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国立歴史民俗博物館研究報告 第77集 1999年3月



福岡平野における弥生文化の成立過程

狩猟採集民と農耕民の集団関係

The Formation of Yayoi Culture in Fukuoka Plain



藤尾慎一郎




はじめに

Ⅰ 目的

Ⅱ 方法

Ⅲ これまでの弥生文化成立期の土器編年

Ⅳ 弥生早・Ⅰ期土器編年の修正と甕組成の現状

Ⅴ 諸遺跡のもつ条件

Ⅵ 福岡平野における弥生文化の成立過程

Ⅶ 狩猟採集民の農耕民化過程

おわりに

参考文献

The Formation of Yayoi Culture in Fukuoka Plain






論文要旨


 弥生文化は,縄文文化と新しく大陸から入ってきた文化があわさって成立するが,その際,縄文人と朝鮮半島に出自をもつ渡来人のどちらが主体的な役割を果たしたのかという点をめぐって長い間論争がおこなわれている。いわゆる縄文人主体説と渡来人主体説である。
 これらの議論は,縄文文化と弥生文化のもつ諸要素を比較して連続性と非連続性を抽出し,そのどちらかを強調するという方法に特徴があった。しかしいずれの要素もこの文化変容を考える場合には重要であるし,片方だけを取り上げて強調する姿勢は方法的に正しいとはいえず建設的でもない。
 本稿では,狩猟採集民が農耕民化することからすべては始まったという枠組みでこの文化変容をとらえ,その過程で縄文人と渡来人が実際に果たした役割を明確にすることによって,議論の基礎となる弥生文化の成立過程の実態を明らかにすることを目的とした。
 まず福岡平野の遺跡ごとに,煮炊き用土器である甕の保有形態と水田の種類,遺跡が造られてからの発展過程を調べた結果,農耕民化へと縄文人をうながした契機,農耕民化が達成された時期と場所,農耕社会化への過程,土器の保有形態に違いをみせる三つのタイプの農耕民化が存在したことを確認した。
 那珂タイプ,板付タイプ,四箇タイプと仮称した三つのケースのうち初めの二つは,縄文人と渡来人の双方がそれぞれの目的をもって共に生活集団を作ることからはじまり,農耕社会化を目指したものであった。役割分担はもちろん存在し,決してどちらか一方の主体性のもとに進行した現象ではない。
 この文化変容は少数民族の西洋文明化を考える場合のケーススタディでもあり,少数民族主体説や西洋文明主体説が成り立たないのと同じ性格のものと考える。


はじめに

 約1万年続いた狩猟採集活動を生産基盤にする縄文文化は,いまからおよそ2500年前に水稲農耕を生産基盤にする弥生文化に転換する。その最初の舞台となった九州北部で,縄文から弥生への転換がどのような過程をへておこなわれたのかを説明する場合,在来の縄文人が中国や朝鮮半島の先進的な文化を選択的に受け入れたことによって転換をとげたという考え方と,おもに朝鮮半島から渡来した人びとが先進的な文化を背景に転換をおしすすめたという考え方がある。
 一般に縄文人主体説,渡来人主体説と呼ばれるこの二つの考え方は,弥生文化の起源に関する研究が本格化するころからみられるようになり,ある時は縄文人主体説で,またあるときは渡来人主体説で説明されてきた(1)。その経緯は春成によって詳述されている〔春成 1990:20-23,127-134〕。
 これらの議論は,縄文文化と弥生文化を構成する諸要素を比較して連続性と非連続性を抽出することからはじめて,両文化の連続性と緩やかな転換,そして実際に転換をになった大多数の縄文人を重視するのが縄文人主体説,非連続性,急激な転換,そしてその契機を与えた渡来人を重視するのが渡来人主体説である。ところが縄文文化から弥生文化への転換過程を説明する場合には,連続性,非連続性とも重要な要素であって,どちらか一方だけを取り上げて説明できるものではない〔春成 1990〕。しかも連続性が土器づくりや石器づくりなど日常生活の技術的な側面にみられるのに対し,非連続性が社会構造や祭りなどの物として遺りにくい側面を中心にみられることを考えれば〔佐原 1975〕〔都出 1984〕,片方だけで弥生文化への転換を説明することができないことは明白である。
 縄文から弥生への転換過程を考える場合に必要なのは,個々の要素をバラバラに取り上げて連続性や非連続性をみるのではなく,文化の複合体として総合的に取り上げて,連続性と非連続性をみることと,転換過程の具体的な復元をおこなったうえで連続性と非連続性をみることである。とくに後者は,在来の人間と列島外の人間がどのようにして接触し,交流をもち,水稲農耕を生産基盤とする生活を始めるのかという具体的な復元作業抜きに考えることはできない。
 そこで本稿では,この作業をおこなうために弥生文化が最初に成立した地域の一つである福岡平野を取り上げ,在来の人びとと外来の人びととの間に生じた相互交流の内容を具体的に復元する。そしてその過程を縄文人の文明化という視点にたち,弥生文化の成立を世界史上に位置づける試みをおこなう。


Ⅰ 目 的

 筆者は縄文人が水稲農耕に専業化していく過程を復元するために,地域性を反映しやすい煮炊き用の甕を用いて西日本の甕組成を調べたことがある〔藤尾 1991a・b〕。
 弥生文化成立期に用いられていた煮炊き用の甕には,縄文土器に系譜をもつ突帯文土器の甕と,弥生Ⅰ期になって創造された板付Ⅰ式甕,その系譜を引く板付Ⅱ式甕や遠賀川式甕があるが,突帯文甕と板付・遠賀川甕の組成比が地域ごとに異なることに注目し四つの甕組成パターンを設定した。そして各パターンは縄文人が水稲農耕へ専業化していく過程で示した対応の違いをあらわしている可能性のあることを指摘した。
 この段階では,玄界灘沿岸地域や有明海沿岸地域といった地域単位と甕組成パターンが対応すると考え,同一地域の縄文人は同じような対応を示すと理解した。ただ河内平野や濃尾平野だけは中西靖人〔中西 1984〕,春成秀爾〔春成 1990〕(2),紅村弘〔紅村 1987〕が早くから指摘していたように,組成パターンが遺跡単位で対応する可能性のあることを再確認しておいた。
 ところがその後おこなわれた福岡平野の那珂遺跡,雀居遺跡,福岡平野に東接する糟屋平野の江辻遺跡の調査によって,玄界灘沿岸地域でも甕組成パターンが遺跡ごとに異なる可能性がでてきたのである。
 このように福岡平野でも遺跡ごとに甕組成パターンが異なり,それがもし水稲農耕や農耕社会化への対応を異にしていた可能性を示すと仮定すれば,地理的・歴史的環境を異にする地域によって水稲農耕に対する対応が異なると考えた'91年の説明では不十分ということになる。
 そのようなとき,筆者はイギリス留学中,在来の狩猟採集民(中石器時代人)と外来の農耕民(新石器時代人)が相互交流をおこなった結果,狩猟採集民が農耕民化して新石器時代が始まるという相互交流モデル(interaction model)の存在を知った。またそれをもとに1995年にイギリスで開かれた国際学会で福岡平野における弥生文化成立過程を狩猟採集民(縄文人)と農耕民(渡来人)の相互交流モデルで説明したことがある〔Fujio 1999〕。
 この時は学会発表ということもあって詳細なデータを提示することができなかった。そこで本稿ではこのモデルの基礎となる考古学的なデータを提示し,その根拠を明らかにしたうえで弥生文化の成立過程を集団の相互交流モデルで説明することの妥当性とその意義について考えることにする。


Ⅱ 方 法

 まず,'91年以降,新たな遺跡の調査成果をふまえて整備されつつある当該期の土器編年をうけて,'91年の編年案を修正する。なかでも特に大きくかわった板付Ⅰ式土器の細分作業が,いわゆる夜臼・板付Ⅰ式共伴現象の解釈にどのような影響を与えたのか検証する。
 次に新たな編年案をもとに,福岡平野の弥生Ⅰ期甕組成パターンをみなおすとともに,新たに調査された遺跡の甕組成パターンを決定したあと,複数の甕組成パターンが生じるにいたった過程を集団間の相互交流モデルで復元し,あわせてその要因,今日的意義についての考えを示したい。
 なお,本論にはいる前に当該期の集団をあらわす用語について規定しておく(表1)。集団をあらわす用語には,所属する時代をあらわす縄文人,弥生人,生業をあらわす狩猟採集民,農耕民,系譜をあらわす在来人〔春成 1990〕(indigenous),渡来人,移住者(immigrant)〔春成 1900〕(3)がある。このなかでとくに取り扱いが難しいのが縄文人と弥生人である。筆者は縄文時代の人が縄文人,弥生時代の人が弥生人という佐原真の定義にしたがっているので〔佐原 1983〕,弥生時代の縄文人といった表現を用いることはできない。
 とくに本稿は生業面と系譜面に微妙な言い回しを必要とする内容を含んでいることや,この相互交流モデルの世界史的意義を考えるためにも,基本的に縄文人や弥生人という用語は用いないように努め,ここからは狩猟採集民と農耕民,もしくは在来人と渡来人を用いる。



表1 集団をあらわす用語一覧
 縄文・弥生時代の集団をあらわす用語として一般的な表現が縄文人と弥生人である。縄文時代や弥生時代の人びとという意味で使われてきたこれらの用語は,生業や系譜を異にするさまざまな集団を含む総称である。
 生業をあらわす用語の使用はこれまでほとんどおこなわれていなかった。それは,縄文人はすべて狩猟採集民,弥生人はすべて水稲農耕民と考えられてきたからである。現在の知見では,西日本後・晩期の狩猟採集民は穀物栽培を生業の一部に取り入れてはいるが基本的に狩猟採集に依存する人びとで西日本の後・晩期に一般的な存在であった可能性が出てきている。狩猟採集民は弥生早期になると九州北部で,Ⅰ期には西日本でも数が少なくなっていく。それに対して農耕民は水田稲作に生活の基本をおく人びとで,弥生早期に九州北部玄界灘沿岸地域の下流域に現れる。
 系譜をあらわす用語はこれまで形質人類学で一般的に用いられてきた。渡来系弥生人はこの典型である。高身長,高顔の形質を強くもつ人びとが渡来系弥生人で,甕棺分布域と響灘沿岸に分布する。これに対して縄文的な形質を強く残す西北九州型弥生人は,在来系の弥生人ということができる。
 なお,矢印は存在した期間を示し,点線はわずかに存在した可能性のあることを表現している。



