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歴史系総合誌「歴博」歴史系総合誌「歴博」

歴史系総合誌「歴博」 162号

連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

これからの出番を待つ佐倉連隊関係資料

今年三月にオープンした総合展示第6室「現代」では、前半のコーナー「戦争と平和」において、明治から昭和までの戦争の問題を扱っている。そのうち、軍隊と前線(戦場)については、本館が所在する場所に存在した佐倉連隊を具体例として取り上げ、説明した。四年前に開催した企画展示「佐倉連隊にみる戦争の時代」を継承、発展させたものでもある。今回展示した中には、再利用した資料も少なくないが、企画展示終了後に新たに収集した資料も多く加えている。ただし、集めた資料すべてを展示に出せたわけではない。ここでは、第6室オープン時には展示できなかったものの、今後、展示替えの候補として出番を待っている数々の資料の中から、ほんの一部を紹介してみたい。

歩兵第二旅団本部の建築図面

この資料は、先祖が大工を営んでいた千葉県内の個人から寄贈された。現在、第6室では、佐倉連隊、ひいては日本の軍隊の成り立ちや仕組みを説明するため、一八七四(明治七)年に佐倉城址に置かれた歩兵第二連隊の兵営模型や石版鳥瞰図、発掘された兵舎の屋根瓦などを展示している。しかし、この資料については連隊そのものではなく、連隊の上部組織である旅団のものであるため、少し説明しにくいということで、展示室で披露できずにいる。

そもそも旅団とは、師団と連隊との中間に位置する陸軍の編制単位である。歩兵旅団、騎兵旅団、砲兵旅団と称したように、単一兵種では最大の単位だった。佐倉にあったのは、歩兵第二連隊(佐倉)と歩兵第三連隊(東京)を麾下(きか)に置いた歩兵第二旅団の本部である。一八八五(明治一八)年に新築されることになったその建物の図面が本資料である。場所は、歩兵第二連隊の兵営とは少し離れた、練兵場の一隅であり、一八八九(明治二二)年発行の石版鳥瞰図「佐倉兵営及ビ旅団本部之図」では別枠に描かれている。この平面図からは、一階に玄関、将校食堂、宿直所、会計部、文庫、倉庫、二階に旅団長や参謀官の部屋、後備軍司令部、会議室などがあったことがわかる。事務をとるだけの機能から、それほど多くの人数が勤務したわけではないのだろう。なお、旅団本部が佐倉にあった期間は短く、日清戦争の頃にはすでに東京へ移転していた。その後、この建物は佐倉連隊区司令部(連隊とは全く別の徴兵を担当する機関)として使用されたが、一九三〇(昭和五)年三月二五日の火災で焼失した。
佐倉旅団本部断面 佐倉歩兵営内旅団本部側面
佐倉旅団本部断面 佐倉歩兵営内旅団本部側面

終戦直前の佐倉兵営の写真

四年前の企画展示をご覧になった地域の皆さんからは、さまざまな反響があり、貴重な資料を提供していただく場合も少なくなかった。ここで紹介する写真も、そのひとつであり、原版から複写させていただいたものである。

第6室では、一九三六(昭和一一)年満州へ移駐し、一九四四(昭和一九)年フィリピン・レイテ島で潰滅した歩兵第五十七連隊(歩兵第二連隊の後に佐倉に兵営を置いた連隊)の足取りをたどることにより、満州事変から太平洋戦争に至る兵士たちの姿を描いている。しかし、歩兵第五十七連隊が佐倉を去った後も佐倉の兵営は存続した。ここを拠点に新たな部隊が編制されては前線へと送り出されたのである。とりわけ戦争末期には、次々と急造部隊が生み出され、兵営としての機能が停止することはなかった。

これらの写真は、一九四五(昭和二〇)年頃の佐倉兵営の内部を撮影したものであり、兵営内での生活ぶりを垣間見せてくれる、珍しい画像である。ただし、のどかな印象を与えるこれらの写真は、当時の実像を伝えるものに違いはないが、切り取られた断片、一瞬に過ぎない。

