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原体験としての空襲研究生活からテレビへ 災害番組と私 災害報道から安心報道へ 展示の役割、報道の役割

今回は、NHKの元解説委員で、ながらく災害報道の番組に携ってこられた伊藤和明さんに災害報道の現場での体験を振り返っていただき、災害報道が現在のように広く関心を持たれるようになってきた経緯を中心にお話しいただきます。(聞き手、北原糸子、寺田匡宏)

原体験としての空襲

●伊藤さん、早速ですが、まず、ご自身の経歴からお話しいただいてよろしいですか。終戦の時はどちらにおられましたか。東京大空襲の時はいかがでしたか。

○小学校は東京麹町の四谷第三小学校ですよ。昭和12年から18年までね。家も学校のすぐ近くでした。3月10日、正しくは9日の深夜から10日の明け方の東京大空襲の時は麻布中学2年生でした。この時は九段坂の東の方は赤くもうもうとした感じでしたが、ラジオはもうダメだったし、何が起きたのかあまりはっきりわからなかった。しかし、避難民が外堀通りを大八車を引いて逃げて来るのを見て大変なことが起きたとはわかりました。その時は四谷や麹町あたりはまだ空襲でやられていなかったですね。
その後、強制疎開で、家は取り壊されることになって一家で八王子へ疎開しました。そこで空襲による大火災を体験しました。目の前に焼夷弾が落ちたのを見たことや、眼下の市街地が燃えているのがまさに火の海だと思ったことなど、東京の大空襲は遠くの火事という感じでしたが、こちらはほんとに大火災の原体験でした。

●大学の理学部へ進まれた動機はなんでしょうか。

○旧制中学から新制中学へ切り替わる時で、中学を5年、新制高校3年に横滑りして翌年昭和24年新制大学第1期生として東京大学教養学部理科?類へ進みました。理科を選んだ動機は、数学が進学適性検査でよい成績だったからということでしたが、小学生のころから天文少年で当時毎日会館(元有楽町そごうデパート)の屋上にあったプラネタリウムで野尻抱影氏の天文研究会に入っていました。それから、もう一つは麻布中学には台北帝大で教えておられた専門家の先生が終戦後日本へ戻られて教鞭をとっていて、その教えを受けたということもあるでしょう。東大理学部での専攻は地学科地質鉱物過程でした。卒論は房総半島の第三紀層の研究です。その後、大学院に進まず、東大教養学部の地学教室の助手になりました。

研究生活からテレビへ

●助手時代のご研究は

○一つは群馬県下仁田の本宿層の研究で、これは古いカルデラ地形に堆積した地層ではないかということ。巨大噴火があってカルデラが形成されそこにあとから第三紀中新世以降の堆積物が堆積した結果ではないかという結論です。もう一つは大島火山です。これは1957年末から59年にかけて、すでに亡くなられた中村一明さんと一緒に調査しました。大島火山の形成史です。ここでの成果の一つは、たとえば火山灰層序学によって波浮の港の地形は9世紀のマグマ水蒸気爆発によって形成されたものだということを実証したことです。のちに天然の良港になったのは、爆裂火口の縁が崩落して海と繋がることになった元禄16(1703)年の地震津波による結果です。

●その後,1959年にNHKに入られますが、どうしてNHKに決められたのですか。また何をされていましたか。

○当時NHKでは教育テレビの拡張期でした。しかし、地学の専門家がいない。そこで地学を専攻していた私に声がかかり、受けてみたのです。
当初は、自然番組を担当していました。ラジオ「自然とともに」やテレビの「自然のアルバム」などのディレクターを任され、野鳥にはずいぶん詳しくなりました。このディレクター時代は科学番組や自然番組を制作するのが仕事でしたが、一般の人にわかりやすい番組を作ることを心がけました。

災害番組と私

●では、災害番組に関わられたのはいつからでしょう。

○1964年のアラスカ大地震と新潟地震の取材がきっかけです。アラスカ地震はM8.4の20世紀最大級の地震ですが、このときはアラスカの現地を取材して番組を作りました。そして、新潟では地震の翌日現地入りして取材にあたり、30分番組の「科学時代」と1時間の「教養特集」を作りました。とくに教養特集は、スタジオからナマで放映した番組でした。この時は液状化で4階建ての県営アパートが倒れたのが印象的です。液状化はこの地震によってメカニズムが明らかになった現象です。当時は地震予知がクローズアップされてきた時代でしたので萩原尊禮先生にスタジオに来ていただいて生放送を行いました。

