刊行物
歴史系総合誌「歴博」
歴史系総合誌「歴博」 148号
[連載] 歴史の証人 写真による収蔵品紹介
小さな竹片ながら-歴博所蔵の夾
(きょうさん)について
この写真(写真1)を見てすぐにこれが何だかわかる人が、いま日本に、いや世界に、何人いるだろうか。長さがほんの二寸(6.06センチ)ほど、薄さ1.5ミリくらいの小さな竹製の道具である。これは、夾
(きょうさん)と呼ばれる平安時代の文具である。夾算、狭算などといろいろに書かれる。
除目(じもく)の直物(なおしもの)
この夾
(きょうさん)とは、平安時代に除目(じもく)の直物(なおしもの)の訂正箇所を表示するために用いられた文具である。除目というのは、中央の諸司や地方の諸国の官人を任命する儀式のことである。最も規模が大きく重要なものが春の県召除目(あがためしのじもく)と呼ばれるものであった。直物とは、その除目において、召名(めしな)つまり任官すべき人たちの名前を列挙した文書の記載の中で、姓名や官職などに誤りがあった場合、それを書き改める儀式のことである。そして、その訂正された召名のことをも直物といった。
夾
(きょうさん)は、その直物を行なうときに、訂正をしたその所々の訂正箇所を明示できるように挟んでおくものである。有職故実書として著名な大江匡房(1040-1111)の『江家次第』巻四、除目直物条には、この夾
の用い方が記されている。源師時(1077-1136)の日記『長秋記』の大治四年(1129)二月十七日条には、実際に除目の直物において夾
が用いられたことが記されている。
また、一般的に巻子や冊子の読みさしの箇所に挟んで用いられることも多かった。清少納言(生没年不詳 正暦年間990-995皇后定子に出仕)の『枕草子』二十段には、『古今和歌集』を読んで、上の句を読み下の句をあてる遊びに興じる中で、その途中いったん休憩するのに際して、読みさしのところに夾算を挟むという記事が見える。 「古今の冊子をおまへにおかせたまひて」というくだりで、「やがてみな読みつづけてけふさんせさせたまふを」とあり、そのあとの記述に「十巻にもなりぬ。さらに不用なりけりとて、夾算さしておおとのごもりぬるもまためでたしかし」とある。
夾
(きょうさん)から栞(しおり)へ
夾
(きょうさん)は後世の栞(しおり)の役目を果たしたものである。その、夾
から栞へ、という変化の背景には、古代から中世にかけての書籍の装丁の変化、という歴史があった。巻子装から冊子装への変化である。現存最古の冊子本は、仁和寺所蔵の国宝『聖教三十帖』冊子とされているが、その実際の形態は粘葉装(でっちょうそう)と呼ばれる装丁である。この後の冊子本の主流は胡蝶装(こちょうそう)と呼ばれる装丁となり、室町時代以降の冊子本の主流は袋綴本(ふくろとぢぼん)となる。こうした巻子本から冊子本へ、という書籍の装丁の変化の中で、夾
は使用されなくなり、栞の利用が一般化したのである。そして、近世に至ってはもう、夾
とは何かさえ、一般にはわからなくなってしまっていた。

写真1 夾
(きょうさん)(本館蔵)
伊勢貞丈の『安斎随筆』
伊勢貞丈(1717-1784)といえば、博覧強記で知られる江戸時代中期の著名な有職故実家である。その伊勢貞丈でさえ、この夾
には深い関心をもっていたにもかかわらず、その実物は見ていなかった。『安斎随筆』巻七に、「高野山の古蔵書に夾みてありしを写し伝えたりとて村井敬義が制したりしを、一つ予に与えたりき」とある。つまり、それは模造品であった。そこに夾
の図も描かれているが、それは現物の夾
とはまったく異なる図である。そして、その夾
の解説を中山忠親(1131-95)の日記『山槐記』を引用しながら行なっている。
また、伴藁蹊(ばんこうけい)(1733-1806)の『閑田次筆』(巻二 考古)には、「西村正邦、予が七旬のことぶきに七種風流の物を贈られし其一色に夾
二枚あり、一枚は三寸、一枚は三寸六分、三寸の方は江次第の寸法とぞ、(中略) また一枚の長きは高野山の古文書にはさまりて出しを、さきに藤叔蔵うつされし形也といへり」とある。これも模造品であった。これらの記述からわかるのは、江戸時代の学者や文化人にとって、この夾
という古代の文具は、ぜひともその実物を見てみたいがそれが叶わぬ、たいへん珍重すべきものであったということである。
そんな中で、この夾
