「昭和8年のネ、3月3日、まンず、午前2時か3時頃だと思いますが、そン時は小雪が、まンず、ちらついていたんですがネ。」

6月だというのに、こたつの中に足を入れた老人は、後ろに控えるこの家の若い奥さんの入れた熱い茶をゆっくりと飲んで喉をしめらせ、アアッと大きな咳払いをすると、語り始めた。鉈で太い流木に何かを刻みつけるように、一語一語確かめながら、しかしよどむことのない太い声が言葉を刻む。

「まずね、大きな地震がやってきたンです。で、私らは驚いてしまって、そしてはだしで、コノ、外に出て、そして、屋根を眺めてたんです、しばらく、しばらく。まず、長い地震でごわしたからネ。それから、やっと、地震がおさまったもンですから、また家の中に入って、寝床に入ったんです。」

我々は明治29年の津波の高さを確かめに来たのだった。明治29年三陸地方を襲った津波は綾里湾・白浜で最高38.2mの高さを記録した。明治以降日本で発生した津波の最高記録だという。その場所が小高い峠であることは事前に調べがついた。

「ところがまもなく、また、揺り返しがして、そうしているうちに、ずーッと向こうの方で叫び声がしたんです。そんで、まンず、私らも急いで、まず、この坂を逃げたんでごわす。この上の方にネ。」

老人が語り出したのは明治29年の津波の話ではなかった。三陸は過去何度も津波に襲われている。近代に入ってからでも、明治、昭和、チリ津波と大きな津波が3度来襲している。昭和8年3月3日2時31分、三陸はるか沖を震源とする地震によって引き起こされた津波は、その30分~1時間後、北海道から三陸の沿岸を襲った。
「ところが、その、いち早く波の方は、こう川沿いを伝わって上ってネ、あのー、途中に一軒家があったんですが、その屋根をがっぽり、真っ黒くなってかぶって、そして私は、この膝くらい下の方まで波をかぶったンだす。そして、どーやら、こーやら、逃げ失せたんでごわす。」

白浜は小さな村である。300メートルほどの海岸線のうしろの平地は家一軒と田を一枚ずつ並べれば終わってしまうほどで、そのすぐ後ろは山である。浜の中央には川がある。津波はその川をさかのぼり、逃げ道を前方から襲った。

「まあー、今、畑になってるが、ここの下でごわすがね、まず、ソノ、被害者は集まって焚き火をしていました。」

2年前に新築したという家は、檜の香りが真新しい正面に破風のついた堂々たる2階建てである。よく磨き込まれた縁側からは、青々とした田圃が広がり、それが海の方に段々になって下ってゆくのが見える。

「私の家はまず、うーっと、二親も来ないし、……弟も来ない、妹も見えないんだす。それで、しばらくたってから、私は心配でわかんないから、また、下の方サ下がったンです。尋ねサ」

明治44年生まれと言うから今年で90才ということになる。当時、漁業を営む22才の青年だった彼は妻と両親、一人の弟と4人の妹と、海岸近くに住んでいた。

「ところが、うちの母親は、頭から血みどろになって、裸になって、泣きながら上がってきたンだす。そんで、私は袷と浴衣を着て、それから麻裏の草履を履いていたのでごわすから、袷を脱いではかせて、草履を脱いではかせて、上にあがって火にあててそれから、親類の家が一軒残っていましたから、そこに連れていって夜を明かしたんです。」

当時綾里村白浜の戸数は42戸、人口は312人、そのうち死者・行方不明者は66人、流失家屋33戸の被害を出した。

「まずその惨たるものや、ひどい状況でごわした。庭でけが人がうなっていたり、まンず、目もあてられない災害でごわした。……それから……、ここで何人くらい亡くなりましたかねえ……。ここでまず全滅なった家もありますがねえ……」

旅の途中で出会った老人の津波語りである。語られなかったことは何か。母親が泣きながら坂を登って生還してきたことは物語の中に組み込まれている。しかし、身重の彼女が脱出するのを手伝いながら、ついに自らは坂を上がることができず津波にのまれてしまった父親と弟、十歳の妹のことはどうか。
68年を経て、未だなお、そのことは語れない。「弟も来ない、妹も来ない」と語るときの、声の震えとためらい、沈黙、その背後にあるものに私たちのことばは届くことができるだろうか。

※本稿は、2001年6月30日実施した三陸町在住村上亮之進氏(90)へのインタビューをもとにしています。


てらだ・まさひろ 「歴史資料と災害像」共同研究者。国立歴史民俗博物館COE研究員。歴史学。