このページの目次
1. 日本の津波研究2.「津波」という名称3. ”tsunami”の語の英語圏への定着4. 歴史津波の研究参考文献

1. 日本の津波研究

津波の大部分は海で発生した大きな地震に伴って起きる。環太平洋の地震帯で起きる地震による津波が、地球全体で起きる津波のおよそ8割を占めている。したがって、日本をはじめとして太平洋周辺に位置する国はすべて、津波の常襲国である。津波の研究の国際的な牽引役をになってきた国は、日本、アメリカ、ロシアの3国である。

津波の国際学会は、かってはIUGG(国際地球物理学測地学連合)総会の付属行事として津波のシンポジウムのセッションとして開催され、およそ4年に1度の大規模な国際津波研究の発表会がなされていた。現在は津波のみの研究発表会が毎年1度は何かのかたちで開催されるようになり、そのたびに日本からも津波の研究発表がなされている。日本は、アメリカ、ロシアとならんで津波研究のベストスリーをになう国のひとつになっている。

日本の津波研究が世界に誇りうるものが5つある。1つ目は1000年以上にわたる豊富な津波の歴史記録、2つ目は海岸線に密に配置された検潮所などによる津波観測データの豊富さ、3つ目はわが国内外に起きた津波の調査実績の量、4つは緻密な、あるいは大規模な数値計算、そして5つ目に気象庁等の長年の努力によって得られた信頼性の高い津波警報システムである。

このうち、最初にあげた歴史地震記録についていえば、わが国は1300年あまりに亘る年代に起きた津波の歴史記録を持っている。1880年以前におきた津波を「歴史津波」と呼ぶことにすれば、わが国の津波事例は近地の歴史津波記録を58件(渡辺、1985、都司、1987)、南北米大陸から伝わってきた遠地の津波記録を9件(渡辺1985、都司ら、1999)の、合計66件の歴史津波記録を持っている。ロシアは1737年のカムチャッカの津波を最古の記録として、約260年間の記録を持っている。アメリカは19世紀初頭以来わずか約200年の記録しか持っていない。これらに比べ、日本が津波の歴史記録の面でいかに大きな貢献をしているかがわかる。なお、中国および韓国・朝鮮は、地震や天文・異常気象現象などに関して、わが国を上回る古い記録を蓄積した国であるが、津波がこの両国を襲った例は少なく、両国合わせて、総数はわずか15例ほどにとどまる。したがって、中国、韓国は歴史津波の記録を数多く提供する国とはなっていないのである。

2.「津波」という名称

津波は地震や火山噴火などによって起きる海の波であると定義されているが、我が国での最も古い津波の記事は「日本書記」の天武天皇12年(684年)の白鳳南海地震による津波である。「大潮高謄、海水飄蕩」と表記されており、これは「海水が高く立ちのぼり、漂い流れた」という文章であって、「津波」という言葉は使われていないが、地震とともに記録されており、確実に津波を記録したものと認められる。

古代の近畿朝廷の一連の正史である「六国史」の最後のものである「三代実録」にも、850年の出羽国の、869年の陸奥国の、887年の大阪湾のそれぞれ津波の記事があるが、原文はそれぞれ、「海水漲移」、「海水暴溢、驚濤涌潮」、あるいは「海潮漲陸」であって、古代にはまだ「津波」という言葉は現れていない。

鎌倉、室町時代の記録にも、「大波浪」(「中右記」)、「大山のごとくなる潮」(「太平記」)、「大塩」(「外宮子良館記」、1498年)などであって、中世にいたっても津波を指す言葉として定着したものはなかった。