が豊富に所蔵されている場所が実は江戸時代にもあった。それが法隆寺である。三浦蘭阪の『斑鳩日記』には、天保七年(1836年)九月に、友人と法隆寺を訪問して寺宝を見学したときの記事がみえる。「又ちひさく竹へきにて造れる挾算あまたひつより取きて、ひとひとのなかに出してよきにわかちねといへり。こは此寺の古製にて、世のすきものも知らすとなん」とある。つまり、当時の法隆寺では、経典や文書を納めた櫃の中に本物の夾算がたくさん残っていたことがわかるのである。しかし、これはあくまでも法隆寺に限られたことであり、一般にはもちろん、前述のように伊勢貞丈たちでさえ、その実物は見たこともなかった。そして、近代から現代に至ってはもうその存在さえ知られることのない、歴史の中で忘却されていった、まさに土中ならぬ大気中の、遺物、となったのである。
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| 写真2 萩野氏作成の夾 |
写真3 萩野三七彦氏 |
法隆寺で発見された夾
(きょうさん)
さて、本館所蔵のこの夾
(きょうさん)であるが、これは早稲田大学名誉教授で中世古文書学の碩学荻野三七彦氏(1904~1992)の御令室、荻野繁子氏より本館へ寄贈されたものである。荻野三七彦氏によるこの夾
の入手のいきさつは次の通りである。
昭和7年(1932年)の夏のこと、荻野氏はまだ28歳で東京帝国大学史料編纂所業務嘱託であった。当時、荻野氏は毎年夏の七月八月には法隆寺へと通い、炎暑の中、塵埃と虫糞が机上を汚す作業の中で、法隆寺一切経の整理を行なっていた。その際、『大治一切経』六百巻の山積みの中に紛れ込んでいた『随聞記略抄』と題する書物に挟んであったこの夾
を発見したのであった。まぼろしの夾
がそのとき荻野氏の目の前に現われたのである。さっそく佐伯定胤和上に報告したところ、佐伯和上は研究上の価値も高いとして、若き荻野氏の手元にそれを保存し研究に資するようにと指示されたのであった(写真2)。
『随聞記略抄』
この夾
(きょうさん)が挟まれていた『随聞記略抄』は、寛治六年(1092)の奥書をもつ典籍である。おそらく現在も鵤文庫に秘蔵されていることであろう。荻野氏によれば、次のようである。
(表紙)「随聞記略抄 増覚」
(内題)「随聞記略抄十巻 禅那金剛 撰」
(奥書)「寛治六年五月一日書了 為往生極楽也 増覚」
(裏表紙)「覚印 伝受之」
(寸法) 縦19糎(センチ) 横16糎(センチ)
(装丁) 粘葉装(でっちょうそう)の古い形式
この典籍を書写した増覚は、法隆寺の聖霊院(しょうりょういん)の供養導師をつとめた僧である。聖霊院は経尋律師が法隆寺別当のときに東室の南端を改造して造営したもので、聖徳太子像ほか五体の木像を安置していた。保安二年(1121)十一月二十一日にその開眼供養が行なわれたが、その数年後に聖徳太子絵像「太子御影」が安置され、そのときの供養導師に「専寺住僧増覚」がみえる。「御物本古今目録抄」にも、「増覚入寺」とある。入寺とは入寺僧のことで社僧の名称の一つである。入寺僧は数人いてその中から選ばれて執行となるのが決まりであった。裏表紙にある覚印は、増覚の弟子で、『法華文句』という粘葉本十帖に康治元年(1142)と保元二年(1157)にその覚印の名がみえる。
歴博への寄贈
法隆寺の佐伯定胤和上からこの夾
を頂戴した荻野氏(写真3)は、これをたいそう大事に研究室に保管されていた。そして、同氏の逝去後、故人の遺志にもとづき歴博に平成11年(1999)3月に寄贈されることとなった。古代の遺物として貴重であるだけでなく、その伝来の状況が明らかである点に、この夾
には歴史学的かつ民俗学的にきわめて高い資料価値があるといってよい。この夾
という貴重な実物資料が、材質の問題も含めてこののち日本の歴史と文化の研究の上で国内外の研究者によってさらに役立てられることを念願するしだいである。(参考文献 荻野三七彦『日本中世古文書の研究』1964)
厳島和歌浦図屏風
厳島と和歌浦とが対になって描かれている屏風のうちの、これは厳島図(写真4) である。2006年3月~5月に開催した企画展示「日本の神々と祭り 神社とは何か?」で展示したものである。この厳島の景観描写の中で注目されるものの一つが南蛮人の存在(写真5)である。一般にポルトガル船の来航が禁止されるのは寛永16年(1639)とされているので、単純に考えれば、この屏風が描かれたのはその寛永16年(1639)以前ということになる。しかし、この屏風にはもう一つの注目点がある。それは、その建設の歴史年代がはっきりと知られている能舞台(写真6)が描かれているという点である。

写真4 厳島和歌浦図屏風
2006年のその神社の企画展示の展示プロジェクト委員であり、本館客員教授(平成16年度-18年度)であった広島大学大学院教授の三浦正幸氏によれば、厳島神社の能舞台の沿革は次の通りである。
永禄11年(1568) 観世大夫が厳島に来る。海の中に能舞台が仮設される。
慶長10年(1605) 島内の材木を伐って、能舞台が建てられる。
延宝8年(1680) 現在の能舞台が建てられる。
