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歴史系総合誌「歴博」歴史系総合誌「歴博」

歴史系総合誌「歴博」 169号

連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

勝海舟の大久保利通追悼歌

無二の親友であり同志だった西郷隆盛と大久保利通が最後には悲劇的な訣別(けつべつ)に至ったことは周知の事実である。また、戊辰(ぼしん)時には敵味方の立場で対峙した勝海舟と西郷とが、互いに最大の理解者となったこともよく知られている。では、大久保と勝の間はどのような関係だったのだろうか。

維新後、徳川家の存続に力を借りたほか、参議・海軍卿(きょう)・元老院議官など明治政府の要職に就いたこともあり、勝は当然ながら大久保とは浅からぬ人間関係が生じた。しかし、勝が官を辞した一八七五(明治八)年頃を境に二人の間でやりとりされた書簡は残っておらず、政治上の対立点もあったことから大久保とは絶縁状態になったのではないかとされる。勝が、西郷隆盛をはじめ亡くなった友人たちの遺墨(いぼく)を模刻(もこく)し、一八七八(明治一一)年に出版した『亡友帖』には大久保の墨跡(ぼくせき)は収録されていない。大久保暗殺が同書の編集完了後だったからでもあるが、果たしてもっと早くに死んでいたとしても勝が大久保を「亡友」の列に加えたかどうかには疑問が残るという(松浦玲『勝海舟』、二〇一〇年、筑摩書房)。晩年の勝は、私祭を催したり、記念碑を建立したり、あるいは遺児の面倒をみるなど、西郷への親愛の情を示し続けたが、大久保に対してはそのような親しみを見せなかった。木戸孝允とともに大久保を「一世の雄」と評するが、「西郷氏に比せば、また降ること数等」とも述べる(「解難録」『勝海舟全集 11』、一九七五年、勁草書房)。

勝海舟 大久保利通
写真1 勝海舟 本館蔵 写真2 大久保利通 本館蔵

ところが、全く悪感情だけでもなかったことがここに紹介する勝が大久保を追悼した和歌からわかるのである。一八九三(明治二六)年の一五年忌で詠まれたものと一八九八(明治三一)年の二〇年忌で詠まれたものであり、それは大久保家に伝えられ、表装された二幅として現在当館が所蔵する。大久保利通の一五年忌と勝の追悼歌に関しては、以下の新聞記事が参考になる(『朝野新聞』明治26年5月18日)。

○大久保右府公十五年祭 去る十四日右府公碑前に於て公の継嗣利和侯及び牧野文部次官の修したる十五回の年祭に来会の重なるものは伊藤山田西郷渡辺土方の各大臣を始め朝野の貴紳無慮二百有余にして中々の盛典なりしと又当日勝伯其他の薦藻一二は左の如し

拝啓扨当年は尊父公十五年御相当扨て歳月の過るは速かなるものと今更被存候老拙明日は墓前へ参拝も可致之処何分宿痾全癒不致不参候附ては御霊前へ参拝の心得にて拙写真一葉並に感慨之一首差上候間御備被下度及御願候何れ全快次第不日罷出可申述先以書中早々如此候也

 五月十三日                  勝安房
  大久保利和殿
  牧野 伸顕殿
   大久保利通公の十五年忌に霊前へ奉る
                          物部安房
  たはさみし剣のたわみとりしはり
   あらそひしさへなつかしきかな

(以下速水堅曹(はやみけんそう)・宮本小一(おかず)・宮島誠一郎の和歌・漢詩が続くが転載は略す)

この記事からは、碑前祭に招待されたが病気のため欠席したこと、代わりに自分の写真と詠歌(えいか)を送ったことがわかる。なお、当時の勝の名前は「安房(あわ)」ではなく「安芳(やすよし)」が正しく、本館所蔵の現物にもそう記されている。

 「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建てられたのは一八八八(明治二一)年であり、その年勝は「大久保〔利通遺族〕へ十年忌につき使い遣わす」(五月一三日条、『勝海舟全集 21』、一九七三年)と日記に書き残しているが、一五年忌と二〇年忌については記載がない。勝は一五年忌の時は七一歳、二〇年忌の時は七六歳であり、その翌年、明治三二年(一八九九)に亡くなった。
大久保利通一五年忌に際しての勝海舟の追悼歌 大久保利通二〇年忌に際しての勝海舟の追悼歌
写真3大久保利通一五年忌に際しての勝海舟の追悼歌 本館蔵

写真4大久保利通二〇年忌に際しての勝海舟の追悼歌 本館蔵

≪利通公の二十年忌ニ懐旧   物部安芳
 夢なれやつるきのたわみとりしはりあらそひしさへなつかしき哉≫

今回紹介した資料は、歴博所蔵の大久保利通関係資料の一部である。ただし、刊行済みの『国立歴史民俗博物館資料目録2 大久保利通関係資料目録』(二〇〇三年)には収録されておらず、本資料は目録刊行後に新たに大久保家から寄贈された分、約一五〇点のほうに含まれる。寄贈分には書幅や印章・筆洗・燭台など利通本人の遺品が多いが、他の人物から贈られた追悼の和歌・詩文などを軸装したものが十数点ある。勝以外では、谷干城(たにたてき)、宮島誠一郎、岡本黄石(こうせき)、楫取素彦(かとりもとひこ)、岩谷修(いわやおさむ)、速水堅曹、重野安繹(しげのやすつぐ)、村田香谷(こうこく)、金井之恭(かないゆきやす)(以上明治二六年)、千坂高雅(ちさかたかまさ)(明治三一年)、高崎正風(まさかぜ)、西村捨三(すてぞう)(以上明治四一年)、佐々木高行(たかゆき)らである。この内、勝の明治二六年の和歌と千坂のものを除けば、すべて日本史籍協会編『大久保利通文書 九』(一九二九年、一九六九年復刻、東京大学出版会)に翻刻・収録されている。一五年忌では碑前祭終了後に追悼囲碁会が催され、書画詩文の揮毫(きごう)も行われたというので、大久保家に伝えられた墨跡はその時の参会者が書き残したものなのであろう。なお同書では、一五年忌(明治二六年)、二〇年忌(同三一年)、三〇年忌(同四一年)の際のものが区別されずに配列・掲載され、すべてが一五年忌の際のものであるかのような誤解を与える解説が付されているので注意しなければならない。

大久保利通15年忌に際して宮島誠一郎が詠んだ漢詩  
写真5 大久保利通15年忌に際して宮島誠一郎が詠んだ漢詩 本館蔵
宮島誠一郎は米沢藩士出身の官僚・政治家。 勝とも大久保ともごく親しい間柄だった。

樋口 雄彦 (本館研究部・日本近代史)