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歴史系総合誌「歴博」歴史系総合誌「歴博」

歴史系総合誌「歴博」 142号

[連載] 歴史の証人 写真による収蔵品紹介

近世の湯屋・風呂屋

汗をかいた時や体が冷えた時にひと風呂浴びるのはなんとも気持ちが良い。 風呂=フロは岩窟を意味するムロが転訛したものということだが、近世の西日本では風呂、東日本では湯と呼ばれており、江戸では風呂屋のことを「湯屋」または「銭湯」と呼んでいた。岡本綺堂は『東京風俗十題』のなかで、次のように書いている。

湯屋を風呂屋という人が此頃だんだん増えてきたのを見ても、東京の湯屋の変遷が窺い知られた。勿論、遠い昔には丹前風呂などの名があって、その頃は江戸でも風呂屋と呼んでいたらしいが、風呂屋の名はいつか廃れて、僅かに三馬の『浮世風呂』にその名残りを留めているに過ぎず、江戸の人は一般に湯屋とか銭湯とか呼び慣わしていた。

時代考証に厳しかった綺堂にしてみれば、江戸を舞台にした時代小説などで風呂屋などと書かれては我慢できなかったのだろう……ということで、ここでは近世の江戸の浴場についてみてみよう。

風呂とは大雑把に云ってしまえば蒸風呂のことである。江戸に風呂屋ができたのは天正一八(一五九〇)年~一九年のことといわれ、伊勢の与市なるものが銭瓶橋(千代田区大手町)で営業を始めたと伝えられ、この風呂とは蒸風呂のことであったようだ。

風呂に対して湯を浴槽に張った中に入るのが一般的になるのがいつ頃からかは定かではないが、現在では近世の浴場といえば湯の中に入るのが当然のことになっており、こうした浴場が江戸では湯屋とか銭湯と呼ばれるようになったわけである。

湯屋といっても現在のような浴槽があったわけではない。浴場の中に囲いがあり、その中に浴槽がしつらえてあった。客はこの囲いの中に屈んで入ったが、江戸ではこの入口のことを「石榴口(ざくろぐち)」と呼んだ。それは囲いの中に屈んで入る=屈み入るが鏡鋳るに通じるためである。鏡を鋳るとは鏡を磨くことで、鏡を磨くには石榴の実から採った酢を使ったからである。

競細腰雪柳風呂 競細腰雪柳風呂 競細腰雪柳風呂
競細腰雪柳風呂

歴博では江戸の「湯屋」に関する資料として一恵斎芳幾の三枚続の錦絵「競細腰雪柳風呂(くらべごしゆきのやなぎゆ)」を所蔵している。「風呂」とあるが湯屋の情景を描いたもので、改印から出版されたのは明治元年であるが、近世の湯屋の様子をよく示しているので、この錦絵と喜田川守貞の『近世風俗志』などをもとに、近世後期の江戸の湯屋についてみてみよう。

湯屋の入口では手拭を肩にした女性が番台におひねりを置いている。通常おひねりを置くようなことはしない。おひねりを置くのは湯屋にとっては特別な日で、これを紋日・物日と呼んだ。紋日は元旦から七日まで、二月の初午・五月の端午の節句、一一月の冬至、一二月の煤払いをはじめ年間二〇余日程あった。こうした紋日には一二文を包んだおひねりを持参した。紋日のうち一月一六日と七月一六日は「もらい湯」と称し、この日の収入は使用人である番頭の収入になった。

脱衣場では籠に衣類を入れているが、番台の脇に「わ」と書かれた戸棚が見える。これも衣類を入れるところである。籠に入れたままでは物騒であるから、籠ごと戸棚に入れたのであろうか。脱衣場では時として衣類等の盗難事件が発生したが、脱衣場での盗みは「板間働(いたのまばたらき)」と呼んだ。よくある板間働きは、粗末な着物で来て、他人の高価な着物を着て帰ってしまうというものである。

脱衣場と洗い場の境には青竹が敷き詰められている。湯上り客がここで足などの水分を流すためだろう。

何が原因なのか洗場では大喧嘩の最中である。暴れている女性の背後から背を屈めて朱塗りの囲いの間から出てくる女性がいるが、ここが石榴口である。『皇都午睡』によると、「風呂は中が狭くて底が深く、腰かけはない。しかも湯は熱いため、体を湿す程度である。中は暗くて昼間でも顔が見えないほど」であるから、これでは下手をしたら子供など溺れて茹で上がってしまうが、石榴口のある浴室とは蒸風呂と湯浴を兼ねたようなものだったのだろう。

浴槽から出て洗い場でいよいよ体を洗うが、勿論石鹸など使わない。浴用洗剤は糠である。糠は糠袋に入れて使うが、ほとんどの女性はこれを持参した。番台で糠袋を借りることもできたが、糠は買わなければならなかった。糠は四文程度であったが、慶応二(一八六六)年以降は一二文になっている。江戸では糠袋を返却する必要はなかったが、京坂ではこれを返却した。男性の糠袋の使用は少なく、一〇人中二~三人という。男がいそいそと糠袋などを持って湯へ行くなど格好が悪かったのだろう。使用済みの糠袋は糠箱に捨てるが、錦絵の中にも「ぬか袋」と書いた箱が置いてある。

