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「海の帝国琉球-八重山・宮古・奄美からみた中世-」(企画展示室)

「海の帝国琉球-八重山・宮古・奄美からみた中世-」(企画展示室)

開催概要

開催期間 2021年3月16日(火)~5月9日(日)
※展示替えあり
 前期展示:3月16日(火)~4月11日(日)
 後期展示:4月13日(火)~5月9日(日)
会場 国立歴史民俗博物館 企画展示室A
料金

一般:600円 / 大学生:250円
※総合展示もあわせてご覧になれます。
※高校生以下は入館料無料です。
※高校生及び大学生の方は、学生証等を提示してください。(専門学校生など高校生及び大学生に相当する生徒、学生も同様です)
※障がい者手帳等保持者は手帳提示により、介助者と共に入館が無料です。
※半券の提示で当日に限りくらしの植物苑にご入場できます。

開館時間 9時30分~17時00分(入館は16時30分まで)
※開館日・開館時間を変更する場合があります。
休館日 毎週月曜日(5月3日(月・祝)は開館し、5月6日(木)休館)
主催 大学共同利用機関法人人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館
展示協力 沖縄県立博物館・美術館

開催趣旨

コロンブスやマゼランが開いた世界史上の大航海時代より以前、早くも14世紀代から東アジア海域世界では活発な交易がおこなわれていました。その中心となったのが海洋国家・琉球です。琉球王国の輝ける時代は、これまでもしばしば紹介されてきました。ただ、琉球はその活動の過程で、言語も習俗も異なる周辺の島々、八重山・宮古・奄美に侵攻し、それぞれの社会を大きく変化させたこと、このことで現在の日本国の国境が定まっていることは、あまり知られていません。

文献資料がほとんど残っていないこれらの地域の歴史は、琉球王国によって作られた歴史書をもとに語られてきました。しかし島々を歩くと、ジャングルの中には当時の村が遺跡として眠っており、そこからは大量の陶磁器が発見されます。琉球王国とは別の世界が、そこには確かにあったのです。

これまでほとんど注目されてこなかった琉球の帝国的側面に視点を据え、八重山・宮古や奄美といった周辺地域から琉球を捉え直します。国立歴史民俗博物館では、2015年からこうした共同研究を実施してきました。この展示は、その成果を公開するものです。たくさんの青磁や白磁、国宝の文書や重要文化財の梵鐘、屏風や絵図など400点を超える資料から、新たな歴史像を示します。

広報画像①-1 首里那覇港図屏風 19世紀 沖縄県立博物館・美術館蔵

18-19世紀に琉球で多数作製された「首里那覇鳥瞰図」の一つ。左下の港町那覇のにぎわいから、右上の首里城を
中心とする城下町の様子まで、空間を極端に湾曲させて俯瞰的に描く。突堤状の先端にある御物城(おものぐすく)や、
岬の突端にある波之上宮、首里城や守礼門など、現在に残るスポットも細かく描かれている。
また、港には中国から戻った進貢船(琉球船)のほかに薩摩の船も見られる。

 

本展のみどころ

  • 沖縄本島や離島で見つかった青磁や白磁がずらり
    中国産の青磁や白磁というと高級な調度品がある一方で、東アジア世界一帯で交易されたほとんどは、日常生活で使う碗や皿です。南の島々でもそれらが大量に見つかっており、豊かな生活がうかがえます。沖縄本島だけでなく、与那国島、西表島、波照間島、黒島、竹富島、石垣島、宮古島、喜界島で見つかった青磁や白磁を一堂に会します。
  • 琉球と諸外国との関係を示す絵画資料
    琉球と中国の間を行き来した船は、近世の絵画に登場します。琉球船と中国船を大きく描いた「冊封使船送迎之図」(国立歴史民俗博物館蔵)や、「首里那覇港図屏風」(沖縄県立博物館・美術館蔵、展示期間:4月20日~5月9日)などでその特徴を確かめてみてください。また、中世に日本、朝鮮、ヨーロッパで作られた地図からは、島々に対する関心の違いが読み取れます。
  • 8点の国宝の文書を展示(漢字とひらがなが混じった独特の文書も!)
    東京大学史料編纂所所蔵の島津家文書(国宝)には、琉球や島々に関わる文書が含まれています。漢字とひらがなが混じった文書や、独特の朱印などをご覧ください。展示替えをしながら8点の国宝文書を展示します。

