「災害展示」再考 新しいプロジェクト「歴史資料と災害像」の発足に寄せて
  山本 唯人

私の専攻は社会学で、ここ数年をかけて、第二次世界大戦期に実施された東京市の防空政策について研究してきました。「防空」とは、自然災害や通常の火災とは異なる「戦時災害」に備えることを目的にしたもので、「防災」の課題としてはかなり特殊なジャンルに属すると言えるでしょう。しかし、空襲対策は、関東大震災後、旧来的な災害対策のあり方が大きく揺れ動いた時期の非常に大きな政治的、社会的課題であり、近代における災害対策の歴史が書かれる場合には、その帰結である戦災を含めて、欠かすことのできない重みをもっています。

90年代に入って、都市計画史や歴史研究では、この「防空政策」が狭い意味での「空襲対策」にとどまるものではなく、それまでの災害対策のあり方そのものに様々な影響を与えるものであったことが明らかになってきました。この軍事的な非常事態対策としての性格をもつ「防空政策」が、大震災から戦後にかけての近代的な防災体制の成立にどのような影響を与えたのか、これが、僕自身のテーマになります。

このように、「非常事態対策」という側面から災害の問題を追いかけていくとき、近代社会のなかで、「防災」という営みが果たしてきた役割の政治性、あるいは、イデオロギー性ともいうべきものが浮き彫りになってきます。私の意図のひとつも、そのような視点から「防災」という営みのもつ意味を相対化してみることにあります。しかし、「防災」の問題がそれだけに還元されるものでないことも明らかでしょう。私たちが災害状況のなかに置かれる時、「防災」は私たちの生命、経済を支える最も基本的な知識、活動の全体となって立ち現れてきます。私が、「防災」という社会的営みに関心を寄せる本当の理由は、この営みの私たちにとっての身近さ、ある時は、「秩序維持」の方策として機能しながら、同時に、私たちを生かす最も基本的な知恵の集積体でもあるという多義性にこそあります。そうした多義的な要素の絡み合いのなかで、人々の災害経験や防災という営みのもつ意味を浮かび上がらせるやり方を見つけていくことが、災害研究の非常に重要な課題ではないかと考えています。

このようなわけで、私は、今回のプロジェクト「歴史資料と災害像」の発足を非常な期待とともに受け取りました。そこで、寺田匡宏さんから頂いた「展示通信」などを材料に、外部の立場から、しかし、「災害研究」の行方に深い関心を寄せるものとして、若干の感想、期待などを述べてみたいと思います。

まず第一は、地域博物館としての災害展示ということです。

「展示通信」2号のなかで、西谷大さんは、「郷土の災害施設」がもつ強みとして、「関心度がすでにかなり高い点にあること」、立地する環境そのものが「野外博物館」としての機能をもっていることなどを挙げています。この指摘には、そもそも「災害展示」とは何か、という問いに関わる重要な視点が含まれていると思いました。

東京に「復興記念館」という建物があります。1930(昭和5)年、関東大震災で最大の被害を出した被服廠跡(現墨田区横網町公園)に、無縁仏を弔う「震災記念堂」とともに建てられた東京で初めての「地域博物館」としての「災害展示」というべき施設です。この建設に携わった人々の記録、そこに述べられた瑞々しい言葉の数々を見ると、近代日本における「防災科学」の誕生が、同時に「災害展示」の誕生でもあったことがあらためて確認されます。そしてまた、その建物が、現実に数万人の犠牲者を出した場所で、亡くなった人々を悼み、その自然の流れで、災害の事実と復興の歩みをたどり、同時に将来の災害への思いを新たにする、そういう期待を込めて作られたものであることがわかります。ここで、「地域博物館」とは、単なる技法上の問題にとどまらず、「災害展示」という営みの最も基本的なかたちを示したものであるといえるでしょう。

しかし、その展示空間に足を踏み入れると、私たちは、ある時期から「地域」に対して発信するのをやめた、あたかもその場所全体が「石碑」のようになった「災害展示」に出会うことになります。毎年、春季と秋季、「慰霊堂」にはお参りする人々も、復興記念館には訪れません。

あまり気付かれていないことですが、一昨年、「凍結」された「平和祈念館」構想は、この「復興記念館」を「戦災博物館」としてよみがえらせようとしたものでした。思えば、戦災とは、多くの都市にとって現在の市街地を生み出すもとになった近代最大の災害であり、また、戦後改革を通じて生まれる、法制度としての「防災体制」に直接先行する災害でもあります。しかし、「戦災展示」において「究極の目的」とされるのは「防災」よりもむしろ「平和」であり、展示のもとになる資料についても、「災害の教訓」を引き出すことよりも、「人的被害の実態」を丹念に、しかも、個人レベルでの災害経験の記録を数10年にわたって採集し続けるという異例ともいえる志向を、旧来の「災害展示」に対置しています。一度は決定された復興記念館・平和祈念館の「合築案」に、戦災遺族や被害者が反対するという構図は、旧来の「災害展示」の延長では捉えられない出来事を、地域社会の近代が経験してきていることを物語っています。「地域博物館」としての「災害展示」は、身近さゆえの利点だけでなく、こうした「地域の近代」が抱え込んだ苦悩をも一身に抱え込む存在として、戦後という時間を過ごしてきたようにも思われます。