この屏風に描かれた能舞台は楽屋を連ねた本格的な構造であり、永禄の仮設のものではない。したがって、慶長10年(1605)あるいは延宝8年(1680)の再建のものと考えられる。慶長10年の能舞台は慶安3年(1650)ころまでは確実に残っていたが、延宝期には建て替えられている。能舞台という建物の等級からすれば、まだ耐用年限には達していなかったはずで、延宝期のその建て替えの理由は形式が正式ではなかったためと考えられる。慶安の指図を見ると、柱が円柱(正しくは角柱)であったり、廻縁があったり(普通はない)、側面に楽の座がなかったりしており、まったくの田舎造りであったことがわかる。
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| 写真7 小袖姿の女性たち | 写真6 描かれた能舞台 | 写真5 南蛮人が描かれた部分 |
そこで、三浦氏によれば二つの可能性があるという。一つは、これを慶長の能舞台を描いたものとみるならば、慶長10年(1605)から寛永16年(1639)までの間に描かれたものとなる。もう一つは、これを延宝8年(1680)の能舞台を描いたものとみるならば、それ以降に描かれたもので、南蛮人など前代の風俗は模写によるものということになる。建築史学の立場からいえば、後者の可能性が高い、それが三浦氏の見解である。
一方、同じく2006年の神社の企画展示の展示プロジェクト委員であり、有職故実の専門家で本館客員教官(平成17年度客員助教授、18年度客員教授)、神奈川大学特任教授の近藤好和氏によれば、この絵に描かれている服装は、男女ともに現在の和服と同じ重ね小袖の着流し姿であり、女子の服装の一部に、袂(たもと)の長い小袖、つまり振り袖が描かれている点が注目されるという(写真7)。女子の小袖に振り袖が現れるのは元禄(1688-1705)に入る頃と考えられている。そこで、振り袖が描かれているこの絵も、元禄頃あるいはそれ以降に描かれたと考えられるわけで、建築史からの三浦氏の見解を補強する。
出雲大社及境内周辺図
出雲大社の境内とその周辺を一幅に描かれていた掛軸であるが、なぜかそれが三幅に切り分けられている。軸は嵌め込み式になっている(写真8)。2006年の神社の企画展示の展示プロジェクト委員であり、古代出雲歴史博物館の学芸研究員の岡宏三氏によれば、三幅に切ったのはおそらくは持ち運びの便利のためで、出雲大社の信仰を各地に広めた御師がその勧化の際に用いたものと推定されるという。珍しい掛軸である。箱の裏書には「西梶」とあり、その人物がこの掛軸をもって勧化を行なった出雲の御師の一人と推定される。
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| 写真8 出雲大社及境内周辺図 | 写真9 拝殿 |
先の三浦正幸氏によれば、この絵図の中にも貴重な歴史情報が含まれているという。たとえば、次の二点である。中央下部に出雲大社の拝殿が描かれているが、そこに入母屋破風の妻面に二匹の龍の彫刻が見える(写真9)(写真10)。これは豊臣秀頼が再建した慶長年間の本殿の妻にあった龍の彫刻を、江戸初期の寛文年間の本殿建て替えの際に、あらためて拝殿に移したものである。
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| 写真10 二匹の龍の彫刻 | 写真11 本殿正面 |
この絵図からすると、反対側の妻にも龍が2匹いたと考えられる。社家の記録では、慶長期の本殿の「南妻」に龍が二匹ずつとあるが、それは正しくは「両妻」であったのを「南妻」とした誤記(写本では「両」になっている)であるらしいことが、この絵から推定される。「南」と「両」とが筆記上はよく似た字体となるために、社家の記録では「南妻」と書かれ、その写本では「両妻」と書かれているのだが、この場合にはむしろ写本の「両妻」の記述の方が正しいということになる。絵画資料によって文字記録の誤記を修正し、より正確な史実を復元することができる一例である。
また、本殿正面左の蔀(しとみ)がこの絵では跳ね上げて開けてあるのも注目される(写真11)。現在では閉められており、開けることなど考えられない。しかし、寛文期の造営の当時はこの巨大な蔀を開けていた時期があったらしいことが推定される。この蔀は全国最大で、人力で開けることは難しいと思われるが、文字記録に伝えられていない史実を絵画資料が推定させる一例といえる。
実は今年は平成の遷宮修造を記念して、この絵のように本殿内部の拝観が許されている。歴史的にもこの稀有なる機会にぜひ参拝をお勧めしたい。
新谷尚紀(本館研究部・日本民俗学)

