●その後、本格的にどのように番組の中で地震や地学を取り上げられましたか。

○1974年の伊豆半島沖地震と関東大地震50年(1973)という二つの報道が印象的ですが、当時は日本列島が静かだったのであまり災害報道は行われなかったかもしれません。ただこのころ印象的なのが「関東活断層騒ぎ」と「川崎地震騒ぎ」です。「関東活断層」というのはランドサットの映像を見ると銚子あたりに抜ける東西に伸びた活断層が見えるというのです。これは幻だったようですが、関東大地震50年で何か起こらないとおかしいような雰囲気があったからかもしれません。
「川崎地震騒ぎ」の方は当時川崎市街地が異常に隆起し、地震予知連が地震の前兆かもしれないといったというので騒ぎになりました。地震予知連は「もしこれが前兆ならM7クラスの地震が起きても不思議ではない」といったのですが、一般には「もし」が抜けて伝わってしまった。結果的にいうとこれも地震の前兆ではありませんでした。川崎では工業用水用の地下水の汲み上げで地盤沈下が起きていましたが、それが禁止になり、反動で地盤が隆起したのです。そのことを番組で取り上げると騒ぎは沈静化しました。この報道を通じて世論をどう向けるかという課題と安心報道は大切だということを痛感しました。

災害報道から安心報道へ

●その後、1977年には有珠山が噴火していますがこの時はどうだったのですか。

○この時はチーフディレクター時代でセスナ機で現地まで飛びました。噴火が8月7日。8月13日には生放送でNHK特集を放映しました。この時私が番組の中で「有珠山では江戸時代に熱雲が出た」とコメントして混乱が起きたことがあります。熱雲とは火砕流のことです。それを発表するとパニックになるということも考えましたが、歴史的事実を知らせることが必要だと私は判断したのです。ここでも報道と世論の関わりを考えさせられました。

●一般に災害報道は被害報道から防災報道へといわれていますが、さらに安心報道に力点が移ったと考えてよいのでしょうか。

○そうです。たとえば、1985年にはメキシコ地震、1989年にはサンフランシスコ、ロマプリータ地震がおきていますが、どれも被害の惨状ばかりを取り上げあたかも全域が壊滅したような錯覚に陥らせました。しかしロマプリータ地震の時私は出演した生放送のテレビ番組で「映像を見ると市街に電灯がついている、だからサンフランシスコは壊滅しているわけではない」とコメントしました。被災地には日本人もたくさんいるのでそういう言い方をしたのです。センセーショナルに取り上げるのではなく、全体像を的確に捉え余震に対する注意などを放送する方が安心報道になるのです。

●そのほかに災害報道の変化はありますか。

○先ほどもいいましたが、まず生中継が世界で可能になったことでしょう。80年代に大きな変化がありました。1980年のセントヘレンズ火山の噴火の時はフィルム取材をして、2ヶ月後にやっと番組を放映していました。しかし1985年のメキシコ地震では,VTR取材をして、現地から衛星回線を使って映像を東京に送り、取材班が現地にいるうちに特集番組が放映されました。情報の迅速性は高まりました。しかし一方で、ある意味で仕方がないことですが確実性は失われたかもしれません。

それからもう一つはアフターケアをやるようになったということです。ソフト面に注目した番組が作られるようになりました。今回の三宅島噴火でも避難した人の生活ぶりが報道されています。これは阪神大震災以来ではないかと思います。

展示の役割、報道の役割

●伊藤さんは立山カルデラ砂防博物館や伊豆大島の火山博物館名誉館長にもなられていますが博物館についてはどうですか。

○火山博物館は1986年の割れ目噴火、全島避難の翌年構想が持ち上がりました。ちょうどバブル期で、東京都が10億円、町が5億の起債で完成しました。行政も資金豊富で、地層のはぎ取り断面など目玉資料をそろえることができましたが、現在は展示替えなど、とても予算がなくて考えられない状態です。また、体験談などを通じて生活再建や地域の復興の問題を取り入れることも必ずしもうまくはいっていません。この点は今度神戸にできる「阪神・淡路大震災メモリアルセンター(仮)」の委員をしていますので、こちらで実現させたいと思います。

●では防災にとってメディアの役割とはどういう位置づけになるのでしょうか。

○「平和なときに自然をどう認識しておくのか」に尽きると思います。阪神・淡路大震災が起きましたが、まさか神戸で地震が起きるとは思わなかった、という人がほとんどでした。しかし、私は神戸市消防局広報誌『雪』(1989年1月号)で、六甲山の生成の歴史を考えると活断層の活動の累積による隆起であり地震の起きるときに向かって確実に近づいている、と言っていました。しかしその提言は生かされませんでした。やはり日常の認識を変えることをメディアは考えるべきではないでしょうか。

●ありがとうございました。

(2001年8月29日、東京山王の防災情報機構事務所にて収録)


伊藤 和明 いとう・かずあき 元NHK解説委員 防災情報機構理事 共同研究「歴史資料と災害像」第2回研究会ゲストスピーカー 著書に『地震と火山の災害史』