刊行物
歴史系総合誌「歴博」
歴史系総合誌「歴博」 175号
連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」
第4展示室 新構築に向けて 壺屋焼関連資料の収集と展示について
一 壺屋焼関連資料収集のきっかけ
新しく構築される第四展示室(民俗展示)には、「陶工」というコーナーがある。陶磁器に関する民俗学の研究蓄積が決して多くない現状において、このコーナーをあえて設けた背景には、いくつかの意図がある。
広く知られているように、民具学の太祖である渋沢敬三(しぶさわけいぞう)が、陶磁器を工業製品であるという理由で民具の範疇から除外したことから、それは長らく民俗学の研究対象とみなされてこなかった。そうした学問的背景から、当館でも館蔵資料に登録されている陶磁器の多くは考古資料であり、民俗資料として収集したものではなかった。
そのような中、十数年前から産地のイメージ形成に着目した陶磁器の民俗学的な研究が、いくつか現れるようになった。その代表的な成果が、文化地理学者の濱田琢司(はまだたくじ)氏による『民芸運動と地域文化』(思文閣出版、二〇〇六)である。また、文化人類学者の松井健(たけし)氏は、二〇〇〇年に当館の民俗研究映像「沖縄の焼物 伝統と現在」を制作している。それらが共通して示しているのは、手作りが地域文化や伝統性に与える影響である。
一方で、職人は同じものを素早く大量に生産することが求められてきたという点で、製造手段の機械化に代替される要素を内在していた。実際にも、手作りと機械生産の境界は、案外曖昧である。労働の軽減化や品質の安定化、生産効率の向上などを求めて、あらゆる産業で部分的にでも機械の導入を進めている中、手作りの定義や意義を明確にすることは難しい。だからこそ、それは我々の文化的価値観に大きな問いかけを発している。
また、身近な生活用具が手作りのものから工業製品へと代替されていく中、工業製品を民俗学の研究対象に加えていかなければ、生活や文化を正しく描けない状況になっている。機能が同じであるにも関わらず、製造手段や材質が変わったことで民俗学の研究対象から外してしまったら、日常の生活史を物質文化の面から連続的に説明することができなくなる。
以上のような観点から、機械化を取り入れつつも、手作りの日用雑器として地域のイメージ形成に大きな役割を果たしている沖縄県壺屋焼の関連資料を、濱田琢司氏や那覇市立壺屋焼物博物館の倉成多郎氏に協力していただき、収集することにした。当館で壺屋焼の関連資料を収集するのは、今回が初めてのことである。
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| 写真1 金城次郎の抱瓶 本館蔵 |
写真2 幕末~昭和初期の酒器 本館蔵 |
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| 写真3 17世紀に湧田で作られたカラカラ 本館蔵 カラカラは泡盛を入れる酒器 |
写真4 明治時代のカラカラ 本館蔵 現在のものと違い、泡盛を入れる口が内側を向いている |
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| 写真5 龍文飾り壺 本館蔵 |
写真6 エジプト文飾り壺 本館蔵 |
二 壺屋焼の近代
壺屋焼といえば、大きな魚を図柄とした金城(きんじょう)次郎の作品がまず思い起される(写真1)。その影響力はあまりにも強く、現在市販されている壺屋焼のデザインに広く及んでいる。厚めの生地に深い筋彫りをし、赤・青・緑の派手な絵付けを施しているのが、壺屋焼の一般的なイメージであろう。だが、明治時代の壺屋焼は、釉薬を施さない地味な荒焼(あらやち)が大半を占めていた(写真2)。
一方、釉薬を施した上焼(じょうやち)については、壺屋焼が開窯(かいよう)した一七世紀末から存在が認められている。一六八二(慶長一四)年に財政上の理由で窯と技術が那覇の壺屋地区に統合されるまで、沖縄には北部の古我知(こがち)、中部の喜名(きな)、南部の湧田(わくた)など、各地に窯元が分散していた。それらの中で、当時の琉球王国において最大の窯場といわれた湧田では、茶色の顔料を特徴としたシンプルな上焼が作られていた(写真3)。その後、一九世紀後半になってコバルトブルーの顔料がもたらされると、壺屋焼の色彩が豊かになる(写真4)。
ところが、二○世紀に入って間もなく、壺屋焼は衰退した(図1)。その主な原因は、流通網の進展によって、有田焼が沖縄に大量流入したからだといわれている。その状況を打開するため、壺屋の窯元は大正時代にそれまでの主流であった荒焼から有田焼のデザインを取り入れた派手な上焼へと切り替え、日本各地に販売するようになった(写真5)。また、大胆な魚の図柄を取り入れたのも、この時期からである(写真6)。
その後、壺屋焼の製品は第二次世界大戦の戦災によって、壊滅的な状態になる。したがって、現在の沖縄で販売されている壺屋焼の骨董品は、県内で残ってきたものではなく、おおよそ本土から買い戻したものとみてよい。また、大正時代の上焼以前に作られていた荒焼についても、江戸や京都、博多といった近世の遺跡から発掘され、広く流通していたことが知られている(小田静夫『壺屋焼が語る琉球外史』同成社、二〇〇八)。つまり、那覇の古物商が全国各地から地道に壺屋焼を買い付けてきた結果が、現在の骨董品市場を形成している。今回当館が収蔵した壺屋焼も鑑定に信頼のおける那覇の古物商四軒から購入したものである。
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| 写真7 シーサーの押し型 本館蔵 |
写真8 シーサーの練り込み型 本館蔵 |
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| 図1 全国の陶磁器生産額と沖縄のシェア 資料:日本帝国統計年鑑 |
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三 窯道具の収集
歴博では、壺屋焼の製品と同時に窯道具の収集にも努めていった。その中でとくにお世話になったのが、シーサーの制作で知られている湧田陶器の湧田弘氏である。この湧田陶器で使わなくなった窯道具を一括して寄贈していただいたことにより、当館は壺屋焼の製作工程を包括的に研究・展示することができるようになった。
その代表的な資料が、シーサーの型である。(写真7)が多品種少量生産向けの押し型、(写真8)が少品種大量生産向けの鋳込み型であるが、壺屋では前者を用いるのが一般的であるという。なぜなら、鋳込み型は陶土の水分を吸収するため、使うたびに乾燥させなければならない。その分、連続して生産するには多くの型が必要となり、コストがかかるからである。また、型とはいっても陶土を型から外して、すぐに成形が完成するわけではない。その後、目や口の穴を開け、手足や尻尾をつけて、さらに筋彫りを施さなければならない。そのような手間を考えると、手で一つ一つ型に陶土を押し込む押し型が、生産のペースに合っていることになる。このように、手作業と型の密接な関係は、容易に大量生産へと向かえない原因となっている。
他に、湧田氏からはナイフ、カンナ、彫刻刀といった様々な成形道具(写真9)や蹴ロクロ(写真10)、ジーシーバクという子供用の厨子甕(ジーシーガーミ)を製作するための型(写真11)などをいただいた。これらにより、先に紹介した「沖縄の焼物 伝統と現在」や一九九六年に制作した「沖縄・糸満の年中行事―門開きと神年頭―」といった民俗研究映像と合わせて、壺屋焼の製作工程やそれを使った沖縄の年中行事などをより深く研究できると考えている。
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| 写真9 壺屋焼の成形道具 本館蔵 |
写真10 蹴ロクロ 本館蔵 |
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| 写真11 ジーシーバクの型 本館蔵 左が蓋の軸、右が胴体部分の木製枠 |
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青木 隆浩 (本館研究部・民俗学/地理学)




































