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開催概要関連の催し

開催概要

ハワイ:日本人移民の150年と憧れの島のなりたち
開催期間2019年10月29日(火)~ 12月26日(木)
開催期間 2019年10月29日(火)~ 12月26日(木)
会場 国立歴史民俗博物館 企画展示室A・B
料金

一般:1000(800)円 / 大学生:500(400)円
小・中学生、高校生:無料 /( )内は20名以上の団体 

※総合展示もあわせてご覧になれます。 
※高校生及び大学生の方は、学生証等を提示してください。
(専門学校生など高校生及び大学生に相当する生徒、学生も同様です)
※障がい者手帳等保持者は手帳提示により、介護者と共に入館が無料です。
※博物館の半券の提示で、当日に限りくらしの植物苑にご入場できます。また、植物苑の半券の提示で、当日に限り博物館の入館料が割引になります。

開館時間 9時30分~16時30分(入館は16時00分まで)
※開館日・開館時間を変更する場合があります。
休館日 月曜日(休日の場合は翌日が休館日となります)
主催 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館、
国立国語研究所
協力 ハワイ大学マノア校図書館、Hawaii Times Photo Archives Foundation、ハワイプランテーションビレッジ、ビショップミュージアム、スタンフォード大学フーヴァー研究所 ライブラリ&アーカイブス ジャパニーズ・ディアスポラ・コレクション、JICA横浜 海外移住資料館、天理大学附属天理参考館、東京大学史料編纂所、日本ハワイ移民資料館(山口県周防大島町)
後援 ハワイ州観光局
 
協賛 UCC上島珈琲株式会社

本展のみどころ

  • 日本人移民150年の歴史、交流史からディープなハワイを再発見、再認識します。
  • 日本人以外の移民にも焦点をあて、多文化の衝突と共生、エスニックマイノリティなど、今日の社会においても重要で普遍的な課題に向き合います。
  • ハワイ大学、スタンフォード大学など海外の歴史資料、国内の移民関係コレクションなど、ハワイ移民に関する多彩な資料を展示します。
  • 太平洋戦争の影響を色濃く受けたハワイの社会。その社会を構成したさまざまなルーツを持つ人びとがそれぞれの立場から戦争と向き合った当時の様子を知ると同時に、移民にとって国家とは何か、人びとにとって戦争とは何か、といった根源的で普遍的な問いを見つめ直します。

展示構成

ポリネシアン・マイグレーションからハワイ王国へ

ポリネシア人が、太平洋の中央にあるハワイ諸島にたどり着きました。これが、考古学調査によって明らかになった、ハワイへの最初の移住者とされています。時代を大きく下って1778年に、イギリスの海洋探検家ジェームズ・クックが、西洋人として初めてハワイに到達しました。その後、ヨーロッパやアメリカからの船が頻繁に来島するようになりました。

そして、1795年にカメハメハ一世(大王)がハワイ王国を建国、1810年にはハワイ諸島を統一しました。初期のハワイ王国は、国家としての独立を保ちつつも、次第に諸外国の介入も受けるようになっていきます。

ここではまず、ハワイのそもそもの成り立ちをたどります。

元年者(がんねんもの)の時代

1868年6月20日、約150人の日本人が労働者としてハワイに上陸しました。この年、日本は明治に改元したため、彼らは「元年者」と呼ばれるようになります。このときの渡航については、徳川幕府が駐日ハワイ領事ヴァン・リードの求めに応じて渡航印章(旅券)を発行していましたが、成立直後の明治政府は出航を認めませんでした。このため、「元年者」たちは無許可の状態で出航しました。このような経緯や、ハワイでの労働環境の厳しさを訴えた「元年者」の求めなどから、1869年、明治政府は使節を派遣し、帰国のための交渉にあたらせました。翌年、希望者42人が帰国しました。ハワイに残った人びとは、3年間の契約満了ののち帰国したり、アメリカ合衆国本土へ転航したりした人のほか、ハワイで生活し続けることを選んだ人びともいました。

元年者の名簿 1871年 ハワイ州立文書館蔵 東京大学史料編纂所提供

 