展示の構成

Ⅰ. 描かれた琉球

海のかなたに存在するという琉球。正確な位置情報がなかった14世紀、鎌倉時代の日本地図には、片隅に「りうきう」と記された島が描かれる程度でした。

15世紀になって博多商人が朝鮮・日本・琉球を行き来するようになると、航路を記した、より正確な絵図が登場します。九州島と沖縄島の間の、トカラ列島や奄美諸島はかなり詳しく描かれています(広報画像②)。しかし、そこから先の宮古・八重山は登場しません。

16世紀になるとポルトガル人がインドのゴアを拠点にして、マラッカ、マカオと東アジアの海に進出してきます。そこで彼らは「レキオス」すなわち琉球を知るのです。その知識はヨーロッパにもたらされ、世界地図に琉球が登場することになります。台湾と琉球の間に無数に描かれた島々は、おそらく八重山や宮古の諸島でしょう(広報画像③)。これらの島々は、南の世界に開かれていたのです。

広報画像② 琉球国図 
1696年 沖縄県立博物館・美術館蔵

筑前黒田藩士竹森道悦が太宰府天満宮に奉納した地図。1453年に博多商人道安が朝鮮に献上した地図と同系統で、中世の琉球周辺の情報が盛り込まれている。博多から琉球に至る経路と途中の島々が詳細に描かれており、博多と琉球を行き来した商人の知識が反映されている。

広報画像③ オルテリウス アジア図 
1575年  国立歴史民俗博物館蔵

オランダの地理学者であるオルテリウスが制作した世界地図で、広く流布した。中央やや右上に描かれた日本の南西に伸びる島々には“Lequio maior”(大琉球)、“Lequio minor”(小琉球)と記され、琉球と台湾とわかる。その間の島々は八重山・宮古と思われるが、“Fermosa”(台湾)とも書かれており、情報の錯綜が窺える。

 

Ⅱ. 八重山・宮古の時代:八重山の集落/宮古の集落

沖縄本島からずっと南のかなた。石垣島や西表島などからなる八重山や、宮古島を中心とした地域には、沖縄本島には存在しない石囲いの集落がありました。そこからは中国産の青磁や白磁が大量に見つかります(広報画像④)。中国と独自に交易をしていた島々の世界が存在したのです。木材や布がかれらの交易品だったのでしょう。

沖縄本島を統一した琉球が力をつけると、宮古そして八重山へと侵攻してきます(広報画像⑤)。文字記録がほとんど残っていないこれらの地域の歴史は、侵略者・琉球が編纂した歴史書を根拠に語られてきました。しかし集落遺跡や陶磁器という考古資料から、琉球帝国の侵略により八重山・宮古の社会が改変された様子がわかってきました。島々の多くの陶磁器から、その様子を生々しく伝えます。

広報画像④ 西表島古見(こみ)遺跡採集陶磁器 13~16世紀 個人蔵

八重山・宮古の集落からは、中国産の陶磁器が大量に見つかる。沖縄本島からはあまり見つからないタイプも含まれており、中国福建地域から直接持ち込まれたものも多いと考えられ、八重山・宮古地域が独立した文化圏であったことを示す。西表島南東部の古見には、集落の近くに八重山有数の港があった。

広報画像⑤ オヤケアカハチ像 石垣市大浜所在
※展示はパネルのみ

石垣市大浜地区に立つ、地元の英雄・オヤケアカハチの銅像。八重山地域に覇を唱え、琉球王府に抵抗したが、1500年に戦艦百隻を率いた王府軍に攻められ敗死した。それ以降、八重山の多くの集落遺跡が廃墟と化したようで、琉球帝国の支配が本格化したと考えられる。

 

Ⅲ. 境界領域としての奄美:奄美の集落/北からみた奄美

平安時代から鎌倉時代の日本は、螺鈿の材料である夜光貝など南方の産物を求めて、九州より南の地域に進出しようとしました(広報画像⑥)。南九州に所領をもつ鎌倉御家人の千竃(ちかま)氏は、島々の権益を子どもたちに相続させています(広報画像⑦)。

沖縄本島を統一した琉球は、15世紀になると北の島々を配下におさめようと軍事行動を起こし、ついには奄美大島・喜界島まで領土を広げるのです。日本と琉球の境界領域であった奄美にももちろん独自の文化がありました。集落遺跡から見つかる陶磁器は、時代の変化と共に変わる、北から、南からのモノの流れを示し、琉球帝国の侵略によって集落が消滅する様子も語ってくれます。

広報画像⑥ 夜光貝で作った貝匙 現代 個人蔵

奄美地域で採れる夜光貝は、都の貴族たちに珍重された。夜光貝を加工して作った貝匙は、貴族たちの宴会で使用された記録が残っている。奄美の遺跡では、貝匙の失敗作なども見つかっており、現地で加工したうえで都へ送ったことがわかる。