Ⅲ これまでの弥生文化成立期の土器編年

1 1991年までの状況

 この地域における当該期の土器編年は,板付環壕集落の調査によって設定された夜臼・板付Ⅰ式共伴期〔森・岡崎 1961〕,縄文時代の水田が見つかったことで有名な板付水田の調査を契機におこなわれた突帯文土器の細分〔山崎 1980〕,夜臼式と共伴しない板付Ⅰ新式の設定〔伊崎 1981〕,板付Ⅰ式をともなわない夜臼Ⅱb式だけをもつ集団が存在する可能性の指摘〔藤尾 1991b〕など,いくつかの画期をへて整備されてきた。
 本稿では,'91年以前の研究史は概略にとどめ(4),それ以降の状況を詳細にみることにする(表2)。論点は,板付Ⅰ式の細分作業が夜臼・板付Ⅰ式共伴現象の解釈に与えた影響である。
 山内清男が晩期最終末の土器として設定した突帯文土器は〔山内 1937〕,最古の弥生土器を見つけるための土器として早くから注目され,弥生文化の起源を探る上で重要な役割をになってきた。戦後になって福岡県夜臼遺跡で突帯文土器と遠賀川式土器の混在がはじめて遺構のうえで確認され,1951年に福岡県板付遺跡において両者の共伴が確認された。その結果,突帯文土器は夜臼式,縄文土器と共伴する最古の弥生土器は板付Ⅰ式と命名され,研究史にのこる夜臼・板付Ⅰ式共伴期が設定された〔森・岡崎 1961〕。
 ただ夜臼式と板付Ⅰ式の共伴に関する当時の解釈は,両者が必ずともなうという認識ではなく,縄文土器に系譜をもち型式学的に古い夜臼式が残存した結果,板付Ⅰ式と共伴したという様式上の現象という考えが一般的で〔森 1966〕,共伴現象を集団差で説明する春成〔春成 1973〕や機能差で説明する岡本勇〔岡本 1966〕の考えは少数派であった。



表2 福岡平野の弥生早期~Ⅰ期土器編年表
 +は,型式名はないが,存在は確認されていることを示す。
 各編年案の左側は突帯文土器系統,右側は板付式系統を示す。


 やがて佐賀県宇木汲田遺跡で板付Ⅰ式をともなわない夜臼式土器が確認されると,夜臼式の主体はこの段階にあり,板付Ⅰ式と共伴する夜臼式はやはり残存したものであるという考えはますます強まることになる〔九大考研 1966〕。
 1978年に板付遺跡で板付Ⅰ式をともなわない夜臼式単純段階の水田が見つかったことによって夜臼式単純段階の存在が確定すると,突帯文土器の細分作業が急速に進んだ〔山崎 1980〕〔中島 1982〕〔橋口 1985〕。この過程で明らかになってきたのが板付Ⅰ式の祖型となる祖型甕の存在である。山崎純男によって存在が指摘され,中島直幸が命名した祖型甕には,板付Ⅰ式へと型式変化していくA系列とつながらないB系列があり,板付Ⅰ式への型式組列が復元された〔藤尾 1987〕。さらにA系列の祖型甕が九州北岸に位置する玄界灘沿岸地域だけに分布することを確認していた筆者は,突帯文土器単純段階に祖型甕が存在するこの地域の集団が板付Ⅰ式の成立にかかわっていた可能性を指摘した〔藤尾 1990〕。
 また春成は,板付Ⅰ式の成立を玄界灘沿岸地域の集団が新しいシンボルを創出したものとしてとらえている〔春成 1990〕。春成によると,それは縄文人と渡来人の主体性の衝突と妥協の産物であって,それぞれの主体性を残そうとしたかねあいの問題,と表現している〔同:43〕。
 その後,九州北部の突帯文土器研究は,祖型甕が出てくる背景や,板付Ⅰ式をともなうはずの夜臼式(山崎編年の夜臼Ⅱb式)だけをもつ集団の存在を想定してそのような集団が出てくる背景を考える集団論・系譜論と,突帯文土器編年の細分作業に二分化していく。
 前者については,祖型甕が出現する背景に関して無文土器との関係を家根祥多が指摘するが〔家根 1987〕,根拠とした韓国側の資料が未発表であったため詳細を検証できない状況が続いた(5)。そのため筆者も板付Ⅰ式は内的・外的な刺激を受けながら縄文土器の流れのなかで祖型甕からうまれると考えていた〔藤尾 1987〕。しかしこのような考え方は無文土器との関係を否定できない状況にあるにもかかわらず縄文土器からの影響だけを重視するという偏った姿勢を示すものとして春成の批判をうけた〔春成 1990〕。
 '90年代になり,韓国側の休岩里遺跡や検丹里遺跡の土器の内容が明らかになってくると,筆者は祖型甕と前期無文土器(検丹里式)との関係を条件付きで認め〔藤尾 1991a〕,やがて検丹里式の影響のもと祖型甕が成立することを追認した〔藤尾 1993〕。また家根も資料を提示して実証的な研究が実現した〔家根 1993〕。このような考え方は現在では縄文土器の流れの中で板付Ⅰ式が成立したとする田崎博之の説と併立状態にあるといえよう〔田崎 1994a〕。
 また夜臼Ⅱb式と板付Ⅰ式の関係をめぐる研究には二つの方向からの取り組みがあった。一つは水稲農耕開始期の地域性を追求するなかで,福岡県野多目遺跡や同有田七田前遺跡の突帯文土器の調査をふまえて,板付Ⅰ式にともなうはずの夜臼Ⅱb式が単純で出土すること,しかもそういう遺跡には祖型甕から板付Ⅰ式への変化がみられないことを指摘した研究である〔藤尾 1991b〕。
 もう一つは,板付Ⅰ式が福岡平野より東へ広がっていく,いわゆる伝播問題をあつかう研究のなかからでてきた板付Ⅰ式細分の動きである。もともと福岡県今川遺跡を調査した伊崎俊秋が板付Ⅰ式のなかには夜臼Ⅱb式をともなう板付Ⅰ式(今川Ⅰ式)と,夜臼式をわずかしかともなわない板付Ⅰ式(今川Ⅰ式)が存在することを指摘したことに端を発し〔伊崎 1981〕,橋口達也の高坏と甕を基準にした板付Ⅰ式の細分作業へと引き継がれてきたものである〔橋口 1985〕。
 この状況にいち早く注目した田崎は,夜臼Ⅱb式をともなう古式の板付Ⅰ式が福岡平野とその周辺に限られるのに対し,夜臼Ⅱb式をともなわない新式が福岡平野をとりまく周辺地域や瀬戸内に分布することから,板付Ⅰ式の伝播が板付Ⅰ式の新しい段階にはすでに始まっている可能性を説いている〔田崎 1986〕。
 板付Ⅰ式をともなわない夜臼Ⅱb式単純の組成を示す遺跡,板付Ⅰ古式と夜臼Ⅱb式が共伴する遺跡,そして板付Ⅰ新式単純の組成を示す遺跡の発見にはじまる板付Ⅰ式の細分作業と,祖型甕の出自に関する研究が'91年までの中心的な土器をめぐる研究状況である。


2 現在の状況

 '91年以降,夜臼Ⅱb式単純の組成を示す遺跡が福岡平野で,板付Ⅰ新式単純段階の存在を肯定する新たな遺跡が福岡平野以東において調査された。前者が日本列島でもっとも古い環壕集落として位置づけられた那珂遺跡(那珂37次調査)と板付遺跡の至近距離にある雀居遺跡,後者が古賀市井手流遺跡,宗像市大井三倉遺跡である。
 夜臼Ⅱa~夜臼Ⅱb式,板付Ⅰ式共伴期に比定される那珂遺跡の環壕(二重環壕の内壕)から出土した煮炊き用土器には突帯文土器と祖型甕しか認められず,しかも板付Ⅰ式へとつながるA系列の祖型甕はみられないことから,板付Ⅰ式をともなわない夜臼Ⅱb式の存在が再確認される〔吉留 1994〕。しかも板付Ⅰ式につながる祖型甕や板付Ⅰ式をもっていない那珂遺跡で環壕集落が造られていることは興味深い。なぜなら那珂遺跡の調査以前に,那珂遺跡と同じ土器組成を示すことがわかっていた野多目遺跡や有田七田前遺跡は環壕をもっていなかったので,これまで知られていなかった水稲農耕に対する新しい対応をしていた集団が存在した可能性を予想できたからである。
 これらの調査成果は,弥生文化成立期の社会状況が'91年に想定したよりもさらに複雑だったことを意味している。福岡平野ではこれまで突帯文土器と板付Ⅰ式が共伴するという一つの甕組成パターンしか確認していなかったため,あらたにもう一つのパターンが存在した可能性が強まった。しかも環壕集落をつくる集団に甕組成を異にする集団が存在することは,もはや甕組成パターンの違いが地理的,歴史的背景を異にする地域ごとの水稲農耕に対する対応の違いを反映したというこれまでの解釈では説明できないことを示している。甕組成パターンの違いは集団ごとの対応や発展形態の違いを反映したものと想定せざるを得ない状況になったといえよう。
 そこで祖型甕の有無,板付Ⅰ式の有無,環壕の有無,水田のあり方などを手がかりに福岡平野の遺跡を再検討して,集団ごとに諸条件がかなり異なっていたことを指摘する。そしてそれらが甕組成パターンを異ならせる可能性やその背景について考える。まず,Ⅰ期の時間軸の修正と新しく見つかった遺跡の甕組成が'91年に設定した四つの甕組成パターンのうちのどれにあたるのか検証してみよう。


Ⅳ 弥生早・Ⅰ期土器編年の修正と甕組成の現状


図1 弥生時代早・Ⅰ期の甕形土器模式図
図2 突帯文甕の属性図

1 器種構成

 早期土器様式の器種には煮炊き用の粗製深鉢,突帯文甕,種もみ貯蔵用の壺,お供え物を盛りつける高坏,縄文以来の浅鉢がある。そのうち壺と高坏は本格的な水稲農耕の開始とともに現れる器種である。
 Ⅰ期の板付式土器の器種構成は,甕・壺・鉢・高坏で,粗製深鉢と浅鉢は基本的にみられない(6)
 煮炊き用土器の形態は,突帯文土器と板付式土器ではかなり異なる(図1)。突帯文甕は,口縁部が直立する単口縁をもち,器体に突帯を貼り付けてそこに刻目を付けた土器で,器形には胴部で一度,屈曲して底部にむかってすぼまる屈曲形(屈曲甕,図1-1)と,底部にむかって単純にすぼまる砲弾形(砲弾甕,図1-2)がある。板付甕は,口縁部が如意状に外反し,砲弾形の胴部をもって,口唇部に刻目をつける土器である(図1-3)。