「官約移民」のはじまり

ハワイのサトウキビ・プランテーションで働くアジア人労働者の主力は、もともと「苦力」と呼ばれる中国人でした。ハワイ王国は、1880年代半ばに中国からの移民を大幅に制限する一方で、新たな労働力として日本人移民の送出を日本政府に要請しました。こうして両政府公認のハワイへの集団労働移民である「官約移民」の送出が1885年に始まりました。ハワイに渡航した人びとは、慣れない環境に戸惑いながらも、プランテーションでの労働に従事しました。移民とはいえ、彼らは3年契約のいわば出稼ぎ労働者であり、契約期間終了ののちには、帰国を選ぶ人もいれば、ハワイに定住する人もいました。ハワイ王国滅亡までに、約3万人が渡航しました。1894年にハワイ共和国が成立した後も、移民送出を担う日本の民間会社を介して「私約移民」としての渡航が続きました。

大槻幸之助とロバート・アーウィンの約定書 1885年  JICA横浜 海外移住資料館蔵(大槻幸之助資料)

1885年に最初の「官約移民」として出国する際に作成した約定書。渡航費用は不要であること、3年間の契約で労働することなどが定められている。労働時間は、1ヶ月当たり26日間、1日の労働時間は耕地の場合10時間、砂糖製造所の場合12時間、職場への往復の時間は労働時間に算入するとされている。

 

外交史からみる日本とハワイ王国

太平洋の島国であるハワイと日本は、どちらも19世紀に西洋諸国との接触によって大きな変化を迫られ、存亡をかけて立憲国家への道を歩み始めました。約半世紀ほど先行して西洋諸国との関係を築いていたハワイ王国は、日本との条約締結を求めていました。江戸幕府との間にも条約交渉は行われていましたがこれは締結に至らず、明治政府になってから、元年者の渡航をひとつのきっかけとして、改めて検討や交渉が進められました。そして1871年に、日本とハワイは日布修好通商条約を締結し、両国間に正式な国交が樹立されました。その後、1885年から、日本政府公認の集団移民である「官約移民」の渡航が始まります。1894年にハワイ王国はハワイ共和国にとってかわられ、1898年にハワイはアメリカ合衆国に編入されました。以後、日本とハワイの関係は日米関係に大きく規定されることになります。

日布渡航条約批准書交換についての全権委任状と交換証書
1886年 ハワイ州立文書館蔵/東京大学史料編纂所提供

1886年3月6日、渡航条約の批准書はホノルルで交換された(左)。右の文書は、カラカウア王から事前にウォルター・ギブソン外相へ与えられた全権委任状(内相副署)である。日本側安藤太郎総領事は、榎本武揚のもとで箱館戦争まで戦った旧幕臣であった。

外務大臣大隈重信よりハワイ国弁理公使アーウィン宛書簡
1898年 外務省外交史料館蔵(アーウィン関係文書)

1898年8月1日、ハワイ共和国ドール大統領は、アメリカへの併合により日布間の外交関係が消滅することを通知する親書を送った。8月12日、アメリカは正式にハワイ併合を宣言しており、アーウィン公使の問い合わせに対して、大隈外相は、9月29日に明治天皇への謁見と親書受理を行うことを回答した。

 

アメリカ合衆国による併合と「自由移民」時代

1898年のアメリカ合衆国によるハワイ併合ののち、1900年からアメリカの法律がハワイに適用されることになりました。既にハワイに対するアメリカの支配力は強まっていましたが、この併合によってハワイ王国は名実ともに消滅させられることになりました。

日本人移民をとりまく環境は併合で大きく変わり、それまでの「官約移民」や「私約移民」のような契約移民は、アメリカの法律により非合法となりました。そして、移住者個人の意思によって移住する形をとる「自由移民」時代が始まりました。

同じ時期に、日本からハワイへの移住者のみならず、日本人移民の子孫も増え、ハワイには日系人社会が形成されていきます。日本人・日系人の増加はアメリカ本土でもみられ、これがアメリカにおける排日運動の背景にもなりました。

20世紀のハワイの日系人の営みに、「アメリカ合衆国」が影を落としていくことになります。

ハワイ共和国を承認する国書  1894年10月6日
ハワイ州立文書館蔵/東京大学史料編纂所提供
ハワイ併合時のイオラニ宮殿
1898年8月12日 ハワイ州立文書館蔵

