刊行物
歴史系総合誌「歴博」
歴史系総合誌「歴博」 150号
[連載] 歴史の証人 写真による収蔵品紹介
中世天皇の即位式準備と財政帳簿
歴博には高松宮家禁裏本をはじめとして中世公家文書や古記録などが多数所蔵されている。その中で今回は中世天皇の即位式を行う準備に関する史料を紹介しよう。
中世の天皇は在位中に次の天皇になる皇太子をきめておき、早い時期に譲位して自らは上皇として院政をおこない、上皇として死を迎え、家政職員である院司や近臣によって院中行事としての御葬礼を行うものという社会常識が存在した。
後花園院も寛正五(一四六四)年七月十九日に皇太子成仁に譲位した。成仁はその日のうちに「践祚(せんそ)の儀」を行い、草薙剱(くさなぎのつるぎ)と八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)という剱璽(けんじ)をうけとり内侍所に安置して天皇位を継承した。のちに後土御門院と追号される天皇である。天皇は、翌寛正六年十二月十二日即位由奉幣(よしのほうへい)といい即位した由を伊勢神宮に報告する勅使を派遣した。同年十二月二十七日即位式をおこなった。一年五ヶ月間の準備期間の行政事務と即位式を事務的に取り仕切ったのが大礼伝奏(たいれいてんそう)(即位行事責任者)の万里小路冬房、即位惣奉行(そうぶぎょう)攝津之親(これちか)、官務(かんむ)壬生晨照(みぶあさてる)らであった。
中世天皇の即位式の実態や準備過程や財政帳簿などについてはこれまで史料原本がのこっていないとして、近世天皇の禁裏文庫などの資料にもとづいて研究がおこなわれてきた。たとえば、江戸後期の宮中行事は宮内庁書陵部の「公事録」に記載され、その一部が『図説宮中行事』として刊行され、その中に「譲位剱璽渡御(じょういけんじとぎょ)之図」や「即位読宣命(そくいのせんみょうよみ)之図」などによってうかがい知ることができるにすぎない。
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| 写真1 寛永7年(1630)筆写の「後土御門院寛正六年御即位記」 | |
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| 写真2 『譲即部類』の中の「文亀御即位記」 | 写真3 出納平田職直が書写した「永正十五年御即位諸司注進帳及永正八年越前国所納帳」 |
文献史料としては歴博の田中穣氏旧蔵典籍古文書の中に『譲即部類(じょうそくぶるい)』という天皇即位関係記録群が残る。この中には後土御門院が寛正六(一四六五)年十二月二十七日に即位式をおこなったときの「後土御門院寛正六年御即位記」(写真1)や後柏原院の即位準備の「文亀御即位記」(写真2)「永正十五年御即位諸司注進帳及永正八年越前国所納帳」(写真3)などがある。しかし、これらはすべて、江戸時代になって蔵人所出納(くろうどどころのしゅつのう)をつとめた大蔵大輔平田職直(もとなお)が「清家御記」を借用して寛永七(一六三○)年他人に書写させた転写本であり、その史料群の由来や歴史的性格などはわからなかった。
このたび二○○七年に歴博が収集した船橋清原家旧蔵史料は、局務や官務の上司である少納言をつとめた清原家に伝来した史料群である。その中に寛永七年に平田職直が借用・書写した「清原御記」の原本がそっくりそのまま含まれており、室町・戦国期の歴代天皇による即位式にかかわる財政帳簿七冊の原本を船橋清原家が相伝していたことが判明した。たとえば、(写真1)の史料は「御即位下行帳」(写真4)、(写真2)の史料は「御即位第四文亀下行帳」(写真5)、(写真3)は「御即位下行帳《越前永正八》」(写真6)に対応する。原本が発見されたことで、これまで『譲即部類』と名づけられて古記録の部類記(宮中行事ごとの記録を抜き出し分類したもの)と思われていたものが、実際には「即位下行帳」という朝廷行事用途の財政帳簿であることが判明した。今後両者の比較検討・史料批判がすすめば、史料群の由来が判明し史料の歴史的性格を確定することができ、公家官制史研究や禁裏財政研究に寄与できるものといえよう。
