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歴史系総合誌「歴博」歴史系総合誌「歴博」

歴史系総合誌「歴博」 156号

連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

中世禁裏の地下官人史料

室町戦国期の中世禁裏については、天皇の日記や女官がつけた『御湯殿上日記(おゆとのうえのにっき)』・特権貴族の日記などが歴史研究に活用されるのみで、朝廷の下級実務官人の史料はほとんど知られていなかった。このため、室町戦国期の禁裏は、武家からの経済的支援に依存し、直属の公家集団も地方に下国して、公家社会の統括者としての地位までも喪失したという歴史像が描かれてきた。

こうした中で、歴博では高松宮家伝来禁裏本の共同研究を進めるとともに、二○○七年には船橋清原家旧蔵史料を収集し、二○○八年にも『中原師胤(なかはらもろたね)記』・『中原康貞記』・『中原康雄記』をあらたに館蔵史料とすることができた。これらは、中世禁裏の中央下級官僚機関である局務(きょくむ)・官務(かんむ)やその配下の六位外記史(ろくいのげきし)をつとめた地下官人の史料群である。しかも、大量の紙背文書があり、応永(一三九四-一四二八)年間から永正・大永(一五〇四-一五二八)年間をへて元亀・天正(一五七〇-一五九二)年間までの長期間に及ぶ史料群となっている。この結果、室町戦国期を通して禁裏の下級実務官人による行政執行の実態を調査・研究する条件が整備されることになった。今回はその一端を紹介しよう。

中原師胤記
写真1 『中原師胤記』。料紙は宿紙という蔵人所管轄の特注もの。
紙背文書の継ぎ目をあわせると「分配」の書面となる
写真2 紙背文書の継ぎ目をあわせると「分配」の書面となる。

『中原師胤記』は、四九枚の古文書からなる「日記残闕」として史料購入したもので、東京大学史料編纂所との共同調査によって、局務の日記として著名な『師郷記(もろさとき)』の欠損部分(応永二十八年~応永三十一年)に相当するもので、未紹介史料であることがわかった。しかも、応永三十 (一四二三) 年三月六日条には「予、暇を申して持常院に於いて出家七十二」と記されている(写真1)。ここから、中原師郷の父で局務をつとめた大外記(だいげき)中原師胤の日記であることが判明した。四九枚の料紙はすべて天皇の蔵人所が管轄していた宿紙(しゅくし)と呼ばれるもので、官庁の古紙を漉き返した灰色の紙で、ほんらい天皇直属の蔵人方のみが用いることのできる特殊料紙である。その紙背文書を継ぎ合わせるとほぼ四年分の「分配」とよばれる書面になる。一月から十二月までの禁裏でおこなわれる国家儀礼の年中行事を書き上げ、行事ごとの担当者である職事弁官の名前を書き込んだものである(写真2)。分配の書き方は、中原家の作法では古い行事は記載しないが、清家作法では廃止された行事も記載するという違いがあった。応永二十九年の「分配」は、局務中原師勝と大外記清原業賢(きよはらなりかた)とが相談して「清家作法」に統一したことがわかる(『康富記』)。事実、応永三十年の分配には実施されない行事も記入されていることが判明する。

公家史料の中には、この分配のように書状と古記録の間に属す史料群が多く、史料の性格が判然としないために歴史研究に利用されていないものが多い。原本と古記録を付き合わせることで、書面の機能をあきらかにすることができる一例である。

康富記 下請符集
写真3 『中原康貞記』。六位外記という地下官人の公務日記。 写真4 『中原康雄記』。戦国期禁裏の地下官人の公務日記。
官務大宮時元の自署 大宮時元書状
写真5 戦国期の公務が伝奏や内侍・外記史らにより執行されている。 写真6 高松宮家旧蔵禁裏本の『康富記』。康貞自筆本を康雄が書写したものの転写本。

『中原康雄記』(写真4)は、享禄五(一五三二)年の清原業賢記の抜粋からはじまり、天文一五(一五四六)年から天正六(一五七八)年まで七冊本となっており、康貞の子息で六位外記史をつとめた康雄の日記である。天文二十一・弘治二・永禄四・五・七・十・元亀二・天正四・五年分は闕本になっている。この両本は表紙に「日野家文庫」の貼紙があったといい剥がした痕跡が残っている。『中原康雄記』は「康雄私記」を江戸時代の壬生小槻忠利宿禰が書写し宝永三(一七〇六)年夏に裏打・合冊したもののその転写本である。両本は、宮内庁書陵部と早稲田大学図書館にも所蔵本がある。『歴代残闕日記』に「少外記康雄記」として紹介されたものは弘治三(一五五七)年記のみで壬生忠利蔵本を正保三年に中原師定が書写したものである。内容は、毎年の元日節会・白馬節会や任大臣宣下・関白宣下・県召除目・春日祭など恒例公事のほかに、足利義藤の武家御元服・将軍宣下や後奈良天皇の帝崩諒闇・践祚・倚廬還御・諒闇大祓や改元定など臨時公事が記録され、行政実務の担当者と用途調達などの様子を刻銘に記している(写真5)。室町戦国期の国家行事の行政事務は、儀式伝奏・上卿・奉行職事弁の担当貴族が任命され、官務・局務と六位外記史や陣官人・行事官など下級事務官がかならず配当されていた。院政期以来の職事弁官機構の上部・下部構造が戦国期の朝廷においても基本的に機能しつづけていたことが判明する。弁官方(べんかんがた)と外記方(げきかた)は別々の行政機構であったが、室町後期には弁官方に統合され、戦国期には官務と局務が一体化して両局のどちらか一方が奉仕していれば行事は実施され、両局不参でも六位外記史によって行政事務が執行されている事例もある。局務家よりも下位の六位外記史の記録が重視されるようになった。