 

コーヒー農園の世界

ハワイ島の「コナ」という地名は、日本では、コーヒーの産地、さらには観光地として、比較的よく知られています。そのコナの、ホテルなどが立ち並ぶ地域から少し離れた山の斜面に、コナコーヒーの農園が広がっています。コナでコーヒーの生産が本格化したのは20世紀に入ってからで、当初、その担い手の多くが日本人移民でした。

コナのコーヒー農園が、サトウキビ・プランテーションなどと大きく異なるのは、基本的には規模の小さなコーヒー農家により営まれていたという点でした。コーヒー農園で労働者として働くケースもあったとはいえ、多くの日本人移民やその子孫たちが、経営者としてコーヒー生産を担ってきました。

コーヒー生産の担い手は多様化しつつありますが、今日でも多くの日系人が、この地のコーヒー生産を支えています。

コナのコーヒー農園 作業風景 2019年6月 川村清志撮影

焙煎機(立体窯付、手廻し) UCCハワイ蔵
コーヒー農園を営む農家が自家用に用いていたもの。

 

街のなかの日本人・日系人

サトウキビ・プランテーションでの契約労働を満了したあと、ハワイ定住を選んだ日本人は、1890年頃から次第にホノルル市をはじめとする都市部に移り住むようになりました。そうしたなか、ダウンタウンの西側のアアラ地区に、日本人街が発展していきます。また、ダウンタウンの東側のカカアコ、マッカリー、モイリリ地区などには、キャンプ(貸家・貸ルーム、英語ではテネメント)を核として、日本人の集住地も形成されていきました。

日本人が経営する商店は当初、理髪店、玉場(ビリヤード)、薬店など種類が限られていましたが、日本人の経済的な成長や、二世の職業の多様化に伴い、1930年頃になるとレストランやベーカリーのほか、靴、宝石、家具といった店も見られるようになりました。

福寿食堂(アアラ地区)
Hawaii Times Photo Archives Foundation提供

おいしい天ぷらと大きなかまぼこで有名。

モイリリマーケット(モイリリ地区) 1938年6月18日
Hawaii Times Photo Archives Foundation提供

日米食料雑貨と和洋酒類を扱っていた。この建物は現存している。

 

日本語学校の教育

日本人社会の形成により、アメリカ合衆国の公立学校に通っていた多くの子どもたちは、放課後に日本語学校に通うようになりました。1896年に、ホノルルで最初の日本語学校が牧師の奥村多喜衛によって設置されました。日本語学校では、読書、習字、作文、修身など、日本の小学校で開講されていた科目がそのまま教えられました。教師の多くは日本からやってきた人たちで、教科書は、最初は国定教科書が用いられていましたが、後に、布哇教育会や浄土真宗本願寺派(西本願寺)本派本願寺学務部などが独自に教科書を編纂するようになりました。現在残っている教科書には、児童たちが授業中に教科書に書き込んだ手書きの情報が多く残されています。

ワイアケア日本語小学校 1903〜04年頃 
JICA横浜 海外移住資料館蔵(大槻幸之助資料)

日本語読本 尋常科用 巻一 布哇教育会
1925年 ハワイ大学マノア校図書館蔵
(アジアコレクション ハワイ日本語学校教科書文庫)
The University of Hawai❛i at Mānoa Library

 

移民社会ハワイの形成と変容

18世紀末以来、世界各地からさまざまな人びとが来住したハワイは、多様なエスニックグループが共に暮らす社会となっていました。アメリカ合衆国による併合を機に、人びとの入国はアメリカの移民政策の影響下に置かれ、1920年代半ばには東アジアからハワイへの移住は禁止されることになります。

しかし、このことは東アジアとハワイの関係の断絶をもたらしたわけではありませんでした。移民とその子孫は、祖国との紐帯を維持していたため、東アジアにおいて日本が帝国として膨張を始めたことは、移民とその子孫のハワイにおける境遇に影響を与え続けました。このように世界情勢の変化や、さまざまな人びとが寄り集まって暮らすハワイ独自の社会的条件にも規定されながら、人びとの関係性は築かれていきました。

