大分現地研究会報告
日時 | 平成18年12月23・24日 | 会場 | 大分市コンパルホール | 参加者 | 約30人 | 内容 | 12月23日(土) 12月24日(日) |
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研究会の概要
第5回目現地研究会が12月23~24日、大分市コンパルホールでおこなわれました。会場には九州の研究分担者や研究協力者、そして大分県、大分市、愛媛県、今治市、東広島市の教育委員会関係者約30人が集まりました。
坂本稔の司会のもと、藤尾の考古学的報告、今村峯雄の自然科学的な報告がおこなわれたあと、実際に遺跡を調査した大分市教育委員会と今治市教育委員会の関係者が遺跡の概要説明をおこないました。
大分県下における調査は大分市玉沢条里地区遺跡第7次調査出土の弥生前期土器、県内の弥生中期~古墳初頭にかけての弥生土器や古式土師器を対象に2004~2005年度にかけておこないました。
豊後における弥生水田稲作の開始時期の解明と、大分県における弥生土器編年の整備が目的です。
玉沢条里地区遺跡は豊後でもっとも古い水田関連遺構が見つかった遺跡で、伴う土器の付着炭化物を測定すれば、弥生稲作の開始年代を知ることができます。
また大分県内の弥生土器は、下城式とよばれている中期に比定された在地の甕に型式学的差異が少ないことから、在地土器を軸とした編年の構築が難しい事情があって、九州北部系や瀬戸内系といった外来系土器の移入品を軸に編年が組まれてきた経緯があります。
大分県教育委員会の高橋徹氏はそんな状況を打開するために、甕に付着する土器付着炭化物の炭素14年代を測定する資料を提供したのです。
一方、豊後水道を挟んで豊後の対岸にある西部瀬戸内において、愛媛県今治市阿方遺跡から出土した、弥生稲作の開始期と前期末~中期初頭の土器に付着した炭化物の年代測定を進めていたため、豊後や西部瀬戸内における当該期の年代問題を検討する目的で検討材料に加えました。研究会での議論の結果、以下の点が明らかになりました。
1.縄文晩期の開始年代
玉沢地区条里跡遺跡から出土した上菅生B式新に比定された土器群のうち、2900 14C BP年代が得られた資料は、年代的に晩期前葉まで上がることになり、これを上菅生B式に比定できるという考えが高橋氏によって示されました。
2.弥生稲作の開始年代
玉沢地区条里遺跡の前期突帯文土器と阿方遺跡の古式遠賀川系土器には、2300 14C BP台後半の炭素14年代をもつ甕があります。この炭素14年代をIntCal04と照合すると、前400年頃に確率密度の高い部分がきますが、これは考古学的な事実とはあいません。なぜなら、前400年頃には板付IIb式や板付IIc式がくるからです。
しかし広島県黄幡1号遺跡出土のヒノキ材などをもとにつくった日本版較正曲線と照合すると、前700~650年前後にも確率密度の高い部分がくることがわかりました。
これはIntCal04の前700~650年頃には、2400 14C BP台の測定値がみられないのに対し、日本版では2300 14C BP台の測定値が存在するからです。
板付式土器が前8世紀中頃に下限をもつことを考えれば、豊後と西部瀬戸内では前8世紀末~前7世紀中頃に弥生稲作が始まった可能性を考えることができます。
3.弥生前期末の年代
新たに測定値を得た福岡市雀居遺跡4次調査出土の板付IIb式6点の炭素14年代の中心値が、2400年問題の終末から、それを抜けた傾斜部にまで分布することによります。その結果、福岡平野では前期末の開始年代が前400年より新しくなる可能性が出てきました。前期末の金海式甕棺から見つかった人骨の炭素14年代の中心値は、2400年問題を抜けた傾斜部に分布していましたので、それを裏づける結果となりました。
一方、阿方遺跡の前期末の炭素14年代の中心値は、2400年問題にはかからず、急傾斜部の全体に分布することから、西部瀬戸内の前期末は前4世紀前半までかかることがわかり、岡山市南方遺跡の調査成果と調和する結果が得られました。
西部瀬戸内では前期末や中期初頭が九州北部より数十炭素年遅れて始まる可能性を示すだけに、西日本各地における青銅器の開始年代をめぐる議論に影響を及ぼすことは必至です。
4.弥生終末~古墳初頭の年代
後200年ごろの日本列島では、炭素14年代がIntCal04に比べて30年ほど古く出ることが知られているため、後期後半~布留式までの暦年較正はこれに留意して補正する必要性を今村が説明しました。
(文責:藤尾慎一郎)
写真1 測定結果をふまえて、 晩期の土器編年を再考する高橋氏 |
写真2 研究会風景 |