佐倉旅団本部の間取図 大東亜戦争東部六四部隊ニ攻撃セル敵機経路
佐倉旅団本部の間取図 大東亜戦争東部六四部隊ニ攻撃セル敵機経路

佐倉兵営への空襲を記録した図

写真と同じく、戦争末期の佐倉兵営内で兵士が記録したものとして、アメリカ軍による空襲を描いた図(「大東亜戦争東部六四部隊ニ攻撃セル敵機経路」)がある。ノートの表紙裏にペンで描かれている。図は稚拙ながら、「B29 2月12日約500発中1発病院ニ命中発火セルモ消火ス」「7月21日午後1時半コノキハ部隊ニ攻撃セルモ被害ハ軽微建物ニ傷ヲツケタルノミ」「8月・9 戦死1名 見習士官戦死1名」といった記載から、敗色濃厚な当時、この兵営に対しても空からの小さな攻撃が頻繁に行われたことがわかる。

ここで、形ある資料ではなく、体験記という形で寄せられた佐倉兵営にいた元兵士の一文を引用してみたい。これまで紹介する機会がなかったものであるが、先の写真や図と合わせ読むことで、終戦直前の時期の兵営の雰囲気がよみがえる。
 

私が佐倉聨隊(東部第六四部隊、東京地区第五補充隊)へ着任したのは昭和二十年(一九四五)六月五日のことで、その前日に前橋陸軍予備士官学校を卒業し見習士官になっていた。夜行の臨時列車で東京(渋谷)に早朝到着、旧第一高等学校内にあった師団司令部で二千名程が振り分けられ、私は第五補充隊に配属となった。それでも佐倉には四百名ばかりが一緒で、私は第五中隊に二十二名と共に落ち着いた。同じような見習士官は既に十名が余所の教育隊から中隊に送られて来ていた。合計三十三名が集まって翌日中隊長の指示を受けたが、私は中隊の防衛将校にさせられた。空襲警報が発令されると、兵営の屋根の上に作られた監視所に登って、敵機の動静をメガフォンで地上に知らせる役目だが、艦載機に狙われて機銃の掃射を何回か受けた。幸い弾丸は外れたが、兵営内に飛び込んで中に居た兵隊は気の毒にも死傷したことがあった。監視所からは関東一円が見渡せる。鹿島灘方面から続々と霞ヶ浦上空に現れた艦載機は土浦付近で上昇し一万米程の高さになり、筑波山の手前辺りで下降し三千米程度の高度に降下してからばらばらになり、指定されたであろう地区目指して飛んで行くのが見える。この航路をよく見ると、艦載機には届いていない高さに高射砲弾のはぜた煙りがぱっぱっと見える。艦載機はちゃんと日本軍の対空砲火の届く範囲を知っていると見た。最も性能の良い高射砲が土浦辺りにあるが、それでも九千米までしか弾丸が届かないので、砲はあっても無きが如しだと分かった。しかも母艦が鹿島灘沖に居る筈だがそのマストさえここからでは見えなかった。日本軍は為す術がない状態で、しかも日本の戦闘機は殆ど見掛けなかったが、警報が鳴るや否や低空で三機がこっそり西方に一緒になって飛んで行くのを見たことが一回だけあった。

聨隊では召集を受けた人々に兵隊としての装備をさせ、編成した小隊毎に見習士官を振り当てて現地に送り出す、補充隊としての任務を続けていた。私の居た頃は装備も完全には出来ず、まして兵器は殆ど渡すものがなくて、兵隊は隊伍を組んで手ぶらで営門を出、軍団、師団、独立大隊などの一員として行先は東京周辺が多かったが、中には伊豆半島に独立大隊を作るものもあった。兵器は現地で支給する方針だそうだ。
〔江原有信氏の体験記「佐倉聨隊にて」より抜粋〕

 
一九四五年一〇月時点での千葉県における空襲被害調査によれば、佐倉警察署管内では、死者三四名、傷者四四名があったとされるが、右の体験記に記された兵営での犠牲者は、果たしてその数字に含まれているのだろうか。

樋口 雄彦 (本館研究部・日本近代史)

※写真については総合誌「歴博」本誌をご覧下さい。