中国系移民の家族写真 ハワイ州立文書館蔵

千九百二十四年制定 北米合衆国移民法 外務省通商局
1924年6月 国立歴史民俗博物館蔵

「排日移民法」と日本では称された1924年移民法。この法律によって、以後、日本人の労働者としてのアメリカへの移住が禁じられた。

 

太平洋戦争とハワイ

1941年12月7日(現地時間)の真珠湾攻撃により、日本とアメリカ合衆国は戦争状態に入りました。19世紀末からのアジアにおける日本帝国の勢力拡大は、ハワイにおける民族間関係や、アメリカにおけるハワイ諸島の軍事的位置付けに影響をもたらしました。また真珠湾攻撃は、ハワイにおける民族間の亀裂を顕在化させました。

攻撃直後からハワイは戒厳下に置かれ、軍政による様ざまな制約が人びとの生活に及びました。人びとは、政治的・社会的な環境の変化のなかで、それぞれが自らの立場がどのように変わるのか、あるいは自らの立場をどのように変えていけるのかを考えました。日本人・日系人は、その一部が拘束・抑留されつつも、アメリカ人として戦時を生きることを求められました。彼らは動員と排除の両義性の下で迷いや決断、あきらめを感じつつ、アイデンティティや文化について問いながら、戦争の時代を生きることになります。

ここでは、日本人・日系人の存在を軸にしながらも、太平洋戦争が人びとの日常にどのように影を落としたのかを考えます。

闘う我ら 共通の敵
(We Who Fight:The Common Enemy)

大韓市民協会立法委員会 
1945年 ハワイ大学マノア校図書館蔵

The University of Hawai❛i at Mānoa Library

朝鮮系の市民団体によって刊行された冊子。副題にある「共通の敵(The Common Enemy)」とは、アメリカと朝鮮にとっての日本を意味している。日本による侵略に抵抗してきた朝鮮の歴史や、ハワイにおける朝鮮系住民の戦争協力などについて説明している。

アメリカ陸軍第442連隊の出発式

1943年3月28日 ハワイ州立文書館蔵

 

戦後の民主化から立州まで

太平洋戦争が終結すると、ハワイには再び大きな変化が訪れました。

最も大きな変化は、Democratic Revolutionと呼ばれる、ハワイの中心的な政治勢力の共和党から民主党への移行でした。背景には、プランテーションを経営する財閥の支配力が低下したことや、戦争中に抑制されていた労働運動の活発化などがあり、ハワイ全体の社会変化とも連動していました。

さらに、1959年にハワイは準州から州に昇格しました。これは、「立州(Statehood)」と呼ばれ、州になることにどのようなメリットがあるのかという議論よりも、むしろこれを実現しようとする機運の大きな盛り上がりが目立ちました。この「立州」には、ハワイ在住の日系人への肯定的な評価の定着、冷戦という時代背景との関わりなど、戦後という時代におけるハワイの立ち位置を考える上で重要な論点がいくつも関わっています。

Fear/恐怖/Buteng ハリオット・ボウスログ(述) 国際港湾倉庫労働者組合(ILWU)
1951年10月16日 ハワイ大学マノア校図書館蔵 The University of Hawai❛i at Mānoa Library

ハリオット・ボウスログ(女性弁護士)の講演をまとめたパンフレット。英語版、日本語版、イロカノ語版を確認することができ、エスニックグループ横断的な労働運動の展開を象徴している。「共産主義者」の逮捕を批判し、政府を批判する者が罰せられるのであれば、「物価と利潤が高騰する時賃金を凍結する政府の権利に対して敢えて挑戦する者、政府が戦争に傾倒している時平和を要求する者、などを全部沈黙せしめる時迄総ての闘争的労働組合員に対する求刑は続くでしょう」と訴えている。

 

「常夏の楽園」、あこがれのハワイ

1964年に、日本からの海外渡航が自由化されました。「トリスを飲んでハワイに行こう」というテレビCMや、クイズ番組の商品として宣伝されながら、「あこがれのハワイ」のイメージが広がります。もっとも、この当時のハワイ旅行はまさしく「あこがれ」であり、1週間程度の旅行でおよそ35万円の費用がかかっていました。大卒初任給が約2万円、同年に開業した東海道新幹線の東京—大阪間2等片道が2480円だったことを考えると、まさに「あこがれ」でした。