おそらく、「災害展示」という問題を初めて本格的に主題化するこのプロジェクトが、どこかで、こうして、それぞれの地域が抱えてきている「災害展示」の現在を、前に進めるヒントを投げ掛けてくれるものであることを期待しています。

第二に、こうして随所に顔を覗かせる「現在」への視線とちょうど合わせ鏡になるような格好で、強く印象に残ったのが、「歴史災害とは、ここでは、文字による記録のある時代に発生した災害で、近代科学の手法による分析が可能になる以前の災害」という北原糸子さんの定義でした。

私の理解では、このような意味での「歴史災害」の分析には、大きく分けて二つの方向性が含まれます。

ひとつは、「近代科学の手法」によらない種々の災害記録を、「近代科学」の視点から分類、整理、翻訳し、「近代科学の手法」による分析を補完し、充実させる材料として利用するという方向です。私たちは、素材がある限り、このような方法によってどこまでも、そしてどのようにも災害研究の対象を過去に遡り、広げていくことができます。

もうひとつは、その「近代科学以前」の方法によって試みられた災害記録の表現が、同時代的な社会のなかでもっていた意味を浮き彫りにするという方向です。おそらく、北原先生が、「災害絵図の現物を展示」して、「その絵に籠められた当時の災害への眼差しとそれを克服しようとする意志を感じ取りたい」と述べているのは、そのことではないかと思います。  ここで、「災害の社会史」に関わるものが誰でも思い浮かべるのは「鯰絵」のことではないでしょうか。あの何度見ても心が踊ってくるユーモラスで存在感ある図像。しかし、単に見るものを動かすだけでなく、そこに、その時代、その社会に特有の「災害への眼差し」と「それを克服しようとする意志」が読み込まれた時、反対に浮かび上がってくるのは、では、そのような図像を過去のものとしてしか感受し得ない、我々にとっての「鯰絵」とはいったい何だろうか、という問いではないだろうか。ここでの「鯰絵」は、単に近代科学的な視線によって「分析される」対象であるだけでなく、反対に、私たちの「近代科学」がなしとげてきたものは何か、近代社会において「防災」という営みが達成したものは何かと、問いを投げ返してくる存在でもある。

北原さんは、このような作業を、「あるいは理系の研究者には奇異に感じられるかもしれません」と述べています。しかし、この言葉を僕なりにもう一歩踏み込んでいえば、そこには、近代的な手法による「災害研究」や「防災」という営みに回収し得ないもの、あるいは、もっと強く、近代的といわれる理解の枠組みや「防災」という営みのなかに安易に回収してはならないものを見つめる視線があります。それは、近代社会における「災害研究」や「防災」、それに、「災害展示」などが抱え込んできた問題を、ある切り口においては、まるごと照らし出してくれるかもしれない、とてつもない可能性をはらんでいるように思えます。

ここに述べた二つの方向、つまり、「歴史災害」についての記録を、「近代科学的な手法」による分析を補完し、豊穣化する材料として利用することと、「近代科学的な手法」による以外の表現がもつ意味を読み取り、現代社会に提示していくことの間には、「なにをみんなにわかってもらいたいか」という、北原さんのいう最も基本的な問いへの向き合い方の違いという問題がはらまれています。これら二つの立場は、相互に補完しあいながら、時に、相互を批評しあう葛藤をはらんで、折に触れて、このプロジェクトに現れていくことでしょう。「津波工学」と「三陸綾里湾津波語り」と「展示の文法」が、少しずつ力点を変えながら、なおかつ、同じテーブルを共有していること、それらが相互にどんな会話を交わすか、そこにこのプロジェクトの大きな魅力と可能性があるのだと思います。

新プロジェクト「歴史資料と災害像」は、こうした、「これまであまり議論の俎上に乗らなかった」というより、たとえ居合わせたとしても、乗せることのできなかった議論を、このフリースペースを通して率直に語り合い、結論としての「展示」もさることながら、そこへ至る紆余曲折の議論をこそ、記録として残して頂きたいと思います。そのことを通して、それぞれの立場、ジャンルのもつ役割が明らかになり、全体として、災害研究の裾野を広げてくれることを強く期待しています。


山本 唯人 やまもと・ただひと 一橋大学大学院博士後期課程 都市社会学最近の論文に「『東京都慰霊堂』の現在」(『歴史評論』2001年8月号)