刊行物刊行物

歴史系総合誌「歴博」歴史系総合誌「歴博」

歴史系総合誌「歴博」 160号

連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

「元禄二年 堺大絵図」

堺は、その名の示すように、摂津と和泉国境の交通の要所に立地した湊であり、中世後期には大阪湾から瀬戸内海、さらに東シナ海にまで広がる東アジア交易ルートの最東北端に位置した港湾都市であった。その外国貿易による豊かな経済力を背景に戦国大名と対抗した都市として知られ、特に日本を訪れたイエズス会宣教師による記録などから、環濠がめぐり、各町の端に木戸があって夜は閉ざされ、いったんことがあると堀を深くして櫓(やぐら)を上げるという防衛体制や、会合衆(えごうしゅう)とよばれた有力商人による町の運営体制などから、ヨーロッパ中世都市にも匹敵する自治都市・自由都市であったとされている。

ただそのような中世都市堺も一五六九年(永禄一二)に織田信長の力に屈して、自治都市としての栄光は失われた。さらに一五八六年(天正一四)には豊臣秀吉によって環濠は埋められて都市の形はかえられ、有力商人たちは移住させられた。その後、一六一五年(元和元)の大坂夏の陣の際に市街は灰燼に帰し、徳川幕府の直轄領となった後、「元和の町割」によって市街は再興された。江戸時代初期においては糸割符(いとわっぷ)仲間による朱印船貿易の基地として一時的に繁栄を取り戻すが、一七世紀前半、寛永期のいわゆる鎖国令によって貿易による繁栄の道は閉ざされれ、一七世紀末の元禄期以降は経済の中心は大坂に移り、さらに一八世紀初頭宝永期の大和川開通などによって港湾都市としての機能はほぼ終わることになった。

「元禄二年堺大絵図」全体図

写真1 「元禄二年堺大絵図」全体図、9枚の部分図で構成されている

国立歴史民俗博物館が所蔵している「元禄二年堺大絵図」は、このような堺の一七世紀末の姿を伝えている。全体図(写真1)で示したように、全九枚のそれぞれがかなり大きい部分図(写真2~8参照)で構成されており、つなぎ合わせると全体としては三〇畳ほどの巨大図になる。環濠で囲われた堺市街は、中央を南北に縦断する大道筋(おおみちすじ)(紀州街道)と中央部でそれと直交して横断する東西方向の大小路(おおしょうじ)で四つの郷に分けられ、これら道筋に平行する碁盤目状の通りによって京間六〇間を基準寸法とする街区に整然と分けられている。この市街の東縁には北から南まで寺院が配されており、この時期の城下町とも共通する計画的な市街構成が見られる。町の割り方も城下町と同じように街路に面した両側が一つの町になる両側町(りょうがわちょう)を基本としており、各四つ辻には町境を示す木戸が描かれている。街区内は整然とした短冊形の屋敷地割が行われており、各屋敷地ごとに所有者の名前、間口、奥行きが明記されている。都市内の屋敷の位置と権利関係を把握するために必要な情報が記された町奉行や惣年寄(そうどしより)などによる都市管理運営のための基本図と考えてよいだろう。張り紙などからかなりの期間、実際に使われていたことがあきらかである。

歴博収蔵庫における調査風景奉行屋敷 奉行屋敷と天神社(菅原神社)のある近世堺中心部
写真2 歴博収蔵庫における調査風景 写真3 奉行屋敷と天神社(菅原神社)のある近世堺中心部
左に大仙古墳(伝仁徳天皇陵)が描かれているのが見える  
写真4 左に大仙古墳(伝仁徳天皇陵)が描かれているのが見える  

このような元禄堺大絵図は、他の都市の同様の絵図と比較するとどのような位置を占めるのであろうか?都市絵図が多く残されている都市江戸と比較しておこう。江戸には都市内の個々の屋敷割まで描いた都市図として「沽券絵図(こけんえず)」がある。一八世紀初めの正保期、そして一八世紀半ばの寛保期の二度にわたって江戸町年寄の命によって江戸町全域で作成されたもので、屋敷ごとに間口・奥行寸法、地主(またはその代行者としての家主)、そして売買価格である沽券金が明示された絵図であり、以後江戸町において基本図として使われてきたことは残された町方史料からあきらかである。ただ江戸の場合、この沽券絵図の前提となるものに、実際に残されたものは確認されていないが「元禄間数絵図」という絵図が存在することが町触などからあきらかである。つまり堺大絵図と同じ元禄期に、都市内の屋敷単位で間口・奥行と所有者を把握するための絵図が作成されていたのであり、このことは偶然の一致ではない。他の城下町などでも、ほぼ同時期に同様の絵図が作成されており、この元禄期が近世都市支配における重要な時期であったことが想定される。