洗場には丸い小桶と小判型の大きめ桶があり、小判型の桶は留桶と呼ばれていた。小桶は高さ直径共に一八センチ余、留桶は高さ一八センチ余、径が二四センチ余と三〇センチ余であった。留桶は個人あるいは家族用の桶である。どのような手続きをとれば留桶を使用できるのかは定かでないが、留桶は毎年一〇月二〇日前に新調する。湯屋側はその旨を紙に書き貼り出し、これを見た留桶の利用者はその料金を支払うが、料金は特に決まっておらず、金一分を出すものもいれば数百文の客もおり、最低線は二百文であった。客の支払った留桶新調代は貼り出されたというから、見栄を張った客も随分といたことだろう。

正月と上巳(三月三日)・端午・七夕・重陽(九月九日)には客が湯屋の使用人に二百文を祝儀として与える慣習があったが、その客には使用人が入浴するたびに小桶二つと留桶に湯を汲んでくれ、背中も流してくれた。

特別な日に祝儀を出すのではなく、月末に番台に支払うところもあったようで、地域によって異なっていたらしい。要するに留桶を使うには余分な費用がかかったわけである。留桶の中に子供が入っているが、幼い子供連れの場合留桶に子供を入れておき、親は小桶を使うこともよく行われていたという。留桶もまた糠袋同様利用者は女性に多く、一〇人中九人が利用したが、男性はほとんど利用しなかった。

洗場の壁面には各種広告が貼ってある。整髪用の油「丁字油」や「おしろい百と也すゞめ香」はいかにも女湯の広告である。そのほか浄瑠理・軍談をはじめ円朝の広告も見える。

糠袋で磨き上げたあとは上り湯(岡湯ともいう)で体を洗い流すことになるが、上り湯は石榴口の右脇にある。上り湯の上には「上り湯は何杯でも使って下さい」と貼紙がある。これですべて終了である。

錦絵には描かれていないが、湯屋には二階座敷があった。但し二階への階段があるのは男湯だけで、いくばくかの金を支払って二階で茶を飲んだり、将棋や碁あるいは噂話しなどしてのんびりすることができた。この二階は句会や碁・活花などの稽古の場所としても利用されていた。

昭和元年に出版された『漫談明治初年』によると石榴口のある浴場について次のように書いている。

昔の石榴口の銭湯は、皆二階があって、女が番をして居て、お菓子などを売っていた。(中略)十年頃は未だ石榴口の湯が盛んでした。(中略)当時の風呂は石榴口を這入ると、中にカンテラが一つぼんやりついているだけで、湯気が濛々(もうもう)として不衛生なものだった。いくら熱くしてもうねるわけではないし、私どもは、子供の時分だったので、中に這入らず湯槽(ゆおけ)に掴(つか)まって居た。随分暢気(のんき)なものでした。

東海道中膝栗毛
東海道中膝栗毛

『東京風俗志』によると、現在のような風呂ができたのは明治一〇年頃で、鶴沢紋左衛門という者が神田連雀町に開業したのが始まりという。

江戸や京・大阪のような都市部はほぼ石榴口を設けた浴場であった。都市部に住む一般の人々は湯屋に行ったが、中には自宅に風呂を作る家もあった。自宅用の風呂は桶風呂が一般的であったらしい。

五右衛門風呂も各地で使われていた。現在の五右衛門風呂は鉄製で鍋のような形をしているが、江戸時代には鉄が高価であったため、桶の下部が土製でその下から薪を焚いた。そのまま風呂に入ると足を火傷してしまうため、風呂の上に浮いているフタを沈めて入った。

『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛・喜多八は小田原宿の旅籠屋で初めて五右衛門風呂を経験する。浮いているフタをとって入ったため熱く飛び出してしまうが、そばにあった下駄を履いて入っている。しかし喜多八は風呂の中で下駄を何度も踏みつけたため、底を踏み抜いてしまう。彼らは『金毘羅参詣続膝栗毛』の中でもう一度五右衛門風呂を経験することになる。丸亀に到着した二人は旅籠屋に落ち着くが、そこの風呂は素焼の瓶で出きた五右衛門風呂であった。説明図によると瓶の厚さは三センチほど、直径と深さは一メートル弱で、これをカマドに乗せて湯を沸かした。喜多八は再び底を抜いてしまうのではないかと心配して、湯に入らず体を洗っている。

このほか樽状の蒸風呂もあった。その一つが籠風呂と呼ばれるもので、樽状の桶の中に熱湯を入れたり、下から沸かしたりして上からワラで編んだ笠状のフタを被せて体をムラスものである。これであれば水も薪も少なくて済んだであろう。

大名の事例を一つ紹介しておこう。参勤交代の時、大名は風呂桶まで持参したが、これはタライのようなもので、これを浴場に置き適温の湯を入れて利用した。

湿度の高い日本ではどうしても風呂に入りたくなってしまう。現在各家庭に風呂が普及しているため公衆浴場は激減してしまっている。その一方、スパランド・クアハウス・スーパー銭湯などと称する大型浴場施設が各地に出来ている。いくら生活の洋風化が進んでも、入浴だけは近世以来の風呂が日本人にはあっているようである。

山本光正(本館研究部・日本近代史)