2 時間軸の基準(図3~9)

 時間軸の指標にはどの遺跡からも出土し,時間的属性を認識しやすい甕を用いる(7)。玄界灘沿岸地域の弥生早期・Ⅰ期の甕には突帯文甕,祖型甕,板付甕がある。

 A 突帯文甕


 屈曲甕と砲弾甕がある。
 屈曲甕は,胴部の屈曲が次第に弱まり砲弾形の器形に近づくとともに,刻目の形状や口縁部突帯を貼り付ける位置(以下,「突位」と呼ぶ)が上昇していく点に時間差がもっともよくあらわれる(図2)。そのほかにも口縁部突帯と胴部突帯の大きさの相対的関係(突間),器面調整,刻目の形状,施文法などの属性に違いが認められるのは,前稿〔藤尾 1990〕のとおりである。これらの属性の変化をもとに弥生早・Ⅰ期の屈曲甕は四つに分けることができる。
屈曲甕1(屈1) 胴部の屈曲は強く(図2-器形a),刻目は大きく刺突法で刻む(図2-刺突法)。突帯は口縁部端部から1cm前後下がった位置に貼り付ける(図2-突位-a)。突帯を口縁部だけに貼り付ける一条甕と,胴部の屈曲部にも貼り付ける二条甕がある。福岡県有田七田前遺跡,板付遺跡(図3-1),雀居遺跡を代表とする。
屈曲甕2(屈2) 二条甕は屈曲が弱まる(図2-器形-b)ものとまっすぐのびるものが現れる。後者の方が新しい。刻目はやや小さくなり,口縁部の突帯は口縁端部にかなり近づけて貼り付けるもの(図9-突位-b)から,接してつけるもの(c,d)まである。新しいものには刷毛目調整をおこなうもの,押し引き法で刻むものがある。有田七田前遺跡,野多目遺跡,那珂遺跡37次(図4-1),板付遺跡(図5-1,6-1),雀居遺跡,江辻遺跡にみられる。
屈曲甕3(屈3) 胴部の屈曲が完全になくなり砲弾甕と同じかたちの胴部をもつ(図8-器形-c)。刻目は定型化し施文後にヨコナデ調整する。口縁部の突帯は口縁端部に接して大形化して胴部の突帯よりも大きくなりはじめる(図2-突位-e,突間b)。板付遺跡(図8-1)や福岡県門田遺跡を代表とするが,元来,有明海沿岸地域の突帯文甕である。
屈曲甕4(屈4) 器形は屈3と同じだが,口縁部の突帯はもはや貼り付け突帯の域を脱し,三角口縁や方形口縁と呼ばれるものに発達している(図2-口位-e)。胴部突帯は形骸化し(図2-突間-c),底部は脚台状を呈する(図9-1)。板付遺跡や福岡県浄泉寺遺跡(図9-1)を代表とする。
 一方,砲弾甕は,胴部形態を除く刻目の形状,口縁部突帯の位置などが屈曲甕とおなじ変遷をたどる点に注目して,砲弾甕1(砲1,図3-3),砲弾甕2(砲2,図4-2,5-2,6-3),砲弾甕3(砲3),砲弾甕4(砲4,図9-2)の四つに細別する。早・Ⅰ期の有田七田前遺跡,野多目遺跡,那珂遺跡37次,板付遺跡,雀居遺跡,江辻遺跡にみられる。

B 板付祖型甕

 砲弾形の器形で,直口縁の口唇部に突帯を貼り付けず直接,刻目を施文する甕である。粘土帯の積み上げが外傾接合,器面調整に刷毛目を使う点,明るい発色,精良な胎土など,同時期の突帯文甕とは雰囲気を異にしている。とくに外傾接合と刷毛目技法を多用する祖型甕は,無文土器に系譜が求められることを示唆している〔家根 1987〕。口唇部文様から全面に刻むA系列(図10-1,2)と外側に片寄ってつけるB系列(図3-2,4-3,図10-3)がある。前者だけが板付Ⅰ式へと型式変化する〔藤尾 1987〕。
 A系列は玄界灘沿岸地域の一部の集落にみられるのに対し,B系列はA系列と分布域を重ねながら,有明海沿岸地域にもわずかに存在する。なお,遠賀川下流域以東では確認されていない。

C 板付甕


 Ⅰ期の甕である。器形,口縁部形態,刻目の施文位置を基準に分けた(図10,11)。今回は板付Ⅰ式を細分したので'91年のⅠ期四細分から五細分になる。なお,型式名は田崎博之の用語〔田崎 1994a〕を一部参考にした。
板付Ⅰ古式甕(板1古) 胴部はほとんど張らずに口縁部から底部にむかって直線的にすぼまる形態で,口縁端部は丸いか尖り気味である(図10-a,b)。そのため口縁部の刻目は全面につけられることになり(図10-1),しかも間隔をあけてつけられる(図11-3)。口縁部外面に粘土貼りつけによる段をもつもの(図5-5)や,器面調整をおこなう原体である板の木口痕を残すものがある。口縁部全面にヨコナデを加えるようになる前の段階である。刷毛目調整はのこさず,ナデか細密条線で仕上げる。森分類の板付Ⅰ式Aに相当する〔森・岡崎 1961〕。板付遺跡など玄界灘沿岸地域の限られた集落にしかみられない(図5-3,4,5)。
板付Ⅰ新式甕(板1新) 胴部がやや張り上半部が直立気味に立ちあがる。口縁端部は角がまだ丸みを帯びている(図10-2)。口縁部の刻目は全面につけられ(図10-1,2),間隔は密である(図11-1,2)。施文後,口縁部内外面をヨコナデするようになるために,刻目が定型化する。胴部の上半に粘土帯の接合にともなってできた段をもつものが現われたり,刷毛目調整が消されずにのこるようになる。従来の板付Ⅰ式Cに相当する〔森・岡崎 1961〕。玄界灘沿岸の全域(板付,那珂,雀居),遠賀川下流域,西部,中部瀬戸内に分布する(図6-2,4)。
板付Ⅱa式甕(板2a) 胴部がだいぶ張るようになるが口径よりも胴部最大径が大きくなることはない。口縁端部形態が方形になることで平坦面が形成され(図10-c,d),刻目を下端に付けることが可能になる(図10-3)。従来の板付Ⅱa式に相当する(図7-1,2)。
板付Ⅱb式甕(板2b) 板2a式の器形で,刻目をもたないものや(図10-4),胴部上位に沈線や刻目突帯を1~2条引いたものが現れる(図8-2)。また突帯文糸の甕(亀ノ甲タイプ)が出現する(図8-1)。従来の板付Ⅱb式に相当する。
板付Ⅱc式甕(板2c) 胴部がかなり張るものが現れ,なかには口径よりも胴部最大径がまさるものもみられる(図9-3)。文様は板2bと同じで,底部が脚台状になるものも現れる。突帯文系甕の割合が高まる従来のⅠ期末に相当する。


図3 弥生早期古段階甕形土器実測図(縮尺1:6)図6 板付Ⅰ新式甕形土器実測図(縮尺1:6)
図4 早期新段階甕形土器実測図(縮尺1:6)図7 板付Ⅱa式甕形土器実測図(縮尺1:6)
図5 板付Ⅰ古式甕形土器実測図(縮尺1:6)図8 板付Ⅱb式甕形土器実測図(縮尺1:6)
図9 板付Ⅱc式甕形土器実測図(縮尺1:6)



図10 板付甕・祖型甕の口縁部刻目の施文位置と口縁端部形態       図11 口縁部刻目の施文間隔




3 様式設定


表3 福岡平野における様式模式図
 四つの屈曲甕と砲弾甕,七つの祖型甕,板付甕を軸に遺跡ごとの出土状況と田崎編年をふまえて〔田崎 1994a〕,早・Ⅰ期をこれまでの六期から七期にわけた(表3)。
 早期は前回と変わらず,古・新段階の二つに分ける。古段階は砲1,屈1,祖型甕A1(図3),新段階は屈2,砲2,祖型甕B1からなる(図4)。古・新段階とももっとも多いのは砲弾甕で甕組成の6割を占め,以下,屈曲甕2割,祖型甕1割の順である。古段階は板付G-7a・b区下層,同G-7a・b区中層を標識とし,ほかに有田七田前,雀居遺跡などにもみられる。新段階はE-5-6区中層を標識として,有田七田前,野多目,雀居遺跡などにもみられる。
 Ⅰ期はこれまでの夜臼Ⅱb・板付Ⅰ式共伴期を夜臼Ⅱb・板付Ⅰ古式共伴期と板付Ⅰ新式に細分する。板付Ⅱa式以降は従来どおりである。
 板付Ⅰ古式段階は,砲2,屈2,板1古,祖型甕B2からなるが,砲2と祖型甕B2はわずかで,屈2と板1古がほぼ1:1の割合で共伴する(図5)。共伴現象は板付遺跡の環壕ではみられるが,那珂遺跡内環壕や野多目遺跡,有田七田前遺跡などではみられない。この問題は後述する。
 板付Ⅰ新式段階は,福岡平野では基本的に板1新単純の甕組成になり(雀居遺跡SK159土坑の一括資料はこの好例である),またわずかに屈2や砲2がともなう例がある(8)。また福岡平野より東の地域では瀬戸内系の屈曲一条甕(9)と板1新式甕が共伴する例があり,高知県田村遺跡などを好例とする(図6)。
 板付Ⅱa式段階は,福岡平野では板2a単純になる。比恵遺跡28次3号土坑から出土した二条甕,拾六町平田遺跡2次調査で出土した砲弾形甕は,すでに有明海沿岸地域で前期化を達成していたⅠ期突帯文甕に相当すると考えられるので,いわゆる夜臼式と板付甕との共伴とは分けて考える。すると板付Ⅱb式期にでてくる有明海沿岸地域のⅠ期突帯文甕である亀ノ甲タイプ〔藤尾 1991a〕の福岡平野への流入がさかのぼることを示すと考えた方がよいだろう(図7)。
 板付Ⅱb式段階は,板2bが9割以上を占め,屈3と砲3がわずかにみられる。後者はいわゆる亀ノ甲タイプである。比恵遺跡30次6・12・16・21号土坑出土資料が該当する(図8)。大井三倉遺跡では早期突帯文土器の特徴を残した瀬戸内系屈曲形一条甕が出土している。
 板付Ⅱc式(10)段階は,板2c,砲4,屈4からなる。構成比を示す好例は知られていないが,遠賀川以西の地域では砲4が顕著である(図9)。板2c甕は遠賀川以東地域で中心となる遠賀川以東系の甕である〔田崎 1985〕。
 以上,福岡平野における突帯文甕と板付甕の出方をまとめてみると,原則的に板付Ⅰ古式段階までは早期突帯文土器と板付Ⅰ古式甕が共伴する。板付Ⅰ新式段階になると福岡平野では混在することはあっても基本的に共伴しなくなり,むしろ福岡平野以東で瀬戸内系屈曲形一条甕,砲弾形一条甕と板付Ⅰ新式甕が共伴する(11)〔藤尾 1991a〕。また板付Ⅱa式段階には有明海沿岸地域のⅠ期突帯文甕が福岡平野にはやくも現れはじめることを確認した。板付Ⅱb式段階に有明海沿岸地域との交流が本格化して,亀ノ甲式タイプと呼ばれる屈3・砲3が現れることは従来の知見どおりである。
 このように福岡平野において夜臼Ⅱb式は板付Ⅰ古式甕とだけ共伴し,板付Ⅰ新式段階になると福岡平野以東で早期の瀬戸内系屈曲甕などが板付Ⅰ新式甕と共伴すること,さらに従来板付Ⅱb式段階になって有明海沿岸地域から流入すると考えてきた亀ノ甲タイプがすでに板付Ⅱa式段階から流入し始めることを確認した。これら新たに確認できた事実関係は福岡平野のⅠ期甕組成の解釈にどのような影響を与えるのであろうか。甕組成を再度検討してみよう。


