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歴史系総合誌「歴博」歴史系総合誌「歴博」

歴史系総合誌「歴博」 141号

[連載] 歴史の証人 写真による収蔵品紹介

映画カメラの外側

歴博が所蔵する 「北海道沙流(さる)川アイヌ風俗写真」(三九〇点、うち三二三点はガラス乾板)には、アイヌ民族の儀礼「イヨマンテ」を撮影したものが含まれている。親熊を猟で仕留めた際、残された子熊は人の手で一、二年間育てられ、そののち盛大な儀式が行われて、子熊の魂が神の国に送られる。アイヌ民族は、熊を神の仮の姿と考え、神がみやげとして持ってきた肉と毛皮のお礼として、盛大な儀式を催して熊の魂を神の国に送り返し、その再来を願うとされる。
これらの写真は、北海道沙流郡平取(びらとり)の写真技師・富士本繁蔵氏が、スコットランド出身の医師・ニール・ゴードン・マンローの依頼で撮影したものとされる。
マンローが来日したのは明治二四(一八九一)年、二七歳のときである。マンローは横浜や軽井沢で医療活動を行う傍ら、日本の先史時代に深い関心を寄せ、横浜の三ツ沢貝塚の発掘調査など、考古学の研究をおこなった。その後マンローの関心はアイヌ文化の研究へと移行し、大正時代初期には北海道の数箇所でアイヌ文化についての調査をおこなった。
昭和に入ると、マンローのアイヌ研究はさらに本格的になっていった。昭和五(一九三〇)年一二月三日の『室蘭毎日新聞』は、マンローが北海道の二風谷に長期滞在して研究をおこなっていること、同地に永住する意向をもっていること、そして、一二月二五日に、旭川方面から買って来た二歳になる熊を使ってイヨマンテを行う予定であることを伝えている。
この写真コレクションに写っているイヨマンテは、この時におこなわれたものと考えられる。購入した熊を使って、研究のためにおこなわれたイヨマンテであり、本来的な目的でアイヌ民族が自らおこなったものではなかった。明治以降のアイヌ民族の同化政策によって、イヨマンテが本来の目的と形式で行われることは少なくなり、一九二〇年代後半には、興行的な目的で行われるイヨマンテのほかに、学術研究のために行われる例が見られるようになる(小川正人「イオマンテの近代史」、『アイヌ文化の現在』一九九七年、札幌学院大学人文学部編集・発行)。マンローがおこなったイヨマンテもそうしたもののひとつである。
本コレクションの中には、カメラをもった男が写っているものが数点ある。カメラマンが持っているのは、「アイモ」という三五ミリフィルムの映画用のカメラである。当時、三五ミリ用のカメラで普及していたのは、大型で重いミッチェルやパルボなど、機動性の低いカメラであったが、アメリカのベル&ハウエル社製のアイモは、小型で軽く、手持ちで撮影できるなど、機動性に優れていた。また、フィルムを送る動力はぜんまい式なので、電気も必要なく、野外での撮影に適しており、上海事変以降、戦地の様子を報道するカメラとして使われたことでも知られている。
しかし、アイモに装填できるフィルムは、一回につき百フィート。およそ百秒の撮影ごとにフィルムを装填しなおさなければならない。また、ぜんまいを最後までまくと、およそ五五秒まで連続撮影できる仕組みだが、装填したフィルム百フィートを撮りきるには、途中でぜんまいを巻きなおさねばならない。
イヨマンテは、屋外や屋内で様々な儀式がおこなわれ、歌や踊りなど動きも多い。マンローは、このイヨマンテの撮影に、少なくとも二台のアイモを使っていたが、これによって、フィルム装填やぜんまいを巻くために、儀礼の進行を妨げるのを、できるだけ少なくできたものと考えられる。
さて、このときのイヨマンテを幼少の頃に見たという萱野茂氏は、次のように述べている。

わたしは、たしかてかって(萱野茂氏の祖母…引用者注)に手を引かれてだったか、降ったばかりの白い雪を踏みしめてイヨマンテの場所へと向かいました。貝澤シランペノさんの家の東側に建てられた家がその会場ですが、その家を見て驚きました。屋根に萱を葺いてあるのは東の隅の少しだけで、残りはみな骨組みがむき出しのままなのです。子供心に、「雪や雨が降ったらどうするの、寒いべなあー」と思いました。あとで知ったことですが、そのことはまだ二風谷には電気が通っていなかったので、写真撮影の採光のためにそうしていたのでした」(萱野茂『イヨマンテの花矢』二〇〇五年、朝日新聞社)。

35mmポジフィルム 撮影ネガに比較的近いジェネレーションと考えられる35mmポジフィルム4巻。撮影ネガは現在みつかっておらず、このポジフィルムにしか残ってない映像も含まれる

本写真コレクションには、屋根を葺いていない家を写したものが含まれている。萱の屋根を葺くときは、下方から上方へと葺いていくので、この写真のように屋根の下方を欠いているのは、作りかけではなく、あえて屋根をあけたままにしたものであることを示している。映画の撮影の採光のためである。このイヨマンテが、映画の撮影用にセットとして建てられた家でおこなわれたものであることがよくわかる写真である。
歴博には、このときに撮影された映画の撮影素材に比較的近いジェネレーションに相当すると考えられる三五ミリポジフィルムが伝えられた。これらの映像を、撮影地の二風谷の方々のご協力で見ていただいたところ、女性の唇の周りの入れ墨が、不自然に濃く塗られている例があることがわかった。白黒の感度の低いフィルムでは、本来の入れ墨をそのまま撮影してもはっきり写らないためであろう。また、入れ墨をしていない女性が唇の周りを墨で黒く塗っている例も見られた。「研究」や「記録」をする側が、当時のアイヌ民族の「民族」としての姿をどのように演出したのか、残された映像を分析する際、重要なポイントとなる部分である。
こうして撮影されたフィルムは、マンローによって字幕の解説が入れられ、一九三二年、サイレント映画「KAMUI IOMANDE or DIVINE DISPATCH commonly called The AINU BEAR FESTIVAL」(一六ミリ)として完成し、イギリスの王立人類学協会に送られた。
一方日本では、マンローが残した撮影素材を使って、東京オリンピア映画社が「イヨマンデ-秘境と叙情の大地で」(三五ミリ、二八分)を製作し、昭和四〇(一九六五)年、発表された。沙流川流域の風景や、熊の解体場面など、マンロー自身が完成させてイギリスに送ったバージョンには未使用のカットが含まれている。
これらのフィルムの比較や、映画の撮影現場をスチールで記録した写真、さらに、当時のことを知る二風谷のかたがたのお話によって、撮影や編集でどのような演出が映画に施されたのか知ることができる。映画の撮影現場を記録した写真は、映画のカメラの外について様々な情報を伝える資料であり、映画の「虚」と「実」について考えるための重要な手がかりを与えてくれる。
そのような観点から、マンローによるイヨマンテの映画についての調査・研究を二〇〇五年から二〇〇六年にかけて行い、多くの方々にご協力いただきながら、「AINU Past and Present-マンローのフィルムから見えてくるもの―」(製作・著作:国立歴史民俗博物館/製作協力 東京シネマ新社)というビデオ作品として成果をまとめることができた。ここに述べたことは、その成果の一部である。

内田順子(本館研究部・映像民俗誌研究)