盆地を抜けて虚空蔵菩薩で知られる柳津(やないづ 福島県柳津町)に立ち寄り、新潟へ着く。なお、この史料が新潟の初見である。その後乙宝寺(おっぽうじ 新潟県胎内市乙(きのと))などを訪ねた後、日本海沿いに南下。帰路は越中から飛騨を抜けるコースをとり、高原(岐阜県飛騨市神岡町)、湯ノ島(下呂(げろ)市)、井ノ口(岐阜市)などを通って、現在の関ヶ原方面から近江に出る。最後は坂本まで琵琶湖を船で渡り、一〇月二八日、一年以上にわたった旅を終えている。支出の総合計は、一四貫八一文であった。
旅の目的と支出の空白
では、彼はいったい何のために、この長大な旅をしたのだろうか。『遣足帳』はひたすら使ったお金を記録しているだけで、直接語ってはくれないが、先程述べた鶏足寺から先の、北関東の空白部分が手がかりになる。
醍醐寺はこのころ東国に教線を伸ばしており、無量寿院の院主堯雅(ぎょうが)は、天文一九年(一五五〇)から天正四〜六年(一五七〇〜七三)の間、四度にわたって地方の寺院をめぐり、多くの僧侶に付法を行っている。藤井雅子氏のお仕事によって、その下向先が明らかにされたため、図1の行程図にそれを重ね合わせてみたのだが、御覧のように『遣足帳』の空白部分とほぼ重なり合うことが分かる。
堯雅と『遣足帳』の記者の関係や、具体的な用務は依然不明だが、この旅が、当時醍醐寺が行っていた東国での活動に関わるものであることは、まず間違いないだろう。つまり、この空白期間の間は、何らかの用務のために末寺的な寺院をめぐっていたのであり、従って宿泊や食事はその寺院ですませることができ、支出を行う必要がなかった。その結果、当然支出帳簿である『遣足帳』には記載がないのである。そういえば、北関東以外の途中の経路でも、時々支出がない日があり、これも調べてみると宿泊できそうな真言宗寺院が付近にあることが多く、同様のことを示していると考えられる。
広汎な旅の需要と供給
「ただ」で泊まれば支出の記録はない―分かってみれば実に単純な話だが、しかし実はこのことに、ずいぶん騙(だま)されてきたのではないだろうか。
というのは、これまでよく紹介されてきた中世の旅の記録と言えば、連歌師、公家、大名の家臣といった、お金を払って宿泊するのではなく、領主の館や寺院など、地元の有力者のもとに宿泊して旅を行っていた場合が多かった。そのことが、中世の交通施設が未発達であるかのような印象を与えていたのだが、基本的にお金をはらって旅をする人間の記録で見れば、この通り、旅籠や昼食をとる場所は、実はどこにでもあったのである。北関東の空白期間の部分でも、利用していないだけで、旅籠などは当然あったに違いない。
一五世紀末ころ、漂白の禅僧万里集九(ばんりしゅうく)が記した漢詩集『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』にも、『遣足帳』と一致する旅宿がいくつか見えるが、これもお金を払わずに泊まれる場所がなかった時だけ旅籠を使っていた、と考えるべきであろう。街道沿いの宿泊施設は、ところどころにあっても役に立たない。毎日次の宿を当てにできるから旅を行えるのであり、そうした旅の需要が広汎にあるから宿屋が成立するのである。後述するように、旅籠の料金は非常に広い範囲で一定しており、これも、広汎な旅の需要と供給の結果としか考えられない。
応永二六年(一四一九)の東寺〜兵庫間の旅の記録でも、宿泊は毎日旅籠で行っている。一五世紀代には、すでに日本のかなりの部分で、このような宿泊システムが成立していたと見なすことができよう。一般人の旅が盛んになるのは、江戸時代に入って幕府が街道を整備してから、と考えられがちだが、むしろ、中世段階で自然発生的に成立していた旅行のシステムと施設を前提にして、近世の交通体系が作られていったと考えるべきであろう。
宿泊料金
次に、この旅では、どのようなものにいくら支払っていたのかを見てみよう。
ちなみに一文の価値は、田中浩司氏の試算によれば現在の150円くらいになるらしいが、お金の換算は難しいし、価値もどんどん変わるから、私は一文=1ドルと考えたらどうかと言っている。あるいは、一文=100円と読み替えてもそう的はずれではなさそうだから、十文なら1000円などと考えていただいた方がイメージがわくかもしれない。