4 Ⅰ期甕組成の検証

 水稲農耕への専業化が九州各地で始まる板付Ⅰ新式,Ⅱa式段階に,板付甕との間で折衷土器をつくりだすほどの安定した存在であった突帯文甕と,板付甕との組み合わさり方はいろいろであった。突帯文甕が一遺跡でわずかに数点という遺跡もあれば突帯文甕単純の組成を示す遺跡もあった。また瀬戸内ではⅠ期のはじめと後では両者の比率が逆転する遺跡もある。これらの組み合わせをⅠからⅣにまとめたのが表4である。表でいう共伴とは突帯文甕と板付甕の比率が1:1か,もしくは片方が3割以上を占める場合であって,片方が1割以下の例,たとえば数点が混じる場合は該当しない。



表4 弥生Ⅰ期の甕組成
夜臼・板付Ⅰ古板付Ⅰ新板付Ⅱa板付Ⅱb板付Ⅱc地域・遺跡
有明海沿岸,薩摩,紀ノ川流域,長原遺跡
●○○(●○)板付遺跡,有田遺跡,田村遺跡,講武氏元遺跡
●○●○瀬戸内中部・西部,豊後
近畿,大井三倉,井出流,雀居,四箇,田村,(有田七田前遺跡,那珂遺跡,野多目遺跡)

( )内の遺跡は,板付Ⅰ新式以降存在しない遺跡。●突帯文系,○板付・遠賀川系,●○共伴



 表に示したように組み合わせ自体に'91年と増減はない。各パターンは次のような特徴をもつ。
 Ⅰ期を通じて突帯文甕が9割以上を占める組成である。有明海沿岸地域,薩摩地域,和歌山県紀ノ川流域以南,近畿地方の一部の集落にみられる。
 次にⅡとⅢは,Ⅰ期のある時期だけ,突帯文甕と板付,遠賀川甕が共伴する組成である。
 福岡平野では板付Ⅰ古式段階(Ⅰ期初頭)に限って,福岡平野以東では板付Ⅰ新式~板付Ⅱb式段階に突帯文甕と板付・遠賀川甕が1:1の割合で共伴する組成である。夜臼Ⅱb式・板付Ⅰ式共伴期として知られていた玄界灘沿岸地域,福岡平野以東の遠賀川より以西の地域,伊予や土佐の一部の集落にみられる〔藤尾 1991b〕。先にパターンⅣに含めていた出雲の一部の遺跡は,このパターンに属することをあらたに確認したので訂正しておく(12)
 Ⅰ期後半~末(板付Ⅱb,Ⅱc式併行期)に限って突帯文甕が3~7割の割合で板付甕の系譜を引く遠賀川甕と共伴する組成である。豊後,安芸,伊予,吉備,讃岐など瀬戸内海沿岸の集落にみられる。この地域の突帯文甕は下城式や瀬戸内甕(13)として知られている。狩猟採集民が水稲農耕に専業化したころは遠賀川甕だけを用いるが,板付Ⅱb式併行期に下城甕や瀬戸内甕が出現すると,その割合を高めていく。なかには突帯文甕の割合が7割を超える集落もある〔藤好 1982〕。
 Ⅰと正反対のパターンで,Ⅰ期を通じて板付甕や遠賀川甕が9割以上を占める組み合わせである。弥生Ⅰ期の典型的な甕組成として長いあいだ認識されてきた組み合わせで,西日本はすべてこの組み合わせを示すと考えられていた。'91年の段階では遠賀川下流域から長門にかけての響灘,周防灘沿岸の集落,山陰,近畿地方の一部の集落にしかみられないことを確認していた。出雲の一部の集落は先述したようにパターンⅡに属すことがわかった。


5 福岡平野におけるⅠ期甕組成の現状と派生する問題

 新たに調査された福岡平野の甕組成パターンを検討した結果,パターンⅠとパターンⅢは,これまでの予想通りに該当する遺跡はなかった。また板付遺跡,有田遺跡など環壕集落として地域の核となる集落がパターンⅡに該当する点にも変更はない。修正を必要とするのはパターンⅣについてである。
 これまで福岡県四箇遺跡など縄文後・晩期から集落が営まれていた在来の狩猟採集民に系譜を求めることができる農耕民がパターンⅣに属することは'91年の段階ですでに指摘しておいた。しかし,板付Ⅰ式をもたず夜臼Ⅱb式単純の組成を示し,その後は集落が継続しない野多目遺跡や有田七田前遺跡がどのパターンにあたるかは,遺跡が板付Ⅱa式以降存続しない以上,推定することができなかった経緯がある。
 今回の分析によって板付Ⅰ古式段階における那珂遺跡と雀居遺跡の甕組成が,前回保留した野多目遺跡や有田七田前遺跡と同じで,しかも雀居遺跡がその後も継続することを確認できたので,前回保留分がパターンⅣに属すことを明らかにすることができたのである。
 これまで福岡平野より東の地域でしか確認できなかったパターンⅣが福岡平野に存在することで,弥生文化の成立過程と福岡平野からの伝播過程において新たな課題が生じた。
 まず成立過程の問題についてみると,甕組成ではパターンⅡとⅣの二つのあり方をみせる福岡平野の諸遺跡であるが,各遺跡の早期における生業のあり方や保有する道具類をみると,同じ甕組成パターンの遺跡でも実に複雑な様相を示し,とくにパターンⅣを示す遺跡で著しかった。
 パターンⅡを示す遺跡は,早期古段階から水稲農耕に専業化していた集団で,百年近くにわたって存続,発展してきたあと,Ⅰ期になると板付Ⅰ古式をもち環壕を造り,やがてⅠ期の終わりには青銅器を副葬される首長をもつ集団という点で共通していた(板付遺跡,有田遺跡)。それに対してパターンⅣを示す遺跡には,早期段階に採集狩猟民であった集団(四箇遺跡)と農耕民であった集団とがあり,さらに後者にはⅠ期以降も存続する集団(雀居遺跡)と,存続しない集団(那珂遺跡,野多目遺跡)が存在するなど,いろいろな展開をとげる遺跡が含まれていることが明らかになったのである。これはパターンⅣを示す遺跡のなかに採集狩猟民が農耕民化する複数のパターンが存在した可能性を示唆している。
 次に東への伝播問題については,これまで福岡平野全体を起点としてⅠ期段階に東・南方向への弥生文化の拡散を考えていたが,福岡平野のなかでも一部の限られた集団,すなわちパターンⅡの集団からパターンⅣの集団への拡散が早期段階に存在した可能性が出てきたのである。すなわち福岡平野を出る前に平野内の集団間で拡散がおこったものと考えられる。
 このように'91年段階では平野単位の地域性を示すと考えていたⅠ期甕組成が,今や水稲農耕への対応や環壕集落の形成など農耕社会化にあたって,集団ごとに異なる対応をしていたと考えざるを得ない状況にあるといえよう。
 このような集団ごとの農耕社会化の過程を検証するには,生産基盤である水田のあり方や集団の規模,変遷など集団ごとの細かい分析が必要になってくる。次章では四箇遺跡,板付遺跡,那珂遺跡,雀居遺跡がもつ諸条件の違いを田崎博之がおこなった遺跡群の精緻な研究〔田崎1994b・1998〕を参考にしながら,それぞれの農耕社会化の過程を検証する。


Ⅴ 諸遺跡のもつ条件


1 四箇遺跡(図12-5)

 四箇遺跡のある早良平野は山塊によって福岡平野と画されている。この平野を北流する室見川がつくった扇状地の中央部に形成された中位段丘面に四箇遺跡があらわれるのは,縄文後期後半(およそ3500年前)である。彼らは在来の採集狩猟民であった。四箇遺跡では後期後半から焼畑がおこなわれていた可能性が指摘されているため〔安田 1982〕,これを認めるならば栽培をおこなう狩猟採集民だったことになる。
 J-10K地点で突帯文甕の細片がローリングを受けた状態で見つかっているところから早期にも遺跡群として存続していたと考えられるが,水稲農耕に専業化していたことを示す証拠は見つかっていないことから,依然として狩猟採集段階にあったと推定される。なお祖型甕もみられない。
 四箇遺跡に水稲農耕へ専業化した農耕民が現れるのは,板付式甕が定型化し大陸系の磨製石器や木製農具も現れる板付Ⅱa式段階からである。水田は,室見川の氾濫原との比高差が5m以上もある安定性を備えた好条件の場所につくられていたと考えられている〔田崎 1998〕。なお環壕は確認されていない。
 以上のことから四箇遺跡は,縄文後・晩期からこの土地に占地していた在来の狩猟採集民の集落で,板付Ⅰ新段階以降に同じ場所で農耕民化した集団であったと考えられる。なお北に位置する田村遺跡も同じ性格をもつ。このようにⅠ期の室見川の中流域には在来の採集狩猟民が農耕民化した集団が住んでいたと考えられる(14)