広報画像⑦ 千竃(ちかま)時家処分状(複製)(部分)
1306年 国立歴史民俗博物館蔵 ※原品個人蔵

鎌倉幕府の得宗被官・千竃氏が子供たちに分与した遺産相続の文書。千竃氏は薩摩以南の島々を所領としており、トカラ列島や奄美の島々もそのなかに含まれていた。現地支配の実態があったとは思えず、交易などの権益を有していた程度と考えられている。鎌倉時代の南九州勢力が、どのように奄美を位置付けていたかがわかる。

 

Ⅳ. 琉球統一と中央集権:沖縄本島の集落とグスク/琉球王権と明の冊封

15世紀になって沖縄本島を統一した尚氏は、中国・明の皇帝から琉球国王と認められ、首里城に拠点を据えました。首里城から見つかる陶磁器は、王の権威を示す高級品で彩られています(広報画像⑧)。

力を付けた交易国家琉球は、有力な按司(あじ)(大名)を粛清し、中国人特権階層をも取り込んで、中央集権化を進めます。その一方で、北は奄美、南は宮古・八重山へと版図を広げ、広大な領域を支配する帝国と化していったのです。尚真王の時期に作られた梵鐘には「尚真帝王」の銘文が刻まれており、帝国の最盛期を象徴します(広報画像⑨)。

広報画像⑧ 青磁陽刻牡丹文大花瓶 
15世紀 国立歴史民俗博物館蔵

15世紀に中国の龍泉窯で焼かれた大型の花瓶。一般的に流通している碗や皿と違い、権力者しか入手できない優品である。首里城からはこうした美術陶磁器の破片が大量に出土しており、他の地域とは隔絶した権力を有していたことがわかる。

広報画像⑨ 円覚寺殿中鐘(重要文化財)
1495年 沖縄県立博物館・美術館蔵

琉球王尚家の菩提寺である円覚寺にかけられた梵鐘。琉球王国最盛期の尚真王の時期に鋳造された。梵鐘の銘文の中に、四角い枠取りをして金象嵌を施した特別な箇所がある。そこには「尚真帝王」と刻まれており、まさに琉球が帝国としての意識をもっていたことを端的に示す。

 

Ⅴ. 那覇港と島々を結ぶ:首里王府と那覇港/唐船口/宮古口/倭口

海洋国家琉球の窓口は、国際交易港・那覇でした。中国や東南アジア、日本といった海外や、八重山・宮古・奄美といった征服地を行き交う船で、港はあふれていました。港の様子を描いた屏風(広報画像①)や、防衛力の高さを示した那覇港の模型(広報画像⑩)、中国の使節が乗った船の絵画(広報画像⑪)などから、那覇港の具体的な姿を紹介します。

琉球帝国は、中国や東南アジアの国々とは漢文体の文書でやり取りしたのに対し、征服した地域には琉球国内と同様の漢字・かな混じり文体に朱印を押した独特の文書を出しました(広報画像⑫)。

広報画像①-2  首里那覇港図屏風(部分) 19世紀 沖縄県立博物館・美術館蔵

広報画像⑩ 那覇湊周辺ジオラマ模型(1/2000) 
沖縄県立博物館・美術館蔵

現在は内陸化しているが、那覇はもともと独立した島であった。美しいサンゴ礁は、大型船の入港を阻む障害でもあり、那覇港は良港ではあるが難所でもあった。この模型は、絵図や発掘調査による情報を加味して中世の那覇を復元したひとつの研究成果である。さらに水深まで考慮して復元している。

広報画像⑪ 冊封使船送迎之図 
19世紀 国立歴史民俗博物館蔵

琉球王の代替わりにあたり、中国皇帝の使節が琉球王に送った使節を描いた図。左側が中国船で、右側が琉球船。琉球船は中国使節とともに中国から戻ってきた。ちょうど那覇港に入港するところで、船員たちが忙しく立ち働いている様子も描かれている。

広報画像⑫ 那覇里主・沢岻里主(たくしさとぬし)書状(国宝)15世紀後半~16世紀前半 東京大学史料編纂所蔵

琉球が支配する喜界島に王府の船が向かうにあたり、保護をしてくれたことに対する返礼を伝えたもの。
王府の最重要印である「首里之印」が捺されていることから、王府支配に密接にかかわる船であったと推測される。
漢字とひらがなが混じった文書で、こうした文体が公文書に用いられた。

 