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| 写真4 船橋清原家旧蔵史料の「御即位下行帳」。平田職直書写「後土御門院寛正六年御即位記」の原本に相当する | |
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| 写真5 新出史料の「御即位第四文亀下行帳」(写真2の原本史料) | 写真6 新出史料の「御即位下行帳」(写真3の原本史料) |
しかも、田中本・船橋清原本と直接関連する禁裏財政帳簿群が歴博所蔵の広橋家旧蔵典籍古文書の中にも存在することが判明した。たとえば「後土御門院御即位惣用帳(そうようちょう)」(写真7)となづけられた史料が広橋守光の自筆本として伝来している。これは後土御門天皇が寛正六(一四六五)年十二月の即位式をおこなった際に大礼伝奏をつとめた万里小路冬房が作成した財政方針二五か条を記したものであった。それを、永正十八(一五二一)年になって後柏原天皇の即位伝奏に就任した広橋守光が書写して活用したものである。巻末裏書に文亀元(一五○一)年閏六月七日に摂津中務大輔元親(もとちか)本を行事官(行事所の庁官)行賢が密々に見た事が記されている。田中本や舟橋清原本の文亀下行帳などを作成した関係者とまったく同一系統の帳簿群であることがわかる。
写真7 広橋本の広橋守光自筆「後土御門院御即位惣用帳」
広橋家本には「永正度御即位両足請取」と題した請取状十二通が巻子本にまとめられている(写真8)。これは永正十八(一五二一)年三月一七日から三月二十六日までに即位伝奏広橋守光が、即位惣奉行の摂津政親に命じて公方御倉から即位用途を支払わせたときの請取状十二通を原本のまま巻子本にして保存伝来したものである。
後柏原院は明応九(一五○○)年十月二十五日に践祚(せんそ)し、文亀元(一五○一)年四月二十九日に即位定(そくいさだめ)で即位伝奏町広光、惣奉行攝津元親(せっつもとちか)、官務大宮時元(おおみやときもと)などの陣容を決め、同年十月二十六日には丹後国段銭から礼服新調用途が支払われている(『宣胤卿記(のぶたねきょうき)』)。しかし準備費用が不足し、永正八(一五一一)年には越前段銭から準備用途を支出し、永正十五(一五一八)年にも即位準備の必要経費を諸司に注進させ、これに官務時元が関与している。彼は永正十七(一五二○)年四月十一日に急死している。結局、二十二年間の準備期間を要して即位式をおこなったのは永正十八(大永元・一五二一)年三月二十二日であった。準備にあまりに長い時間と経費を費やしたので、即位伝奏も広橋守光、即位惣奉行は摂津政親、官務も壬生于恒(ゆきつね)に交替している。
写真8 広橋本の「永正度御即位料足請取」-永正18年即位用途料の請取状12通を連巻にして保存したもの。
こうしてみると、歴博には田中穣氏旧蔵典籍古文書の平田家史料、新収船橋清原家史料、広橋家旧蔵典籍古文書の中に、後土御門院と後柏原院の二代にわたって使用された「即位惣用帳」と「即位下行帳」という禁裏財政帳簿の原本が存在することになった。
室町・戦国期の天皇制が衰退し、朝廷の財政は幕府に依存し幕府政所が管理していたというのがこれまでの通説である。しかし、それならなぜ官務時元や即位伝奏守光らがそれを書写し行政執行に使用し、船橋清原家が大切に相伝してきたのか説明できない。やはり幕府と朝廷の役人が一体となって同一の帳簿を共同利用しており、禁裏と幕府が統合して中世国家としての官僚機構や共同財政を組織し共同執行していたとみるべきなのではなかろうか。禁裏の財政帳簿群の資料研究は、禁裏と幕府の官僚機構の関係を問い直すことにも役立つであろう。
井原今朝男(本館研究部・日本中世史)






