図12 福岡・早良平野における弥生早・Ⅰ期の遺跡分布図 〔小林・磯・佐伯・高倉編 1998〕から作製


2 板付遺跡(図12-7)

 板付遺跡は,古諸岡川や那珂古川(現御笠川)がつくった谷底平野や氾濫原に囲まれた標高12~15mの中位段丘上に,長径が110mほどの内環壕に囲まれた居住域と,そのまわりに広がる貯蔵穴,甕棺墓地,さらにその外側をめぐる幅10mの外環壕と灌漑施設を備えた水田からなる。環壕は南北370m,東西170mに達する巨大な二重環壕である(図13)。
 内環壕に囲まれた内部は削平を受けていたこともあって住居跡は見つからなかったものの,貯蔵穴が確認され,それらの数から10~15軒の住居があったと考えられている〔山崎 1990〕。内環壕と外環壕の間には貯蔵穴や甕棺墓が見つかっている。甕棺墓に葬られた小児のなかには副葬品をもつ小児ともたない小児が認められ,しかも副葬品をもつ小児は集落の中心部に近い内環壕のすぐ外側に葬られていたことから,Ⅰ期の集団内にはすでに階層差が存在していた可能性が指摘されている〔山崎 1990〕(15)
 板付遺跡に人が現れたのは早期古段階である。この中位段丘上には縄文後・晩期に人の住んだ形跡は認められていない。したがってそれまで利用されていなかったところに水田,木製農耕具,大陸系磨製石器,突帯文土器や祖型甕をもつ農耕民が突然現れたことになる。

図13 板付遺跡周辺の地形図
〔山崎 1990〕と〔同 1991〕より作製
図14 福岡平野における初期水田
〔田崎 1998〕より作製


 水田は幅2mの水路と井堰からなる灌漑設備をもち,面積が180~300㎡に達する細長く帯状のものであった(図14-1)。田崎によると水田は中間型(16)に属し,給排水を目的とする灌漑施設をもつことから,きめ細かな調節さえすれば高い生産性を上げることができるものであったと考えられている〔田崎 1998〕。
 そのほかの道具類からみても,板付遺跡の人びとが生産性の高い農耕生活を営んでいたことがわかる。
 祖型甕はA・B系列とも存在し(図15),板付Ⅰ古式甕への型式組列をスムーズにたどることができる。また板付Ⅰ古式甕のバリエーション(図15-3A,4A,6A)や,板付Ⅰ古式甕と夜臼式の両方の要素をもつ,いわゆる折衷甕も数多くみられるので,板付Ⅰ古式甕成立に至る過程で数多くの変異型がうまれたことがわかる。この遺跡で板付Ⅰ古式甕が創り出されたことは確実である(図16)〔藤尾 1987〕。
 環壕が掘られた時期は,早期新段階までさかのぼる可能性も指摘されているので〔山崎 1990〕,水稲農耕開始後わずか100年足らずで社会の質的変化や集団内の階層化が進んだことがわかる。
Ⅰ期末には集落東南部の内環壕と外壕の間に墳丘墓が造られ,甕棺のなかに青銅武器を副葬された有力者を生み出すまでになっていたことからすれば,福岡平野下流域の中核的な集落としての位置を占めていたと考えられる。
 以上のことから板付遺跡は,早期のはじめにだれも利用していなかった土地に農耕民が進出して,水稲農耕に専業化して農耕社会を成立させ,地域的盟主を生み出した集団であったことがわかる。


 
図15 板付遺跡環壕出土の祖型甕と
板付Ⅰ古式甕実測図(縮尺1:4)
アルファベットは系列をあらわす
図16 祖型甕から板付Ⅰ式甕への
型式変遷図(縮尺1:8)
図17 比恵・那珂台地上の
遺跡分布図〔田崎 1998〕から作製
凡例 数字は調査次数
●は板付Ⅰ式段階
■は板付Ⅱ式段階
白抜きは墓地



3 那珂遺跡(図12-9)

 那珂遺跡は南北2.5km,東西1km規模の中位段丘面の中央部を東西に走る狭い谷をはさんだ南側にある。谷の北側には比恵遺跡があり,二つで比恵・那珂遺跡群と総称されている〔田崎 1998〕(図17)。
 この段丘面にはじめて遺構が確認されるのは早期新段階である(那珂37次)。南西端に造られた二重の壕をもつ外径が150mに達する環壕集落である(図17-那珂37)。この遺跡の単位集団の規模は一ないし二と推定されている〔田崎 1994b〕。水田はまだ確認されていないが,周辺の地形から段丘面の西側に想定されている。しかし那珂川がすぐ近くを流れていることから規模はそれほど大きくなかったと推定されている〔田崎1994b〕。この時期の比恵・那珂遺跡群の水田を推測できる遺構は段丘面北部で確認されている(比恵4次調査,図17-比恵4)。
 段丘面が三角州に落ち込むところに造られた水田は,杭をつないだ幅1~2m,長さ5m前後の帯状の小規模なものであったことから,灌漑施設をもたなかった地下水型に属す小規模な水田であったと推定されている(図14-2)。
 那珂遺跡の内環壕からはA系列の祖型甕と板付Ⅰ古式甕が出土せずわずかにB系列(図18-2,3)が出土する程度で,ほぼ砲2(図6-3)と,屈2甕単純(図4-1)の甕組成を示す。
 環壕集落は板付Ⅰ古式段階まで存在したものの,その後,この地点から姿を消す。彼らがどうなったのかはいろいろな可能性が考えられるが,注目されるのはこの地点から北に1.5kmほど離れた段丘面の反対側に造られた環壕集落(春住遺跡〈比恵3次・8次,図17-比恵3・8〉)である。二つの環壕をつくった人びととの間にどのような関係があるのか,たとえば那珂遺跡の環壕をつくった集団が台地の反対側に移動して新たな環壕を造ったのか,まったく別の集団が造ったのかを知るにはもう少し手続きが必要である。ただ田崎の考えを参考にすると,両者は一つの小地域社会を構成する一単位集団であったと考えられているため,同じ台地上の別の地点に移動した可能性はある(17)
 Ⅰ期前葉~末における段丘面上の遺跡分布をみると,居住域が3~8,10・14・21,24~26,28~32・37~39次調査で,墓域は31,34次で確認されている。この成果から田崎は,それぞれは生活や生産をおこなう一つの単位,すなわちムラと考えている〔田崎 1994b〕。結局,Ⅰ期の比恵・那珂段丘面上の各居住域は数百メートルの間隔をおき,直径250m前後の範囲に五つのムラが存在したことになる。
 しかしこれら五つのムラが早期に存在した環壕集落(那珂37次)にすべて出自をもつとは水田の状況からして断定できないため,段丘上にまだ見つかっていない早期のムラが存在した可能性は十分に考えられる。
 以上のように那珂遺跡も板付遺跡と同じく,早期にそれまで利用されていなかった中位段丘面に一~二の小規模な単位集団からなる農耕民が進出し環壕集落を造るにいたったが,板付Ⅰ古式甕をもたず板付Ⅰ新式段階でこの地点から姿を消していた。その理由としては水田を拡大できない立地にある段丘の南西端地区を放棄し別の場所へ移動するか,他のムラに統合されたものと推測した。


図18 那珂遺跡,雀居遺跡の祖型甕(B系列,縮尺1:4)
図19 板付遺跡と那珂遺跡,雀居遺跡の屈曲部にみられる
器形上のクセ(縮尺1:4)図中の三角が傾斜変換点

4 雀居遺跡(図12-10)

 雀居遺跡は御笠川の東岸にあり板付遺跡と対峙する位置関係にある集落遺跡で,土坑群と溝状遺構が検出された。溝は台地の縁辺を巡る自然流路であるが,報告者によると水田との関係はわからないという。早期古段階から営まれはじめ,東北地方の晩期の土器である大洞C2式の浅鉢が出土するなど,東日本との関係をもっていた人びとの集落である。水田は見つかっていないが,大溝から出土した大量の木製品や農工具などからみて,水稲農耕をおこなっていたことは間違いない。彼らが晩期に居住していたことを示す遺構や遺物は出土していないことから,那珂・板付遺跡と同じく早期に進出してきた農耕民と考えられる。
 SDO3から出土した祖型甕は板付Ⅰ古式甕への系譜上にないB系列のもので,しかもわずかにみられるだけである(図18-1)。また板付甕は数点みられる程度でしかも胴部の張る板付Ⅰ新式以降のものである(図6-4)。
 雀居遺跡と板付遺跡の人びととの関係を物語る資料がある。それは両遺跡の屈曲甕のかたちにみられる微細な違いである(図19)。板付遺跡の屈曲甕の胴部突帯のすぐ上の部分,肩で反転してすぐのところには傾斜変換点はないのに対し(図19-3),雀居遺跡や那珂遺跡の屈曲甕の同じ部位には傾斜変換点を明確に確認できる(図19-1,2,4)。この屈曲甕の肩部内面にみられる形態上のクセは,有田遺跡の屈曲甕にもみられる特徴である(図20-1)。板付遺跡との間を隔てている那珂古川(現在の御笠川)は当時の土木技術では制御できないほどの河川と考えられるため,板付遺跡と雀居遺跡はまったく別の遺跡群に属する。しかも両者の土器にクセの違いがみられることは雀居遺跡と板付遺跡が田崎のいう別の小地域社会に属していた可能性を示すものとみてよいだろう。
 以上のように雀居遺跡は早期古段階に農耕民がそれまで利用していなかった土地に進出し,水稲農耕に専業化した生活を送っていたが,板付Ⅰ古式甕の成立には関与しないまま存続したことがわかる。




