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歴史系総合誌「歴博」歴史系総合誌「歴博」

歴史系総合誌「歴博」 168号

連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

能登宇出津 白山神社と酒垂神社の神輿


  二基の神輿が、牛頭天王を祭る祭礼のなかで暴れまわり、焼け焦げ、損壊してゆく

能登のキリコ祭りとあばれる神輿

能登半島に多く分布する、長大な箱形の燈籠(とうろう)が舁(か)かれるキリコの祭りの一つ、宇出津八坂神社(うしつやさかじんじゃ)の夏の祭礼「あばれ祭(まつり)」では、七月第一週の金・土曜日(かつては七月七日・八日両日)に、神輿(みこし)、キリコともにたいへんな喧騒をともなっての巡行が行われる。

酒に酔った若者たちの舁く、四〇本を超える数の大小のキリコが鉦(かね)・笛・太鼓に囃(はや)され、燃え盛り火の粉を散らす五本の柱松明(はしらたいまつ)と二カ所の置き松明の周りを廻る光景も圧巻であるが、ここで注目したいのは神輿の巡行の様子である。

白山(はくさん)神社と酒垂(さかだり)神社の神輿がそれぞれの氏子によって舁かれ、土曜日早朝より町内を巡行するが、夜九時過ぎ、八坂神社への還御(かんぎょ)までの途次、これを舁く若者等、氏子自身によって荒々しく扱われる。道々においては、アスファルトの地面に叩きつけられ、転がされ、あるいは海に落とされ、梶川に落とされ、観音寺川(かんのじかわ)に落とされ、ようやく八坂神社に到達すると、今度は境内で置き松明の火中に投げ込まれ…、そうした折々、一際、大きな歓声が上がり、怒号が飛び交い、熱狂はさらに激しさを増す。

こうして神輿は、屋根は剥がれ落ち、一面黒焦げとなって損傷し、宮へ還御する。このようにすることこそが神慮(しんりょ)にかなうことだというが、すなわち神輿へのこうしたいかにも手荒な働きかけが祈願の作法なのである。

ここで考えたいのは、この「あばれ祭」の所以(ゆえん)である。特に神輿に関していえば、第一義としては、神輿に対する舁き手をはじめとする氏子の人々の荒々しい振る舞いに対する呼称というよりは、これによって、たとえば地面に激突し、転がり、海や川、あるいは火中に飛び込んで行く…、といった、神輿自体が能動的に暴れまわっているとの認識に基づく呼称なのであって、こうして「暴れる」神輿とともに、人々が熱狂することが祈願の作法といえるのである。

牛頭天王と疫神の奉送

この祭礼は、近世前期、宇出津で寛文年間(一六六一~一六七三)、悪病が流行した際に、京都八坂神社(祇園社(ぎおんしゃ))から牛頭天王(ごずてんのう)を勧請(かんじょう)されて始められたものという。創始したのは桜井源五(さくらいげんご)という当時の宇出津の有力者であるが、現在、八坂神社を目指す白山神社の神輿は、途次、源五の家があった場所に現在建つ家に入り、しばし休息する。

京都八坂神社の牛頭天王を祭る祭礼は、祇園祭りとして現在に続く。中国や日本の古典にちなむ人形を乗せたり、ペルシャやベルギーのタペストリーを掛けたりなど、華麗な装飾の三〇を超える山鉾(やまぼこ)が、京都四条の町を夏の暑い中、行き交う光景がよく知られるが、その起源は、平安時代に、疫病の原因とされた御霊(ごりょう) - 都の外で恨みを抱いて死に、都に戻ってきた貴族の霊 - を、神輿に乗せて都の外へと送ることを目的とした御霊会(ごりょうえ)(『本朝世紀』正暦五年(九九四)六月二七日条、等)にある。

この、夏に疫神(えきじん)を共同体外へ送り出す祇園祭りは、中~近世に全国の町村に伝播し、夏季の神社祭礼のスタンダードとなってゆく。その祭儀は、スピードを競い合う博多の祇園山笠(やまかさ)のように、激しく荒々しい作法を特徴とする例が少なくない。

疫神を送り出すための集団による共同祈願の作法が、都市祭礼の熱狂へと展開していったとみられるのであるが、神輿の暴れまわる宇出津の祭礼は、こうした疫神を奉送する祭儀が、民俗的に展開した一例として認めることができるのである。

祈願としての熱狂

キリコの随行する神輿が、損壊されつつ巡行するこうした光景は、江戸期以来のものであったようである。大正一二年(一九二三)に刊行された『石川県鳳至郡誌』には、次のように記されている。

六月祭は八坂神社の祭禮にして、今七月六七日に行はる。切籠(きりこ)と称する奉燈を出し、昼夜の別なく各町随意に之を擔(かつ)いで邌(ね)り廻る。其の数多き時は三十余に及び、敢て神輿に随行するに非ず。神輿は六日の夕から巡幸し、富家に擔ぎ込みて酒を飲む。酔へば其所に放置し、醒むれば次の家に運ぶ。時に路上に遺棄したるまゝのことあり。かくて八日の夜中にいたりて還幸し、社殿を破壊せんばかりに騒擾(そうじょう)す。蓋(けだ)しかくせざれば神怒(しんぬ)に触るといへり。現時は神輿を二台とし、一は酒垂神社の氏子中を巡り、他は白山神社の氏子中を巡ることとせり。(鳳至郡役所編『石川県鳳至郡誌』第十四章「宇出津町」、(初版、大正一二年発行)、臨川書店復刻版、昭和六〇年 *太字は松尾による)

神輿は舁き手も定まらず、町内においては富家より富家へと巡り、舁き手は勧められるがままに酒を飲み、さらに隣の町、次の町へと運び、時には放置することさえあったという。放置されると、その家や周囲の氏子らが、次の家、隣の町へと運んでいったのであり、その一方で、キリコが必ずしも神輿に随行するわけでもなく自由に町内を練り回っていた。神輿を損壊することが、神意にかなうことであることもはっきりと記されている。

現在以上に、野放図(のほうず)であった様子も窺われるが、区域内をくまなく廻って災厄を集約し、共同体の外へ順次送ってゆく虫送り、人形(ひとがた)(形代(かたしろ))送り的な性格を認めることもできよう。共同体全体が熱狂の坩堝(るつぼ)と化す中、神霊が災厄を吸収しつつ、神社へ還ってゆく神輿渡御(とぎょ)の祭りということもできよう。

※関連写真については総合誌「歴博」本誌をご覧下さい。

松尾恒一(本館研究部・民俗学)