江戸時代に入って慶長9年12月16日(1605年2月3日)には関東・東海・南海地方の海岸は大きな津波に襲われた。このとき土佐国(高知県)佐喜浜の談議所に滞在中の僧・阿闍梨暁印はここで津波に遭遇したが、彼が津波直後に書き残した「置文」のなかに「十二月十六日之夜地震す。其夥夜半に四海波の大潮入りて」という文が現れる。ここで津波のことを「四海波の大潮」と表現している。またこの津波のとき、伊勢国(三重県)桑名宿の船場町に住んでいた太田忠右衛門の記した「慶長自記」にも「四海浪打ちて熊野浦関東在所数多く人馬死」と書かれていて津波を「四海浪」と表現している。この土佐と伊勢という離れた場所で記された両文書に共通して現れる「四海波(浪)」という言葉が、どうやら津波を意味する江戸時代初期の言葉であろうと推定される。ただし「四海波」という言葉は、多くの人によって広く使用された言葉ではなかったことは、この津波の直後に書かれた他の文書(たとえば徳島県宍喰の円頓寺の僧宥慶が津波翌日に記した文など)に現れないことから明らかである。この関東から四国にかけての津波にたいして当時書かれた文献の中には「津波」と呼んだという例は見いだせない。

「津浪(波)」という言葉が確認できる最古の文献は、慶長16年10月28日(1611年12月2日)の慶長三陸地震の前後の年代に、徳川家康側近の人物によって日記体で書かれた「駿府記」の「政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」という文章である。慶長16年(1611)年当時、津浪という言葉が世間一般に通用し始めていたことを物語っている。これ以後、津浪という言葉は地震によって引き起こされた波を意味する言葉として定着していく。

元禄12年12月8日(1700年1月27日)の夜半、北米Cascadia断層の活動による大地震が引き起こした津波が太平洋を横断して日本列島を襲った(都司ら、1999)。このとき、宮古市津軽石、大槌、清水市三保、紀伊田辺などで津波が記録されているが、宮古と清水では「地震がないのに津波が来た。不思議である」ということを記した文書が残っている。津波は地震によって引き起こされることが正しく認識されていたのである。

被害を起こさない程度の小さな津波を「すず波」、「よた」、あるいは「あびき」と記された例があり、一部は現在でも方言として残っている。

台風など優勢な低気圧によって引き起こされる海水位の上昇は現在では「高潮」と呼ばれ津波とは区別されるが、江戸時代の近世文書ではしばしば高潮も「津浪」と書かれることがあった。津波の漢字表記として「津浪(波)」のほか、「海立」、「震汐」、「海嘯」なの表記が江戸時代には現れ、すべて「つなみ」と読まれていた。

「海嘯」が中国で伝統的に津波を表したものだ、とするのは誤りである。中国では1509年に南直隷省嘉定県(上海市)に、1668年7月25日に江蘇省に、1670年8月19日に江蘇省に、1867年12月18日に台湾の基隆に津波があったが、これらの津波の中国の記録上の表記は「海水沸騰」、「海溢」などであって、「海嘯」の表記を津波に使用した例は1867年以前には一つもない。中国語では「海嘯」は「うみなり」を意味する(「諸橋漢和大辞典」)。「海嘯haixiao」は現代中国語では「津波」を意味するが、そのようになったのは、「銀行」、「経済」、「哲学」などと同じく近代になってから日本ら輸入した漢字熟語として、現代中国語に定着したものと推定することができる。

李朝朝鮮の正史である「李朝実録」には津波、高潮はつねに「海溢(ヘイル)」と表記された。

3. ”tsunami”の語の英語圏への定着

英語圏では、津波は伝統的にはtidal wave と呼ばれている。しかしtidal waveとは太陽と月によって引き起こされる天文潮汐(汐の干満)のことであって、地震によって引き起こされる津波とは異なるため合理的な呼び方ではない。このことは、英語圏の科学者も気づいていた。それで、科学用語としてはseismic sea waveが使われていた。

ところが1946年4月1日の朝、アリューシャン列島で起きた巨大地震による大津波がハワイ列島を襲った。このときの津波でハワイ諸島全体で173人の死者を出した。ハワイ島のヒロ市は日系人の多く住む町であるが、この町の「Suisan(すいさん)」と呼ばれる魚市場地区や、「Shinmachi(新町)」などの地区も津波で壊滅した。このときからそれまで日系人だけが使っていたtsunamiという言葉が、ハワイの地方紙に用いられ、それ以後英語としての市民権を持ち始めた。1968年に米国の海洋学者Van Dornがtsunamiを正式な学術英語とすることを提案し、それ以後英語圏にtsunamiの語が急速に定着した。現在では、ロシア語・スペイン語等も含め汎世界的に通用する語となっている。