5 小結

 以上,四つの遺跡を比較して,水田の特徴,遺跡の消長,祖型甕と板付Ⅰ式甕のあり方,土器づくりにみられるクセを検討したところ,早期のおわり頃からⅠ期初めにかけて集落間にはいろいろな違いが生じていたことを確認した。
 まず早期の農耕民には平野の下流域に新たに進出して成立した農耕民集団と,縄文以来の土地で板付Ⅰ新式段階以降に成立した農耕民集団があった。前者はさらに二つに分かれる。早期のはじめから水稲農耕に専業化してⅠ期初頭には環壕集落をつくるほど社会の質的転換を図ったにもかかわらず,何らかの理由によりそのままでは集落を存続できなくなった那珂遺跡と,その後も下流域の中核的な集落として青銅武器を保有するまでに発展した板付遺跡があった。那珂遺跡と同じような変遷をたどる集団には,野多目遺跡や有田七田前遺跡,粕屋町江辻遺跡が,板付遺跡と同じ集団には有田遺跡がある。
 以上をふまえてⅠ期に農耕民化する在来系農耕民を四箇タイプ,早期に農耕民化する農耕民を那珂タイプと板付タイプと仮称する。この三つのタイプの農耕民集団と甕組成パターンとの関係をみると,四箇タイプと那珂タイプが甕組成パターンⅣ,板付タイプが甕組成パターンⅡと一致する。遺跡の消長と甕組成,そして祖型甕から板付Ⅰ式甕への成立過程をおえる遺跡とおえない遺跡との間に強い相関関係を確認したのである。


Ⅵ 福岡平野における弥生文化の成立過程

 論文の冒頭でも述べたように弥生文化の成立過程を説明する考え方には,縄文人主体説と渡来人主体説があった。それは今回設定したような複雑な農耕社会化の過程を想定しないままおこなわれてきた議論であった。出自や生業,保有する道具類,遺跡の消長を異にするいろいろな集団が,正反対の考え方で単純に説明できること自体,両主体説の存立基盤の危うさを意味している。
 どちらの要素が主体であったかなどという二者択一的な議論ではなく,想定した三つの農耕民が出てきた背景と要因を検討し,弥生文化の成立過程を考えてみよう。


1 農耕民の出現

 福岡平野に出現した那珂タイプ,板付タイプ,四箇タイプの農耕民を構成する人びとの出自が,すべてではないにしても,もともとこのあたりにいた在来の狩猟採集民にあったことは,考古学的に渡来人のコロニーが存在した証拠が得られていない以上,確実である。そして彼らが何らかのかたちで縄文時代以来,栽培をおこなってきたことに異論のある人も少ないであろう。
 したがって,栽培活動を生業の一部に取り入れていた在来の狩猟採集民がどのような段階をへて農耕民化したのかを説明することで弥生文化の成立過程の一端を復元してみよう。今回は三つの段階を想定してその背景を考えてみた。
 まず第一に早期古段階に起こる農耕民化である。それは平野の中流域に集落をつくっていた在来の狩猟採集民のなかに,住んでいた土地を離れてそれまでだれも利用していなかった下流域の中位段丘面に進出するものと,そのまま元からの土地で狩猟採集民にとどまるものに分かれる段階である(18)。前者が農耕民化に相当する。
 二つ目は,早期に下流域に進出した農耕民が,Ⅰ期初頭に甕組成パターンⅡをもつ板付タイプと甕組成パターンⅣをもつ那珂タイプに分かれる段階である。
 三つ目が,早期段階に農耕民化しなかった在来の狩猟採集民が,Ⅰ期にはいってから農耕民化する四箇タイプが出現する段階である。


2 早期における狩猟採集民の農耕民化

 早期初頭に,在来の狩猟採集民が平野の下流域に進出して水稲農耕に専業化した生活を始めたことは板付タイプや那珂タイプの存在から確認できるが,彼らが進出した理由はどのように考えられるのか。
 狩猟採集民の農耕民化を説明するモデルの一つに非農耕民(この場合は地元の狩猟採集民)とすでに農耕民化した集団(この場合は朝鮮無文土器時代の人びと)との相互交流の結果,非農耕民が農耕民化するという相互関係モデル(interaction model)がある。もともとヨーロッパ北西部の辺境地域における新石器文化の成立過程を説明するモデルとして考え出されたもので,いろいろなケースが想定されている〔ピーターソン 1981〕〔ゼベルビル・ローリーコンウィ 1984〕〔デンネル 1985〕〔ソルベルグ 1989〕〔グリーン・ゼベルビル 1990〕。文明から遠く離れたところにある地域の農耕民化という点で共通するこのモデルをつかって,この問題を考えてみる。
 弥生文化の成立過程の場合は多数を占める在来の狩猟採集民が少数の農耕民との関係のなかで農耕民化していくケースにあたり,その意味でデンネルのフロンティア理論(19)にもっとも近いパタ-ンを示すと考えられる。そこでこのモデルを適用する前提になる,影響を与える側の朝鮮無文土器文化の人びと,つまり渡来人がこの時期の九州北部にいたのかどうかという問題から考えてみよう。
 研究史的にみると弥生開始期前後の渡来人をゼロと考える研究者はいない。実際に何人やってきたのか具体的な人数をあげておこなえる議論ではないため,どうしても在来人に比べて多いか少ないかの相対的な議論になりがちである。またたとえ想定する渡来人の人数が同じであっても,それが多いか少ないかはまさに主観的な問題であることは,春成が指摘しているとおりである〔春成 1990:132〕。
 中橋孝博は形質人類学の成果をふまえて,弥生文化成立期の九州北部の集落では男性の1割が渡来人であれば人類学的に説明できるとした(20)〔中橋・飯塚 1998〕。考古学では無文土器の技術的特徴をもつ祖型甕が早期の甕組成に占める割合を根拠に渡来人の割合を1/3〔家根 1993〕と考える説や,全器種に占める搬入土器の割合をもとに1%と考える説〔橋口 1995〕がある。農耕民がもつ農工具にみられる無文土器文化の道具との類似性,しかもそれらはセットで存在することから,渡来人が一人もいなかったとは考えられない。ここでは祖型甕の割合を参考に在来人に対して1割前後の渡来人が福岡平野にいたという前提にたち,大多数を占める狩猟採集民との相互交流と狩猟採集民の農耕民化過程を考えてみよう。
 在来の狩猟採集民がいる平野に渡来人がやってきた場合,両集団が何らかの関係をとりむすぶ可能性は高い。何かのきっかけによって渡来人と狩猟採集民の一部が一緒になって,これまで利用されていなかった下流域に占地し水稲農耕に専業化したと考えるのが自然である。無文土器の影響が強い祖型甕の存在もこのことを裏付けている。
 このような現象が起こった原因を渡来人側からみると,灌漑施設を備え,面積が数百平方メートルにも達する大規模な水田を造成するために必要な労働力の確保や,獣肉や皮,石材,木材(21)など在来資源の確保,血が濃くなりすぎるのを防ぐための配偶者の確保などが考えられる。また逆に狩猟採集民側からみると,農耕民のもつ新しい道具やコメの入手などが想定される。
 渡来人と狩猟採集民は以上のような利害の一致もあって下流域で生活を始め農耕民化する(那珂・板付タイプ)。しかし狩猟採集民のなかには縄文以来の土地にとどまり伝統的な生活を続けた集団もいた(四箇タイプ)。なぜなら水田農耕へ専業化することはもし失敗したときに食料不足におちいることを意味するし,もしそうなれば集団の存続自体が危うくなる。そこで集団を二つに分けることで安全装置を効かせたと考えることもできる。もちろん渡来人と接触をいっさいもたなかった狩猟採集民もいただろう。この結果,下流域には在来系と渡来系からなる農耕民,中・上流域には在来系狩猟採集民という住み分け状態が現出する。
 いずれにしても交流の結果,在来の狩猟採集民と渡来人が一つの集団を形成したことは確実だが,その契機については可能性を指摘するにとどめておく。


3 農耕民の分化

 早期から下流域で農耕生活を営んでいた集団のなかに,甕組成を異にして,その後の発展過程を異にする板付タイプと那珂タイプが生じる農耕民の分化過程について検討する。
 農耕民のもつ農工具など水田稲作をおこなううえで必要な道具類はほとんど同じなのに,祖型甕A系列と板付Ⅰ古式甕をもつ板付タイプ,それらをもたない那珂タイプはどのようにしてできたのであろうか。同じように農耕社会化への過程を歩みはじめた二つの集団にこのような違いをもたらしたものとは一体何だったのであろうか。いろいろな要因が関係していると考えられるが,次のような可能性をあげておく。
 まず板付Ⅰ古式甕へとつながるA系列の祖型甕をもっていないことは渡来人との関係の有無,もしくは程度を示している可能性がある。また水田の立地条件と水の管理に起因する生産基盤の優劣が集団の生産力と人口を規定した可能性もある。灌漑施設をもたない水田で稲作をおこなった那珂・比恵遺跡が,灌漑施設をもつ板付遺跡に比べて生産基盤が弱かったと考えられるのは先述したとおりで,これが農耕社会化を押し進める集団内の潜在的な力に結びつかなかったとも考えられる。
 また甕組成パターンの違いが,土器を作るムラと作らずに他所から供給を受けるムラという遺跡の存在を反映している可能性もある。弥生Ⅰ・Ⅱ期の九州北部では,複数のムラからなる一つの小地域社会においては,限られたムラでのみ土器がつくられ,同じ小地域社会に属するムラに土器を供給していた可能性が指摘されている(22)〔田崎 1995〕。那珂遺跡も比恵・那珂遺跡群という一つの小地域社会を構成する一つのムラと考えられているので,田崎の想定をこの場合にも適用できれば,那珂遺跡は土器を作るムラではなくて供給を受ける遺跡であった可能性も出てくる。


図20 有田遺跡の屈曲甕,砲弾甕,板付甕にみられる
器形上の特徴(縮尺1:4)図中の三角は傾斜変換点

 土器を作るムラと供給を受けるムラが早期段階の福岡平野にも想定できれば,板付遺跡や有田遺跡は板付Ⅰ古式甕を創造・製作した集団にあたり,那珂遺跡や雀居遺跡は板付Ⅰ古式甕を作らず,供給を受けていた集団であった可能性が出てくる。実際田崎は,板付Ⅰ式土器が拠点集落だけでつくられ,ほかのムラに供給していた可能性を想定している(23)
 板付Ⅰ式甕が特定の集団で創造・製作され,他の集団へ供給されたという生産,供給関係が存在したことを証明するには,供給元と供給先と考えられる遺跡の板付Ⅰ式甕に共通性が認められるかどうか検証する必要がある。今のところ,そのような関係にある遺跡を土器レベルで指摘することはできない。しかし供給元であった可能性が高い遺跡に有田遺跡と板付遺跡があり,両遺跡の板付Ⅰ式甕と屈曲甕や砲弾甕との間には口縁部の作りや刻目の施文法の面で違いのあることもわかっている(24)(図20)。このような違いをもつ土器を共有する遺跡群をある一定の範囲で確認できれば,板付Ⅰ式甕を製作する集団と供給されていた田崎のいう小地域社会が存在したことを確認できる。しかも供給元は少なくとも板付と有田など複数の存在が想定できる状況にある。祖型甕A系列と板付Ⅰ古式甕をもたない遺跡において供給元と考えられる遺跡のクセをもつ土器を見つけられれば,田崎の指摘する生産,供給体制が存在したことが証明され,それが原因で組成パターンを異にする農耕民がうまれると説明することもできよう。
 現状では板付タイプと那珂タイプという二つの農耕民化が存在し,異なる農耕社会化をとげることになった要因として,渡来人との関係の密度,水田の立地条件に原因する生産力の優劣,土器の供給元と供給先という分業体制があった可能性などをあげた。どれも今後の検証を待つことになるが,これらが複合的にからみあっていたことは間違いない。


