刊行物
歴史系総合誌「歴博」
歴史系総合誌「歴博」 155号
[連載] 歴史の証人 写真による収蔵品紹介
碑(いしぶみ)の小径(こみち)-歴博中庭への古代碑展示-
日本の歴史と文化を展示している歴博の白い南欧風の建物の内側に、噴水のある中庭があって、来館者の休息やイベントに使われてきた。この中庭の回廊に、日本古代の碑の優品が、「碑の小径」として四月から展示開設された。展示品は七世紀から九世紀にかけての一〇基の石碑類(複製品)である。古代における碑の類は、全部で一覧表にみえる二四基しか知られておらず、その内で既に失われてしまったものが七基もある。歴博では全国各地に所在して実物を見てまわることが至難な古代碑類について、現状を正確に後世に伝え、研究を前進させうる資料として精度の高い複製品をつくることを計画し、大半の複製品を完成した。そこで既存の複製品や関連資料と合わせて、一九九七年に「古代の碑」の企画展示を行い、古代碑の全貌を開陳して好評を得たことがあった。その後倉庫に眠っていたこの収蔵資料を、館の総合展示の大規模な更新と歩を合わせて、日本列島の千有余年も前の古代からの時の流れと時代に生きた人々の息吹きを実感できるギャラリー展示として中庭に開陳したものである。一〇基の他に、最も大きい多賀城碑が第一室に常設展示されているので、ぜひ合わせて見てほしい。
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| 図1 階段下右廊の碑の小径 |
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| 図2 左廊の碑の小径 |
石に文字を彫りこんで開陳し、後世に伝えることは、東アジアでは古く中国殷代(紀元前一六~一二世紀)に発したが、朝鮮半島などの各国でも各々の歴史や文化を示す碑の文化が展開した。日本では比較的遅れて、古代(七~九世紀)に各種の形の碑が見られるが、造った碑の数が多くないのが特色の一つである。しかしその所在地は当時の国域の東や西にまで広く及んでおり、形も多様である。円首や方首の他、笠石をのせた形の蓋首式の碑が比較的多く、自然石状の例もある。石塔式や磨崖碑(まがいひ)もみられる。蓋首が多い点は、朝鮮半島と共通する様相である。九世紀以降にしばらく中断期をおくが、一三世紀以降の中世板碑の爆発的流行などにみるように、建碑の文化は全国的に盛んとなり、現代の歌碑や各種の記念碑の造立につながってきている。
図3 日本の古代碑一覧
このように、古代碑の分布は畿内にやや多いものの宮城県から熊本県に及ぶ全国的な分布を示している。北端の多賀城碑には、古代の日本国外北方に住む蝦夷(えみし)や靺鞨(あしはせ)と呼ばれた人々と領域についての碑文がみられる。また日本国南方の南島と呼ぶ島々には、遣唐使船の便のために木製の牌(はい)(円柱状の碑の一種)が建てられていたという。石の他に木が用いられていたことを考えねばならない。他にも焼き物の塼(せん)の碑が阿波国造碑として知られている。古代碑が少ないのは、木製で相当するものがあった可能性がある他に、先行する古墳時代から墓や記念物などの由緒が口碑・伝承として伝えられたことがあったのではないだろうか。各地で伝えられていた歴史や地理の情報は、中央で国の正史などとして編集されて吸収され、在地では失われたが、その地域ごとの文化状況が石碑に反映している点もみることができる。碑に先行して、列島の倭の歴史を語る金石文として、弥生時代の遺跡や古墳から出土した鏡・印・銭・有銘刀剣などが、各々の時代色を反映して遺存していたことが知られている。また律令時代には、木簡や墨書土器類が全国的に多量に使用されていたことが発掘で判ってきた。仏教関係でも、仏像などの銘や瓦類への文字資料が広くみられる。碑の造立も特色ある文化の一つとしてこの時代から始まったものであった。
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| 図4 本館複製の古代碑全貌(1)(多賀城はここにない) (右から) (1)山ノ上碑 (2)那須国造碑 (3)多胡碑 (4)金井沢碑 (5)宇治橋碑 (6)阿波国造碑(復元) (7)阿波国造碑 (8)宇智川磨崖碑 (9)宇治橋碑(復元) |
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| 図5 本館複製の古代碑全貌(2)[浄水寺碑群] (右から) (1)如法経碑 (2)南大門碑 (3)灯籠竿石 (4)塔の石製露盤 (5)寺領碑 (6)灯籠竿石を露盤にのせた現状 |
碑に近寄ってみていこう。古代碑の造立は五九六年の伊予道後温泉碑(今はない)を初例として、八二六年の浄水寺寺領碑まであり、大きさは円首形の多賀城碑が碑身で六尺と大きく、阿波国造碑が全体で一尺ほどの小碑に復元される。四尺内外の高さのものが多い。碑文の内容をみると、墓碑や先祖供養などを仏式で行った記念碑、造池や造橋などの事業記念碑、仏教関係の造寺や造像などの記念碑、造塔などを記念するものがある。また仏教の経典書写などの功徳によって怨霊を鎮めたかとみられる磨崖碑に、俗形宝冠の女人が下半から菩薩形になりかけた図像を添えた例もある。万葉仮名による仏足石の讃歌碑なども文化的に注目される。総じて国家権力や国の正史を誇示するものはみあたらない。形式の整った公碑もあるが、全体に私碑が多く、在地の状況を反映している。
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| 図6 多賀城碑にみる工作中の矢穴 | 図7 宇治橋碑の外枠線と上の割付線細部と寸法 |
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| 図8 宇智川磨崖碑の「大般涅槃経」左の上下二分の図像 | 図9 浄水寺寺領碑の一面の「慇懃」の文字のはみ出し |
目をこらして観察してほしい点がある。赤い彩色がかすかに残るものがある。本来の碑は赤や黒で彩色され、遠くから目立つように建てられていたのである。また、石材を割って削り、研磨し罫線などを割り付けて文字を彫りこんだ工人の諸工程が各碑に残る所があり、時代ごとの書風の違いが指摘できるもの、あるいは正史とは異なる碑文内容が刻まれているものもある。多賀城碑は最も大きい碑であるが、背面に石を割るための矢穴がまだ残っており、他にも削りや文字の仕上げの途中の状況が観察できる。多賀城碑はどうやら未完成であったらしい。他にも宇治橋碑では、有名な断碑としての本物部分から蓋首式の立姿が復元できたが、碑正面の文字の外枠線の上部に別の割り付け線があって、蓋首式に復元する根拠となっている。このような割り付け線は他の碑でもみられ、彫刻の工法の他に、当時の用尺の反映がみられて碑の年代の裏付けがとれる例もある。古代碑が集合して残っていた熊本県の浄水寺の碑群は、平安時代の初めの定額寺について、寺の由緒や寄進者の碑の他、寺領の土地などについての公文書そのものといった貴重な碑が残っていた注目される例である。南大門碑では五九.五cmの用尺、寺領碑では文字が枠内から下にはみ出した所や彫り忘れた文字を罫線上に彫り加えた所などがみられ、碑を彫った時の苦心のあとも歴然と残されている。
阿部義平(本館名誉教授・日本考古学)
