まず宿泊料金だが、近江から越後までの下りは、一泊四八文でほぼ一貫している。この旅は二人連れと思われるため、一人あたりなら二四文。そしてその内訳は、夕食代と朝食代一二文ずつである。先述の東寺の記録の場合も全く同じであり、宿泊料金は夕食代と朝食代で計算され、食事をとらなかった分はちゃんと減額されている。
宿泊代が食事代のみということは、当時の宿がどういうものか、だいたい想像がつく。食事は一人ずつ、おそらく折敷(おしき)か何かにのって出てくるが、部屋は専有せず、大きな相部屋で、夜具や風呂も提供されない、ということになるだろう。『遣足帳』の記者が最初に近江の守山宿でムシロ(一五文)を買っているのも、あるいは夜具だろうか。また、飛騨の湯ノ島すなわち下呂(げろ)温泉では、一泊が八〇文と高く、入湯と関係があるかもしれない。
なお、宿泊代などが、時に「礼銭」として支払われている場合があるが、これも金額的には旅籠などの場合とほぼ等しく、実質的には経済的関係である。ただ、たとえば笠取西庄では、二日分すなわち旅籠なら九六文のところを、礼銭として樽代一〇〇文を払っているように、礼銭は切りの良い二五文の倍数にしている。
昼食・酒
昼食は、ほぼ必ずとっている。昼食をとるようになるのは近世から、とよく言われるが、体力を使う旅行の場合という面はあるにしても、必ずしもそうではないことがわかる。昼食代は一定はしていないが、二〇文前後、すなわち一人一〇文前後のことが多く、東寺の記録ではちょうど一〇文であることとおよそ一致する。なお昼食を示す単語には、「ヒルヤスミ(昼休)」と「コツカイ(小遣)」の二つがある。強いて言えば、食事と買い食いのような違いかと思われるが、定かではない。
この他、酒もよく飲んでいる。今の清酒のような精製度の高いものではないだろうから、エネルギー補給のためとも言えるが、東寺の記録ではほとんど酒を飲みに行ったのではないかと思われるようなほどよく飲んでいるし、「出立ち酒」「落ち着きの酒」など、何かにつけて儀礼的にも飲んでいる。
その他
道の険しいところなどでは馬が使われており、「駄賃」の記載もかなりある。正確な距離あたりの単価を出すのは難しいが、およそは距離に比例しているようであり、恒常的なサービスとして、やはり相場的な料金があったものと思われる。船賃の場合にも同じことが言えるし、また川の渡しでは、越前の三国湊(九頭竜川)、加賀の湊川、越中の神通川・常願寺川がそれぞれ一人四文と見なせ、広域的な共通性が認められる。
橋の渡り賃の場合は、加賀で五文の例があるが、越前北庄(きたのしょう 福井市)の橋賃(近世以降の「九十九(つくも)橋」)は四〇文(一人二〇文)もする。あるいは掛け替えなどに伴うものだろうか。
逆に、近江の瀬田川など、確実に渡ったはずだが記されていないものも多い。実際に払わなかったのかもしれないが、この帳簿には出てこない消費も実際にはかなりあるのだろう。たとえば草鞋(わらじ)は相当な量を使ったはずだが、支出としては後半に二度出てくるだけである。かと思うと、越後府中では「ヤトノ(宿の)下女」に二二文などという何の対価かよくわからない記載もある。ここには書かれなかった世界も含めて、旅の消費への興味は尽きない。
<参考文献>
山本光正・小島道裕 一九九二 「資料紹介『永禄六年北国下り遣足帳』」『国立歴史民俗博物館研究報告』第三九集
藤井雅子 二〇〇〇 「付法史料の語る醍醐寺無量寿院と東国寺院―醍醐寺堯雅僧正の付法活動を通して」『古文書研究』五一号
小島道裕 二〇〇四 「中世後期の旅と消費―『永禄六年北国下り遣足帳』の支出と場」『国立歴史民俗博物館研究報告』第一一三集
*なお、『永禄六年北国下り遣足帳』は、当館所蔵の「田中穣氏旧蔵典籍古文書」二三八号として登録されており、全体の写真は、歴博ホームページの「館蔵資料データベース」※で見ることができる。
(※ 「資料名称(漢字)」の欄に「遣足帳」と入力して検索)
(原題「旅の消費」。初出は『歴博』No.124 特集「中世の消費」、2004年5月)