4 Ⅰ期における狩猟採集民の農耕民化

 弥生Ⅰ期以降におこった狩猟採集民の農耕民化と位置づけた四箇タイプの出現過程は,早期のそれとはいろいろな面で異なっている。まず狩猟採集民は後・晩期以来の土地で農耕民化することである。彼らは水田にするには好条件の場所をもちながら(25),長い間,水稲農耕に専業化しなかった。もし後・晩期のコメづくりを認めるとすればその期間は1200年もの長きに及ぶ。しかしⅠ期になると情勢の変化が下流域から訪れる。
 早期に下流域に進出していた農耕民がどのくらいコメを食べていたのか議論は分かれるが,コメという栄養に優れた食品に依存していたこともあって,乳幼児の死亡率が低いために人口増加率が高い。早期新段階には増えた人口を養うために当時の技術で開発可能な下流域の可耕地はすでに開発しつくされ,すでに飽和状態にあったと考えられている〔山崎 1983〕。
 下流域の農耕民がさらなる人口増加に対処するためには,中・上流域,もしくは福岡平野以外に可耕地の拡大を求めるようになったことは十分に考えられる。すると下流域の農耕民同士の競争に加えて新たに目をつけた場所にもとから住んでいた狩猟採集民との間で資源をめぐる競争も始まり,緊張関係が顕著になってくる。弥生時代の戦いがこの頃からはじまることが知られているが〔橋口 1987〕,戦いで死んだと考えられる犠牲者の分布が,玄界灘沿岸部から内陸部や遠賀川下流域に向かって時期をおうごとに増えてくる事実からも下流域から中・上流域へと緊張関係が高まっていったことはある程度予測できる〔中橋 1995〕〔藤尾 1996〕。
 生産基盤を異にする二つの集団が競争関係にはいると,人口の多い集団が優位にたつのは想像に難くない。もし狩猟採集民がそのままの状態を続けていれば彼らが食料を獲得していた森などの生産基盤は水田へと変わり,食料の調達が難しくなる。このような情勢を挽回する方法の一つは生産基盤を同じくして競争にのぞむことである。中流域の狩猟採集民がこの時期に農耕民化する理由の一つとしてこのような状況を想定できないだろうか。



Ⅶ 狩猟採集民の農耕民化過程

 縄文人主体説,渡来人主体説のどちらかを用いて説明される傾向が強かった弥生文化の成立過程を,狩猟採集民の農耕民化という枠組のなかで,農耕民との相互交流モデルを用いて検討してきた。
 まず早・Ⅰ期にみられる系譜を異にする突帯文甕と板付甕の組成比の違いをもとに,福岡平野における農耕民化過程を三つ設定し,その過程と要因について考えた。
 第一のケースは,在来の狩猟採集民と渡来系の農耕民が早期古段階に,それまで在来人があまり利用していなかった下流域で,一緒に集落をつくって水田稲作に専業化することによって進行した農耕民化過程である。この理由を狩猟採集民と農耕民との利害の一致に求め,ともに一つの生活集団を構成するにいたった可能性を指摘した。この場合,狩猟採集民,農耕民の双方が独自の目的を持っていたという意味で相互依存的であるから,縄文人主体論や渡来人主体論は成り立ちがたい。
 第二のケースはそうして形成された農耕集団が農耕社会化していくなかで二つの異なる展開の仕方があったことである。一つは環壕集落を形成して地域の拠点集落となり,その後も地域の核として発展し有力首長を生み出していく板付タイプの集団で,板付Ⅰ式甕の生産と供給をになった可能性のあることを指摘した。もう一つは,板付Ⅰ式をもたず,集落を廃絶し,どこかへ移動するか,板付Ⅰ式の供給を受けて存続した可能性のある那珂タイプの集団であった。このような差異が生じる理由として各集団と渡来人との密接度,生産基盤の違いに基づく集団の生産力そして土器を生産するムラと供給を受けるムラという分業制などを想定した。この場合も縄文人や渡来人の片方だけの役割を強調して説明できる問題ではなく,主体論は成り立ちがたい。
 第三のケースが,もっとも遅れて縄文以来の土地で農耕民化した四箇タイプの出現過程である。この過程は下流域に占地する農耕民集団が人口増加によって不足した食料を生産するための新たな可耕地を,中・上流域にある狩猟採集民のテリトリーに求めたことによっておこる。狩猟採集民側にとっては生活環境の破壊に対抗するための処置として理解した。この場合はきっかけを作ったのが農耕民,主人公は狩猟採集民で,やはり片方の主体性だけで理解できないことは明らかである。
 これら三つのケースは,農耕民化する時期と順番を異にしたという点では,農耕民化の先発組,後発組という捉え方もできるし,農耕民化した理由を考えると,自発的に農耕民化した狩猟採集民と,抜き差しならない状況に追い込まれて農耕民化した狩猟採集民という見方もできる。
 しかし三ケースとも直接的,間接的な違いはあっても在来人と渡来人の双方が,ある目的をもってともに生活集団を作り,農耕社会化への道を歩み始めるという協同的なものであった。決してどちらか一方の主体性で進行した現象ではないのである。
 縄文から弥生への転換を,少数民族の西洋文明化という現代史的な視点で考えたとき,少数の文明人が何らかの目的をもって少数民族のテリトリーに入植し,日常的な接触交流のなかで勢力を拡大して,いつのまにか人口が拮抗したとき,両者間にいろいろな社会問題が生じる。たとえば少数民族の生活基盤の破壊,環境問題の発生である。その時,少数民族が意識的に,あるいは仕方なく西洋文明化していく過程と今回の設定が共通する問題を含んでいることに気づく。このような場合,少数民族主体説や文明人主体説のような単純な議論で少数民族の文明化を説明できないことはいうまでもない。実際に何がおこっていたかを細かく復元していく作業をおこなったうえでの議論が不可欠である。
 しかし依然として残された課題も多い。渡来人が九州北部へわたってきた背景を,前5~4世紀の東アジア情勢のなかでどのように説明したらよいのかといった問題や,日本列島における狩猟採集経済から生産経済への転換が世界史的にはどのように位置づけられるのかといった問題,さらには弥生文化を形成させた要因のなかで,水稲農耕以外の社会構造・都市,国家形成という社会的側面,祭りや宗教などの精神的側面が果たした役割の検討などである。すでに広瀬和雄〔広瀬編著 1997〕や宇野隆夫〔宇野 1996〕がこれらの点に重点をおいた弥生文化成立論を発表しているが,これらの問題については今回ふれることができなかったため,別の機会で論じることにする。


おわりに

 筆者がこの問題を論じるきっかけとなったのは,大阪府立弥生文化博物館がおこなった弥生文化成立に関するシンポジウムで,弥生文化の成立過程が縄文主体説で説明されたことである〔金関ほか編 1995〕。1990年に発表された春成秀爾の『弥生時代の始まり』で,筆者を含めたそれ以前の縄文主体論にみられる方法的な偏向性が指摘されたことをうけ,縄文人,渡来人両方の果たした役割を明らかにすることから始めるという姿勢で考えを練り直していた矢先の出来事であった。筆者は九州北部にいた10年前,縄文人が弥生化する過程で脱ぎ捨てていった縄文文化の要素をよくみることができたために,縄文人主体説の立場で祖型甕から板付Ⅰ式甕への成立過程を説明した。しかし,関東に来てみると社会や宗教などのかたちとして遺りにくいものが,この時期の変化に大きな影響を与えているのではないかと考えるようになった。またコメの初現がさかのぼり,縄文人が水田稲作に専業化するまでの時間が長くなるほどそうした印象は強まるばかりであった。縄文人は水田稲作を知ればすぐにそれを取り入れ,農耕社会化へと進むと教えられてきた常識が崩れはじめた今日,縄文人が文明化していく過程とその要因について今後も検討していきたい。
 最後に本稿を草するにあたり,1996年におこなった歴博の特別展『倭国乱る』の準備段階における発表などを通じて次の方々からご批判,ご助言,ご指導をいただいた。また考古学以外の分野の方々との議論は示唆に富んだものであった。末筆ではあるが記して感謝の意を表したい。また用いた資料の掲載報告書については省略させていただいた。

 宇野隆夫・佐原真・設楽博己・白石太一郎・菅波正人・田崎博之・都出比呂志・中橋孝博・西谷大・西田正規・橋口達也・春成秀爾・福井勝義・松木武彦・宮井善朗・横山浩一・吉岡康暢・吉田晶(五十音順)。


(1998年3月30日校了)