江戸沽券絵図の場合、町名主支配単位の数町で作成され、しかも残された絵図は限られているために、江戸町全体のことはよくわからない。しかし、堺絵図は都市全域が描かれており、しかも町方だけではない、寺院・神社、そして役所関係の情報も含まれていて都市図としての資料価値はまことに高い。

個々の屋敷には間口・奥行寸法と所有者の名前が書き込まれている 堀におかれる大小路口橋。たもとには高札場も見える
写真5 個々の屋敷には間口・奥行寸法と所有者の名前が書き込まれている 写真6 堀におかれる大小路口橋。たもとには高札場も見える

この絵図に示された町割(街路割・屋敷割の総称として用いる)を現在の堺の地形と比較すると、近年の街路拡幅や公共用地における工事などによる改変はもちろんあるものの、基本的な骨格はほとんどかわりなく踏襲されており、元和期の町割が現在に至る都市の骨格を定めていることがわかる。では、中世堺との関係はどのように考えればいいのであろうか?堺では市街地内各地で発掘調査が行われており、そのほぼ全域で江戸時代以前の遺構・遺物が確認されている。数次にわたる焼土層とともに、土蔵跡、礎石建物跡などの遺構、そして陶磁器や瓦・銭貨などの遺物も検出されている。重要なのは街路側溝などから確認できる街路の位置および方向が、現在の町割とは異なっていることで、元和以前の中世町割は元禄以後とは異なっていたことがあきらかになったことである。外周の環濠も江戸時代に掘削されたもので、元和以前の環濠はかなり内側をまわっており、中世堺は江戸時代にくらべるとかなり小さかったこともわかってきた。

じつはこの「元禄二年堺大絵図」、一九七七年に写真復刻版が出版されており(註)、優れた解説が付され、基本的な研究も公表されていた。その後、歴博が所蔵するようになった。二〇〇七年の企画展示「西のみやこ 東のみやこ」でその一部が展示公開されたのが一般公開としては初めてであったかもしれない。本格的な研究には手がつけられていなかったといってよいだろう。このたび、公募型共同研究「元禄『堺大絵図』に示された堺の都市構造に関する総合的研究」(研究代表者:藤田裕嗣神戸大学教授)が、二〇一〇年度から三年計画で行われることになった。歴史地理学、考古学、文献史学、そして建築史学の研究者が共同でこの「元禄大絵図」から堺の都市構造を研究することには大いに意義があり、また期待も寄せられていると思う。

天神社(菅原神社)境内には社殿建物も描かれている 田出井山古墳(伝反正天皇陵)の状況が描かれている
写真7 天神社(菅原神社)境内には社殿建物も描かれている 写真8 田出井山古墳(伝反正天皇陵)の状況が描かれている

最後に、その研究に参加する町割に関心の強い都市史研究者として、研究上の課題を二つだけあげておきたい。

まず、近世都市絵図資料として詳細な調査研究が必要である。環濠や周辺地形も含めた全体的な形状、街路構成、町割・屋敷割の表現、さらに文字による豊富な書き込み、所有者と考えられる商人・職人などの名前なども含めて全てが、堺という都市およびそれを取り巻く状況をあきらかにしてくれる。と同時に、そこから得られる近世都市堺の実態は、広く近世都市全体についての問題を解く重要な手がかりとなるはずである。

もう一つは、堺ならではの、中世と近世との連続と断絶をめぐる課題である。ひろく日本の都市の歴史をみて、中世段階で都市として明確な位置を占めていて、しかも近世段階まで確実に都市として存続した都市はじつはこの堺以外には、京都と博多くらいしかない。中世から近世への町割の変化という観点で見ると、平安京以来の街路割の骨格を踏襲しつつ、一六世紀末の天正期に街区内に路地を通すことによって近世に対応した京都に対して、博多とこの堺は街路そのものを変更する町割の転換をおこなったことが、発掘による街路と地上の街路とのズレからあきらかになっている。ただ、近世段階の良好な絵図に必ずしも恵まれていない博多に対して、堺にはこの元禄堺大絵図がある。つまり、中世都市から近世都市への転換を町割という具体的な手がかりによってあきらかにできる最適な都市がこの堺なのである。そのためには総合的・学際的な研究が必要であることをあらためて強調したい。

玉井 哲雄(本館研究部・日本建築史/都市史)

註:小葉田淳・織田武雄 監修 朝尾直弘・山澄元・野間光辰 解説『元禄二己巳歳堺大繪図』前田書店 一九七七年刊