4. 歴史津波の研究

4-1古記録による津波浸水高さの推定

歴史記録の中から、地震やtsunamiや火山活動に関する文章を集め、年代順に整理して刊行物として発行する仕事は、明治期に田山(1904)によってはじめられ、第2次世界大戦の前後武者(1941-43、1949)による「増訂・大日本地震史料」など全4冊の地震史料集の刊行によってひとまず完成した。さらに、東京大学地震研究所の宇佐美龍夫、上田和枝らの膨大な努力によって、「新収・日本地震史料」の形で全5巻、別巻、補遺編、続補遺編までを合わせて、全23冊、印刷ページ1万6千ページにのぼる史料集として刊行された。

このように、原記録の活字刊行された史料の中から、津波記録を抜き出し、現地照合を行って津波による浸水高さの分布を推定する研究は、筆者を含むいく人もの津波研究者によって手がけられているが、なかでも羽鳥徳太郎が永年にわたる研究は特筆に値する。

古記録から、津波の高さを推定する作業手続きをやや細かく分類すると、
(1)古記録そのものに津波浸水高さを記してあるもの。
(2)古記録に津波浸水点の記載のあるもの。
(3)津波による市街地の浸水、家屋の流失・破損、人の死傷記事から間接的に津波浸水高さを推定しうるもの。
などがある。

(2)のような記載があると、そこに記載された浸水点が現在の地図上のどこに相当するかを現地照合し、水準測量器械によって浸水標高が措定される。多くの場合津波の浸水高さの精度は10cm単位で十分であるから、土木工事に使うような精密な水準器を用いなくても、携帯型のハンドレベル(気泡官付きの小望遠鏡)で十分である。

(3)にかんしてしていえば、羽鳥(1984)は、木造家屋の流失と、その場所での地上冠水の海水の厚さの関係を求めている。それによると、地上冠水厚さが2mを越えると家屋は完全流失し、1m前後だと、大破、全壊、流失が混じり合い、50cm以下だと家屋はほとんど被害を受けず、ただ浸水にとどまるとされる。古記録には、集落別の家屋被害数や、人の死傷の数字が記録されていることが多いが、このような数字によっても、およその津波浸水高さを推定しうるのである。

田畑の浸水記事は、年貢の変動が絡むので、記録に残りやすいが、どの田が浸水したのかの推定が難しく、なかなか津波の浸水高さという客観的な数字に翻訳するのが難しかった。岩崎(1991)は、安政南海地震の津波の阿波国(徳島県)日和佐村の浸水田の特定を試み、津波による浸水高さの推定を行っている。また、都司(1999)は寛政4年(1792)長崎県島原の眉山の溶解に伴う有明海津波の際の、島原半島にわずかに存在する佐賀藩領飛び地の浸水面積史料から、浸水高さを推定した。このような試みは、まだなされた研究例がこの2例にとどまるといってよいほどであるが、津波浸水高さの客観数値の推定に有力な手段である。 なお、津波による田畑浸水の記録の一形態として「鍬先記録」と呼ばれる一群の記録がある。これは津波で一度荒廃して、失われた田畑は、数年、数十年を経て、塩気が地層から抜け、再び耕作地とすることができるようになると、もとの田畑のあった場所に「新田開発」がなされる。安政東海地震(1854)の津波の後に、このように田畑が復興されたことを示す史料が三重県尾鷲の「大庄屋文書」に数多く見いだされる。「鍬先帳」と表紙に記されたこのような証文は、いまのところ集積されただけで、研究材料とはされてはないが、これらも有力な津波浸水高さの推定史料となろう。

地方(ぢかた)文書ではない研究の例に、寺院過去帳の死者記載を丹念に集める研究がある。寺院過去帳による死者の記載から津波の被害規模を推定する試みは、筆者(1992)も安政東海地震の静岡県平野部について行ったことがある。津波に関しては、菊池(1985)によって手がけられており、島原大変津波の熊本県側の集落別被害の把握に大きな貢献をなしている。