もっとも、この渡航自由化を機にハワイに行こうと考えたのは観光客ばかりではありません。ハワイ移住者の母村からのハワイ訪問も行われるようになり、それまで以上に相互の交流が行いやすくなりました。

円高ドル安、航空運賃の低下、そしてバブル期を通じた海外旅行の大衆化を経ながら、いまの日本でもハワイは、特別な意味と歴史をもった場所であり続けています。

 

エピローグ ハワイ歴史のたび

ハワイには、その歴史を示す建物や記念碑、そして大小さまざまな施設があります。日本人移民の歴史はもとより、ハワイ王国・準州時代の歴史、そしてさまざまなエスニックグループがハワイに移住していることを示すものが散在しています。ハワイ島はこれまでにも津波に襲われており、そのことを伝える記念碑や博物館もあります。

そうした多様な痕跡や施設のなかには、観光客の来訪を前提として整備されているところもあれば、案内が整備されておらずなかなか見つけることができないところ、そして安全上・治安上の理由から足を向けにくいところも一部あります。あるいはまた、ホノルル空港のなかなど、意外なところに記念碑や展示などが設けられていたりもします。

ここでは、そうしたさまざまな場所を紹介しながら、もう一度、ハワイの歴史をたどり直してみたいと思います。

ホノルル空港の中庭(Cultural Garden)にある
官約移民100年記念碑
2019年6月 原山浩介撮影

カフェ100(ハワイ島ヒロ)2018年11月 原山浩介撮影

創業者が、第100大隊を除隊した後に店を開いたことから、この店名がある。

津波で止まった時計(ハワイ島ヒロ)
2019年6月 川村清志撮影

1960年5月23日にヒロを襲ったチリ地震津波で止まった時計。深夜の1:04を指している。津波で壊滅したこのモニュメントの周辺一帯には住居などは建てられておらず、現在は広場になっている。

マキキ聖城キリスト教会(オアフ島ホノルル)
2018年11月 
原山浩介撮影

1904年に、日本人牧師の奥村多喜衛によって開かれた。1934年に高知城を模した建物が作られ、現在でも、日系人を含む多くの信者が集まる。

 

 

【展示代表 紹介】

展示代表:原山 浩介(国立歴史民俗博物館 歴史研究系 准教授)
専門は現代史。主な研究テーマは、日本における消費社会と消費者運動の成立・変遷過程に関する研究、戦後における農村社会の変容に関する研究、境界を越えた人びとの移動に関する研究。
近畿大学非常勤講師、慶應義塾大学非常勤講師などを経て、2005年、国立歴史民俗博物館研究部助手に着任。2011年より現職。

 

朝日 祥之(国立国語研究所 准教授)/小嶋 茂(海外移住資料館 学芸担当)
坂口 満宏(京都女子大学 教授)/坂梨 健太(龍谷大学 講師)
塩出 浩之(京都大学大学院 准教授)/鈴木 啓(Independent Researcher)
高田 智和(国立国語研究所 准教授)/保谷 徹(東京大学史料編纂所 教授)
森田 朋子(中部大学 教授)/森本 豊富(早稲田大学 教授)/山倉 明弘(天理大学 教授)
吉田 亮 (同志社大学 教授)/大久保 純一(国立歴史民俗博物館 教授)
樋浦 郷子(国立歴史民俗博物館 准教授)/松田 睦彦(国立歴史民俗博物館 准教授)
横山 百合子(国立歴史民俗博物館 教授)/吉井 文美(国立歴史民俗博物館 准教授)

歴博講演会

※事前申込不要

第420回「ハワイから見直す近現代:移民・戦争・民主主義」

開催日時 11月9日(土)13:00~15:00
講師 原山 浩介(本館 歴史研究系 准教授)
会場 国立歴史民俗博物館 講堂(定員260名)

●その他、関連イベントについての詳細は決まり次第お知らせします。

※内容は変更する場合があります。ご了承ください。