高松宮家伝来禁裏本の『康富記』は、「中原康貞御筆」のものを「康雄」が書写し、それを江戸時代初期に転写したものである(写真6)。この家は六位外記を歴任し、中原康綱-康隆―重貞-英隆―康富―康顕―康貞―康雄-康政-康忠とつづき、局務の門弟・門生と呼ばれた。

康富記 清原宣賢の自筆書状
写真7 冷泉院町が六位外記史ら地下官人の知行地(『康富記』)。 写真8 船橋清原家旧蔵『下請符集』の紙背文書にある清原宣賢の自筆書状。
官務大宮時元の自署 大宮時元書状
写真9 船橋清原家旧蔵『即位下行記』にみえる官務大宮時元の自署。 写真10 船橋清原家旧蔵『下請符集』の紙背文書にある大宮時元書状。

六位外記史は織部町(おりべのちょう)や冷泉院町(れいぜいいんのちょう)を「知行之地」としており(写真7)、「知行之衆」六人が院町定使の宅で「会合」をもっていた。織部町知行をめぐる高橋員職(たかはしかずもと)と経師良秀(りょうしゅう)の訴訟で、後花園天皇は細々奉行致す者であることを理由に外記史の当知行をこのままさしおくように命じている(『康富記』)。地下官人の中でも外記史の知行地は天皇によって特別保護されていたことがわかる。

船橋清原家旧蔵史料も、室町戦国期に局務をつとめた清原業忠―宗賢―宣賢―業賢―枝賢―国賢―秀賢と相伝され、近世・近代の船橋家に伝来したものであった。紙背文書には少納言で天皇の直講をつとめ正三位の公卿にまで出世した清原宣賢の書状(写真8)も直筆のまま残っている。ところが、船橋清原家に伝来した『即位下行帳』には「文亀元(一五〇一)年八月廿二日大都事(花押)」という官務大宮小槻時元(おおみやおづきときもと)の自署があり(写真9)、「下請符集(げしょうふしゅう)」などの紙背文書にも時元書状が数多く残る(写真10・11・12)。さらに後小松天皇即位にともなう永徳二(一三八二)年と推定される官務壬生小槻兼治(みぶおづきかねはる)書状(写真13)まで含まれ、その日記『兼治記』も船橋清原家が相伝している(写真14)。いいかえれば官務をつとめた壬生兼治や大宮時元の自筆史料・記録類までが、局務清原枝賢の家に伝来している。両家の関係を調べてみると、大宮小槻長興息女が清原宗賢の室になり(『康富記』)、時元の女も清原業賢の室になり枝賢を生んでいる(尊卑分脈)。二代にわたり姻戚関係にあった。しかも大宮時元の子息伊治は、天文十八~二〇 (一五四九~一五五一) 年には官務でありながら周防に在国し局務清原枝賢がひとりで行政事務を取り仕切っていた。大宮小槻伊治は天文二十(一五五一)年九月に周防で討死して大宮家は断絶している。弘治三年~永禄二 (一五五七~五九) 年には局務枝賢と官務壬生朝芳の両局が参勤している。官務大宮家は局務清原家と姻戚関係にあり、職務上も両局輩といわれ共同で行政事務をとっていたことから、大宮家の史料群が船橋清原家に伝来したものと考えられる。室町戦国期の地下官人をとりまく歴史的環境が現代に残る史料群の中に投影されている。歴史の醍醐味をみる思いである

大宮時元書状 大宮時元請文案
写真11 船橋清原家旧蔵『下請符集』の大宮時元書状 写真12 船橋清原家旧蔵『下請符集』の中にみえる大宮時元請文案。
官務壬生小槻兼治書状 小槻兼治記
写真13 船橋清原家旧蔵『下請符集』の紙背文書にみえる官務壬生小槻兼治書状。 写真14 船橋清原家旧蔵の『小槻兼治記』。官務家の史料が局務清原家に伝来する。

井原今朝男(本館研究部・日本中世史)