くらしの植物苑観察会

毎月第4土曜日
13:30に苑内のあずまやに集合
15:00頃までの予定、苑内の季節の植物も観察

  • 9月28日 第54回観察会 「棉から綿へ」 渡邊 重吉郎(歴博)
  • 10月26日 第55回観察会 「菊の文化史」 辻 誠一郎(歴博)
  • 11月23日 第56回観察会「冬の華・サザンカ」箱田 直紀(恵泉女学園大学)
  • 12月21日 第57回観察会「冬至の植物文化史」辻 誠一郎(歴博)

ワタの話-日本の棉作と綿花生産の歴史

  • 執筆者:辻 誠一郎
  • 公開日:2002年9月24日

片仮名でワタと書くときには、分類された植物の名称を意味しています。古くから棉とも書いてきたので、植物名としてのワ タはアジア棉というように棉の字を使い、利用する部分である綿花や綿毛には綿を用いることにしています。

ワタはもともと日本にはなく、海をわたってきた植物の代表的なものです。いつ日本に伝えられたかは定かではありませんが、平安時代初頭には記録がありま す。その後もいくつか記録はありますが、商業的な生産には及ばなかったようです。

日本での商業的な棉作は15世紀末から16世紀初頭に始まりました。15世紀末には越後で作られ、商品としても流通していたという記録があります。16 世紀初頭になると三河、遠江、駿河、武蔵などで棉作の記録があり、16世紀末では武蔵で木綿を売買する宿が出現しています。西日本では16世紀中頃から摂 津や大和で生産され、16世紀末には九州の豊後でも記録があります。伊勢、尾張などにも広がり、九州の北部には相当広がっていたようです。
ところが、近世になって、幕府は西日本の市場のセンターを大坂に設定したため、消費物資の生産が大坂を中心とした周辺域で行われるようになり、綿花生産 もこの地域に集中するようになりました。また、棉作には大量の肥料が必要で、棉の肥料とされた油分の多い干鰯(いわし) などが紀伊や和泉からもたらされたこともあって、紀伊から瀬戸内海に面した諸国に集中していきました。加工業も都市域からしだいに農村地帯に広がってい き、18世紀までに農村加工地帯が形成されていきました。これによって、中世末の生産地であった東日本や九州諸国での生産は大きな打撃を受け、壊滅せざる をえませんでした。

18世紀以降になると、棉作と綿花生産は瀬戸内海に面した諸国ばかりでなく、土佐や出雲といった地域にまで拡散し、大坂に近い山城や大和は姿を消してい きました。和泉、河内、摂津での生産も極端に低くなっていきました。これは綿花の価格が停滞あるいは低下し、棉の肥料である干鰯などの価格が高騰したため と考えられています。さらに19世紀に入ってからは、綿花の価格が停滞したのに対して、干鰯の価格が一方的に高騰を続け、大生産地であった瀬戸内海一帯で も生産が低下に向かいました。このような変化に呼応するように、19世紀後半になると、東海地方の諸国と東日本、および山陰の伯耆(ほうき) が新たな産地として登場してきました。肥料の高騰を抑える工夫がもたらした結果と考えられています。すなわち伯耆では、油粕などのほかに、近くの隠岐から もたらされた大量の海藻が肥料とされたのです。魚粕に比べ十分の一以下の安値だったのです。

しかし、明治になると安価な外国の綿花に圧倒されて、日本での棉作と綿花生産は壊滅の一途を歩むことになりました。