刊行物
歴史系総合誌「歴博」
歴史系総合誌「歴博」 153号
[連載] 歴史の証人 写真による収蔵品紹介
瓦コレクション-瓦礫に秘められた歴史
瓦葺の建物が減ってきたとはいえ、まだまだ瓦は普通に見かけるなんということもないシロモノである。例えば、佐倉城址公園などを歩いていると、江戸時代の燻し瓦がガラガラ落ちている。手に取ってみる人など誰もおらず、ただ踏みにじられて土にめり込んでいるに過ぎない。意地悪爺さんが穴を掘れば出てくる、単なるゴミなのである。
しかし、瓦はそもそもどこにでもあるゴミではなかった。日本で初めて瓦が登場するのは、崇峻元(五八八)年から建造が始まる飛鳥寺においてである(写真1)。膨大な量の瓦が屋根に載せられ、先端には仏教の真髄を象徴する蓮華文様をあしらった軒瓦が飾られる。これまで誰も見たことのない荘厳な建造物は、人々を圧倒する権威の象徴だったのである。それから百年余りたち、藤原京の宮殿にも瓦が葺かれることになり役所にも使われるようになるが、住宅にまで瓦が普及するのは江戸時代に入ってから、防火対策のためである。すなわち、瓦は千年にわたって寺院や役所のような特別な建物にのみ並べられた、特殊な製品だったのである。
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| 写真1 奈良県明日香村飛鳥寺 軒丸瓦 (飛鳥時代) | 写真2-1 大分県宇佐市虚空寺 軒平瓦 (白鳳時代) |
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| 写真2-2 大分県宇佐市虚空寺 軒平瓦 平瓦部凸面を加工して硯に | 写真3 京都市東寺 軒丸瓦 (平安時代) 瓦当面を加工して硯に |
そのため、既に忘れ去られた古代の役所や寺院は、瓦が発見されることにより光が当てられることが往々にしてある。江戸時代以降、好事家たちが瓦を拾い集め、拓本を採って交換し合ったり、瓦を加工して粋な硯を作ったりすることが流行する(写真2、3)。そういった中から地道な研究も生み出されていき、拓本にも採集地を記すなどして歴史資料としての価値が高まっていく。発掘調査によって古代の瓦が大量に出土し、それをもとに詳細な分析が行われるようになったのは近年のことである。それまでは個々人が拾い集めた瓦をもとにした研究が進められてきた。また、好事家たちは大量に葺かれる丸瓦や平瓦にはあまり興味を示さず、文様のある軒丸瓦・軒平瓦を集めたがる。そのため、こういったコレクション資料のなかには、発掘調査では見つかっていない貴重な資料も多々含まれている。
歴博には宇野信四郎コレクションに含まれる瓦コレクション、水木コレクションに含まれる瓦コレクション、それに「日本各地出土屋瓦コレクション」の三つの瓦コレクションが所蔵されている。ここでは二〇〇六年に『国立歴史民俗博物館資料図録4』としてまとめられたものの、まだまだ知名度の低い「日本各地出土屋瓦コレクション」の一部を紹介したい。
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| 写真4 大阪府泉南市海会寺 軒丸瓦 (白鳳時代) | 丸瓦部凸面に「能師」のヘラ書き |
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| 写真5 大阪府枚方市九頭神廃寺 軒丸瓦 (白鳳時代) | 写真6 和歌山市紀伊上野廃寺 軒丸瓦 (白鳳時代) |
本コレクションは、八四二件、一一八一点に及ぶ資料群である。日本各地から出土した瓦が中心であるが、朝鮮半島や中国からの出土品も若干含まれている。時代も古代から近現代にわたる各時代の資料からなり、各時代・各地域の瓦を通覧できるコレクションである。採集場所を記した資料が多いのが特徴で、なかでも三重県の考古学者として知られる故鈴木敏雄氏が長年にかけて採集した旧楽山文庫所蔵資料は、三重県の古代寺院研究の基本資料とされている。
二、三点、詳しく見てみよう。
写真4は大阪府泉南市の海会寺跡出土、単弁八葉蓮華文軒丸瓦である。海会寺跡は国史跡に指定されており、発掘調査によって出土した瓦などは重要文化財になっているものもある。歴博所蔵資料はそれ以前の採集資料でもあり、そういった扱いは受けていない。丸瓦部の線刻は瓦を焼く前に記したもので、工人名や供給者集団、供給先などが書かれることが多い。「能師」銘はこれ以外には発見されておらず、その意味するものは未だ不明である。
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| 写真7 三重県四日市市智積寺 軒丸瓦 (白鳳時代) | 写真8 三重県津市斑光寺 軒丸瓦 (白鳳時代) |
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| 写真9 千葉県印西市木下廃寺 軒丸瓦 (白鳳時代) | 写真10 奈良県桜井市青木廃寺 軒丸瓦 (奈良時代) |
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| 写真11 京都府向日市長岡宮 軒丸瓦 (奈良時代) | 写真12 三重県鈴鹿市伊勢国分寺 軒丸瓦 (奈良時代) |
写真11の京都府向日市にある長岡宮跡から出土した重圏文軒丸瓦は、もともと奈良時代の首都平城京に対し、副都として設置された難波宮で使用された瓦である。桓武天皇は延暦三(七八四)年に長岡遷都の詔を発すると、急ピッチで長岡宮の中心部を建設し、半年で大極殿を建てることに成功する。これは、難波宮を解体し、瓦や柱などの建築部材を再利用して建てたために可能なことであった。長岡宮跡からは、ほかにも藤原京や平城京で使われた瓦、長岡遷都に際して新調された瓦が出土するが、これらを分析することで、どのブロックから建設が進められたかがわかる。
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| 写真13 三重県鈴鹿市伊勢国分寺 軒平瓦 (奈良時代) | 写真14 三重県松阪市天花寺廃寺 軒平瓦 (奈良時代) |
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| 写真15 三重県多気郡逢鹿瀬廃寺 軒丸瓦 (奈良時代) | 写真16 静岡県磐田市遠江国分寺 軒平瓦 (奈良時代) |
写真12は三重県鈴鹿市伊勢国分寺跡出土の珠文縁単弁八葉蓮華文軒丸瓦である。伊勢国分寺跡からは数種類の軒丸瓦が出土しているが、このタイプが最も多く見つかることから、国分寺創建時の瓦と考えられている。その他は補修の際に差し替えられた瓦というわけだ。軒瓦は、木製の型(笵)に文様を彫刻し、それをスタンプして瓦当面(文様部)を次々に作っていく。そのため、大量にスタンプしていくうちに、笵が傷んでしまうことがある。この瓦の中央部に横に走っている傷はそのせいで、この笵傷は瓦製作の細かな先後関係や、他の寺院から出土した同じ笵で作った瓦を同定するのに重要な鍵となる。
このように、瓦一点一点には多くの歴史が秘められている。
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| 写真17 茨城県石岡市小目代廃寺 軒丸瓦 (奈良時代) | 写真18 茨城県稲敷市下君山廃寺 軒丸瓦 (奈良時代) |
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| 写真19 京都市伏見城 金箔軒丸瓦 (安土桃山時代) | 写真20 滋賀県安土町安土城 金箔軒丸瓦 (安土桃山時代) |
村木二郎(本館研究部・考古学)














