 本稿は平成9年度文部省科学研究費補助金重点領域研究(1)「日本人および日本文化の起源に関する学際的研究」(課題番号09208103)の成果の一部である。






(1)  1930年代から本格化する弥生文化起源論はそれぞれ発表された当時の社会状況を反映した内容になっている。これについては別稿を用意している。渡来人主体説の主なものには,〔小林 1938・1947・1951〕〔春成 1973〕〔家根 1987〕があり,縄文人主体説の主なものには,〔杉原 1943〕〔藤間 1951〕〔岡崎 1968〕〔橋口 1985〕〔下條 1986〕〔田中 1986〕がある。ただ前者は,渡来人の役割だけを強調しているわけではなく縄文人の役割との違いを明確にしようとする立場なので,一方的な渡来人主体説ではないといえよう。
(2)  春成は,Ⅰ期古・中段階の近畿では,遠賀川甕と突帯文甕(長原式)の遺跡ごとにおける比率が違うことに注目し,突帯文甕のみ,突帯文甕主遠賀川甕少,遠賀川甕のみ,遠賀川甕主突帯文甕少の四つの型に分けた。そしてそれぞれの土器を製作,使用する集団を在来人と福岡平野の周辺部からやってきた移住者と位置づけ,両者の併存,両者間の人的・物的交流を想定した。注目されるのは,両集団とも水田稲作民であること,移住者を九州北部の特定地域から直接移ってきたと考えていることである。この点について筆者は,突帯文甕は栽培を一部取り入れた狩猟採集民,遠賀川甕は水田稲作民の土器,九州北部から近畿への直接移住ではなく,西部瀬戸内と中部瀬戸内といった隣接する地域圏同士の間におこった玉突き現象と考えている〔藤尾 1991b〕。
(3)  春成は先述したようにⅠ期の大阪平野を舞台に在来人と移住者の関係を論じたが,本稿は福岡平野の弥生文化成立期を扱うため,移住者は渡来人にあたる。そこで在来人,渡来人という用語を用いることにする。
(4)  '91年以前の詳細は拙稿〔藤尾 1991a〕を参照していただきたい。
(5)  板付・遠賀川式土器の成立に朝鮮半島無文土器文化との関わりを想定する考えは,'60年代から存在した。板付式の甕と突帯文土器では粘土帯の積み上げ方や粘土紐の幅が異なることが指摘されている〔佐原 1967〕〔森 1966〕。
(6)  田崎は,遺跡からの出土状況をもとに浅鉢が板付Ⅰ新式段階まで存在すると考えている。
(7)  早期の場合,水稲農耕を特徴づける壺をもつ集団ともたない集団があるので,壺を共通の指標とすることはできない。浅鉢も早期新段階以降衰退していく器種なのでやはり指標にはなじまない。
(8)  福岡平野では板付遺跡県道505号線A-1区1・4号竪穴,古賀市井出流遺跡,今川遺跡環壕で共伴例が確認されている〔田崎 1994a〕。板付Ⅰ新式と後で述べる板付Ⅰ新式段階における板付甕と突帯文甕との共伴現象は,福岡平野より東の地域(近畿まで)では一般的な現象と考えられる。井出流遺跡や宗像市大井三倉遺跡の屈曲甕3をみると,高知県田村遺跡や岡山県津島南池遺跡で確認した屈曲形一条甕と同じであることからもわかる。
  一方,板付Ⅰ新式段階を想定する田崎と吉留は板付Ⅱa式段階までわずかな量の突帯文甕が存続するとしているため,彼らにとって板付Ⅰ新式甕単純段階は存在しないことになる。
(9)  屈曲甕には口径よりも屈曲部径の方が大きく,胴部突帯を屈曲部に貼り付ける西部九州系(本稿でこれまで対象としてきたもの)と,逆に口径の方が大きかったり屈曲部よりややうえに突帯を貼り付ける瀬戸内系がある〔藤尾 1991a〕。両者の分布の境界は,福岡平野の東,宗像・津屋崎地域にあると考えている。
(10)  板付Ⅱc式とは,従来のⅠ期末に相当する。これまでこの段階の型式名はつけられていなかったが,1987年に武末純一がこの名称を使用した〔武末 1987〕。筆者は1984年から,前期末と中期初頭における土器の変化を比較した場合,前期末の方がより大きな変化を起こすものとして認識し,前期末~中期初頭で一くくりする考えを示してきた〔藤尾 1984a・1984b〕。基本的な立場は現在でも変わらないが,本稿では早期とⅠ期しか扱っていないので,武末の型式名を踏襲する。
(11)  出原恵三は土佐の入田Ⅰ式では弥生化した砲弾形の突帯文系甕と遠賀川甕が共伴するとしているが〔出原 1994〕,弥生化した屈曲形一条甕系も共伴することがLoc.25から知られる。
(12)  島根県埋蔵文化財調査センターのご好意で1998年2月におこなった現地調査によって,講武氏元遺跡をはじめいくつかの遺跡で突帯文系甕が遠賀川甕と共伴することを確認できた。
(13)  瀬戸内甕の系譜については,秋山浩三が主張する遠賀川系説と〔秋山 1992〕,筆者が主張する突帯文系説〔藤尾 1991a〕,今里幾次の折衷説〔今里 1969〕がある。突帯文系説には,Ⅰ様式新段階の壺にみられる貼り付け突帯が甕に影響を与えて出現したと考える佐原真説〔佐原 1970〕もある。
(14)  四箇遺跡や田村遺跡より上流のムラがすべて同じような経過をたどったかといえばそうではない。同じく室見川の中流域にある重富遺跡にはⅠ期前半に,環壕集落があらわれるという意見もあるが,詳細はわからない〔井沢ほか 1990〕。
(15)  内環壕と外環壕の間には小児甕棺から構成される二つの墓群が確認された。そのうち内環壕に近い小児甕棺群には玉類が副葬されていたのに対し,外環壕に近い小児甕棺には何も副葬されていなかった。山崎純男は,小児甕棺の位置関係と副葬品の有無との間に関連を認め,内環壕に近い小児甕棺に葬られた人びとと外環壕に近い小児甕棺に葬られた人びととの間に階層差が生じていたと結論づけている。
(16)  田崎博之が埋没水田を三分類したモデルの中の一つである。田崎は地下水位と耕土とのレベル差をもとに,地下水型,中間型,表面水型に分類している。中間型とは地下水の変動層が耕土下にあり,地下水位の影響が間接的に及ぶ水田のことである。
(17)  田崎は,Ⅰ期の比恵・那珂遺跡群は,等質的な景観や規模・構造の「ムラ」の単なる集合体ではなく,景観や規模の異なる大小の「ムラ」が段丘上に散在していたと推定している〔田崎 1998:127〕。
(18)  橋口達也氏から,福岡平野の下流域に現れた最初の農耕民は,福岡平野以西からやってきた農耕民と考えているとうかがったことがある。これは板付などより早く農耕民化した集団(曲り田遺跡)が存在し,それが東進して福岡平野に進出したことを意味する。
(19)  狩猟採集民のいる地域空間に農耕民がはいってきてからすぐに起こる両者の接触と交流に関して,狩猟採集民の一部がフロンティアとなって両者をむすびつけ,その結果,地域全体に農耕が拡大していくというモデルである。
(20)  中橋孝博教示。なお概略は重点領域研究の活動概要に掲載されている〔中橋 1998〕。また'98年度中の人類学雑誌に詳細が掲載される予定である。
(21)  春成は大阪平野中央部の弥生集団が生駒山麓に住む集団から完成した木器を手に入れていたという田代克己の説〔田代 1986〕を引用し,木器自身は遠賀川式土器を製作・使用する集団が作るにしても原木の入手にあたって在来人との没交渉はあり得ないとした〔春成 1990〕。また石材も二上山のサヌカイトの入手にあたって同じ状況を想定している。本稿であつかう福岡平野の早期と,春成が想定した河内のⅠ期では,地域や時期が異なり,福岡平野では渡来人だけのムラが確認できないなど諸条件に違いはあるが,生活物資の現地調達という側面においては共通した状況を想定できると考えている。
(22)  田崎は,弥生Ⅰ・Ⅱ期の福岡県津古・三沢丘陵の検討のなかで,10のムラからなる一つの小地域社会において,土器を焼いたと考えられる遺構をもつムラともたないムラが存在するという調査成果をもとに,限られたムラでのみ土器がつくられ,同じ小地域社会に属するムラに土器を供給していた可能性を指摘している。
(23)  田崎教示。
(24)  屈曲甕の集団差は先述したが,有田遺跡のもつ砲弾甕の胴部下半から急に底部にむかってすぼまる器形や(図20-2・5),朝顔のように口縁が外側に開く器形は,板付遺跡との大きな集団差をあらわすものと考える(図3-3,図4-2)。
(25)  Ⅰ期中頃から古墳前期までの木製農具の比率をみると,平型鍬や狭鍬などの砂礫開墾用に適した農具の比率が5%以下であることから,比較的安定した土地環境に水田が営まれたと推定されている〔田崎 1998〕。



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家根 祥多1987:「弥生土器の誕生と変貌」(『季刊考古学』19,13-18).
1993:「遠賀川式土器の成立をめぐって-西日本における農耕社会の成立-」(『論苑考古学』267-329,天山舎).
山崎 純男1980:「弥生文化成立期における土器の編年的研究-板付遺跡を中心としてみた福岡・早良平町の場合-」(『鏡山猛先生古稀記念古文化論攷』117-192).
1983:「西日本後・晩期の農耕」(『縄文文化の研究』2,267-281,雄山閣出版).
1990:「環濠集落の地域性-九州-」(『季刊考古学』31,57-61).
1991:「北部九州における初期水田-開田地の選択と水田構造の検討-」(『日本における初期弥生文化の成立』350-394,文献出版).
山内 清男1937:「縄紋式土器の細別と大別」(『先史考古学』1-1).
吉留 秀敏1994:『那珂11-二重環濠集落の調査-』福岡市埋蔵文化財調査報告書366.

(国立歴史民俗博物館考古研究部)







The Formation of Yayoi Culture in Fukuoka Plain:The interaction between Hunter-gatherers and Agrarian

FUJIO,Shin'ichiro

 Yayoi is a complex culture based on the preceding Jomon and a newly introduced culture from the continent and Korean Peninsula. It has been debated who played a major role in the formation of Yayoi culture; the Jomon People or Chinese-Korean immigrants. Archaeologist have compared and contrasted a variety or elements in the Jomon and the Yayoi cultures. Two alternative models above have been proposed by focusing either continuities or discontinuities between the two cultures. However, both persisting and newly introduced elements are equally important to understand the process of cultural transformation. And therefore, this study proposes a more holistic approach to the formation of Yayoi culture.
 The author considers the formation of Yayoi culture as the process of cultural change associated with an economic transformation from hunter-gatherer to agricultural economy. The study aims to clarify the role of Jomon and Korean immigrants in this cultural and economic transformation.
 The paper first surveys each site in the Fukuoka plain based on the distribution of cooking pottery,the type of wet rice paddy fields. the history of site occupation. It identifies three types of cultural transformation.each differs in the reason of subsistence change. the process of transformation, the time and the place in the achievement of agricultural economy. and associated pottery. The three types of cultural transformation are tentatively called here as Naka, Itazuke, and Shika. In the former two, both indigenous people and immigrants together formed a social unit. The economic transformation was achieved by the cooperation of the two groups and not by the initiative of either one of the two.
 This case study parallels studies on the Westernization of minority cultures. Westernization cannot be explained by the single contributor model, either the minority or the westerner. Similarly the study concludes that the dichotomy of the indigenous versus the diffusion model is inappropriate for the explanatin of the formation of Yayoi culture.



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