Ⅵ. 中国と日本のはざまで:日本の支配と琉球/東アジア世界の中の近世琉球

隆盛を誇った琉球帝国も、1609年に薩摩の軍事侵攻に屈し、日本の支配を受けるようになります(広報画像⑬⑭)。しかし琉球は中国(明そして清)の皇帝から王に任じられているという誇りを常に持ち続けます。

琉球帝国の征服地であった奄美を薩摩に割譲された分、八重山・宮古への締め付けはより厳しくなりました。しかしその地に暮らす人びとは、抑圧されるだけの存在ではなく、笑顔を浮かべながら日々の生活を営んでいた様子が描かれています。

広報画像⑬ 中山王尚穆(しょうぼく)書状 
18世紀 国立歴史民俗博物館蔵

近世の琉球は薩摩の支配下にはいった。琉球王尚穆が薩摩島津氏に書状を書くにあたり、島津側からは自分たちの書体(御家流[おいえりゅう])で書くよう指示した。この書状もそれに則って書かれており、近世における琉球と薩摩の関係を伝える。

広報画像⑭ 江戸山下御門内朝鮮人登城行列 
19世紀 国立歴史民俗博物館蔵

江戸とその近郊および諸国の名所を描いた泥絵の組物『江戸及び諸国名所泥絵集』の1枚。泥絵は粘土などを顔料と混合した泥状の安価な絵具や合成顔料のプルシアンブルーを使用した絵画で、江戸末期に流行し、江戸の名所・見所(特に大名屋敷)が多く描かれた。本図は「朝鮮人登城行列」とされているが、「中山王府」の赤旗などから朝鮮ではなく琉球使節を描いたものとわかる。

 

 

【展示プロジェクト委員】

■展示代表:展示代表:村木 二郎(国立歴史民俗博物館 考古研究系 准教授)
専門分野 中世考古学
所属学会 史学研究会、日本考古学協会、中世学研究会
学歴 京都大学文学部史学科(考古学専攻)【1995年卒業】
   京都大学大学院文学研究科歴史文化学専攻
   考古学専修博士後期課程 【1999年中退】
   文学修士(京都大学)【1997年修了】
職歴 1999年  国立歴史民俗博物館考古研究部助手
   2007年  大学共同利用機関法人人間文化研究機構国立歴史民俗博物館研究部助教
   2008年10月 大学共同利用機関法人人間文化研究機構国立歴史民俗博物館研究部准教授
主要研究課題 日本中世社会の考古学的研究

 

経塚や石造物などの中世の信仰に関わる研究がそもそもの発端である。考古学はモノを扱う研究のため、経筒や石塔などの製作技法に関心があり、そこから中世の技術全般に興味がわき、技術史の共同研究を実施。それを踏まえて2013年に企画展示「時代を作った技-中世の生産革命-」を開催した。
一方で、国際交流の企画展示「東アジア中世海道-海商・港・沈没船-」(2005年)に関わったことから、海を介した中世世界にも関心が向き、琉球についての勉強を始める。八重山・宮古の歴史は琉球王府の史観で書かれたものに拠っているのに対し、そこには書かれていない遺跡・遺物の世界が現地にあることを知る。そこで「琉球帝国」という視点で共同研究を実施し(中世東アジア海域における琉球の動態に関する総合的研究(2015~17年度)・『国立歴史民俗博物館研究報告』編集中、2021年刊行予定)、本展示を企画。

主な著書に、『中世のモノづくり』(編著)(朝倉書店、2019年)、『中世の職人に関する総合的研究』(編著)(歴博研究報告210集、2018年)、『時代を作った技-中世の生産革命-』(編)(企画展示図録、2013年)などがある。

 

展示チームメンバー

新垣 力  (沖縄県教育庁文化財課)
池田 榮史 (琉球大学国際地域創造学部)
池谷 初恵 (伊豆の国市教育委員会)
岩元 康成 (姶良市教育委員会)
小野 正敏 (国立歴史民俗博物館・名誉教授)
久貝 弥嗣 (宮古島市教育委員会)
黒嶋 敏  (東京大学史料編纂所)
小出 麻友美(千葉県立中央博物館)
佐々木 健策(小田原市文化財課)
鈴木 康之 (県立広島大学地域創生学部)
関 周一  (宮崎大学教育学部)
中島 圭一 (慶應義塾大学文学部)
山本 正昭 (沖縄県立博物館・美術館)
渡辺 美季 (東京大学大学院総合文化研究科)
荒木 和憲 (国立歴史民俗博物館)
齋藤 努  (国立歴史民俗博物館)
田中 大喜 (国立歴史民俗博物館)
松田 睦彦 (国立歴史民俗博物館)