4-2古記録以外の歴史津波研究

文字で書かれた古記録以外の材料も、歴史時代、先史時代の津波の研究に動員される。その1つが、「口頭伝承」である。津波の場合には、あの寺院の山門前の石段の下から5段目まで海水が上がったと伝えられている、というような形で現代に情報が遺存している例が多い。このような口頭伝承には古文書記録に準ずる信頼性の認められるものが多い。浸水位置の記録(階段の何段目など)は、印象深く住民の間に伝えられるのであろう。

これとは別に、津波によって、海岸にあった石が内陸に運びあげられたものを「津波石」というが、明和の八重山津波による沖縄八重山諸島の津波石の調査は、永年に渡って加藤(1986)によって行われている。

最近では地質学的な堆積物の研究によって過去の津波の様子を知ろうというこころみがなされつつある。このような研究はわが国では(1)湖底堆積物、および(2)海岸堆積物によってなされている。

(1)「湖底堆積物」による津波研究とは、海岸近くにある閉じた湖の湖底には、津波の時だけ外海から突如として海水が浸入するという条件にある湖で有効である。すなわち、このような湖には、津波の時だけ外洋産の生物(貝類)や外洋の砂の薄い層の縞模様が湖底堆積層に刻まれる。筆者ら(2001)は、最近、尾鷲市大池の湖底堆積層中に、いまから2500年前までの堆積層中に、9個の津波事例を検出した。

(2)は北海道の十勝平野の海岸崖上堆積物に津波堆積層が見いだされた例(平川ら、2000)、海岸砂丘中にレンズ状に津波堆積物が見いだされた例(西村、2000)をあげることができる。

わが国では行われた例はないが、木の年輪の異常に注目して、過去の津波の検証を行う試みがロシアの研究者たちによってなされている。

参考文献

  • 羽鳥徳太郎、1886、文化元年(1804)象潟地震の震度、および津波調査、歴史地震、2,153-168.
  • 羽鳥徳太郎、1984、津波による家屋破壊率、東京大学地震研究所彙報、52,407-439.
  • 平川一臣、中村有吾、原口強、2000,北海道十勝沿岸地域における巨大津波と再来間隔、-テフラと地形による検討・評価-、月刊地球、号外28,154-161.
  • 岩崎伸一、1991,徳島県日和佐町に おける安政南海津波の痕跡高-奥河内村田地大地震に付き潮入御鍬下石寄からの推定-、歴史地震、7,57-68.
  • 加藤祐三、1986,八重山地震津波の遡上高、歴史地震、2,133-140.
  • 菊池万有、1985、過去帳で見る地震被害、歴史地震、1、125-134.
  • 武者金吉、1941-1943、「増訂・大日本地震史料」(全3巻)、文部省震災予防評議会.
  • 武者金吉,1949,「日本地震史料」、毎日新聞社.
  • 西村裕一、鈴木正章、宮地直進、吉田真理夫、村田泰輔、2000,北海道渡島半島、熊石町鮎川海岸で発見した歴史津波堆積物、月刊地球、号外28,147-153,.
  • 田山 実、1904、「大日本地震史料」、震災予防調査会報告、46,甲pp606、乙pp595.
  • 都司嘉宣、1987、小津波の記録、歴史地震、3,220-238.
  • 都司嘉宣、1992、「富士山の噴火」、築地書館.
  • 都司嘉宣、上田和枝、佐竹健治、1998、日本で記録された1700年1月(元禄十二年十二月)北米巨大地震による津波、地震、2、51,1-17.
  • 都司嘉宣,村上嘉謙、1998、寛政4年(1792)眉山崩壊による有明海津波の島原半島側の津波浸水高、原案海洋、号外15,160-167.
  • 都司嘉宣、五島朋子、岡村真、松岡裕美、韓世燮、2001,三重県尾鷲市須賀利浦の大池の湖底堆積層中の歴史・および先史津波痕跡、津波工学研究報告、18,東北大学大学院工学研究科災害制御研究センター、11-14.
  • 東京大学地震研究所、1981-1993、「新収日本地震史料」、5巻、合計23冊.
  • 渡辺偉夫、1985、「日本被害津波総覧」、東京大学出版会、pp263.

都司 嘉宣 つじ・よしのぶ 「歴史資料と災害像」共同研究委員、東京大学地震研究所助教授、地震学