刊行物刊行物

歴史系総合誌「歴博」歴史系総合誌「歴博」

歴史系総合誌「歴博」 138号

[連載] 歴史の証人 写真による収蔵品紹介

古墳への死者送り

一 死から埋葬までの儀式

日本歴史の中でも古墳時代(四~六世紀)は、死者を格別に手厚く葬った異色の時代であり、巨大な墳丘の前方後円墳に代表される古墳という築造物を今日に残している。

その古墳への埋葬は、現代のように死後数日の間に行われたのではないらしい。『日本書紀』には、天皇が亡くなってから数年間も古墳に葬られなかったという記事がある。その期間に行う儀礼を殯(もがり)と言い、期間が長いのは、古墳築造を完成させるまでに年数を必要としたからというよりも、葬儀の主催者つまり天皇の後継者を決めるまでに相応の期間を要したからであると和田萃(あつむ)氏は指摘した(註1)。

それよりも、死から埋葬までの間にいくつかの儀式を行うという丁寧な葬送意識が古墳時代人に存在したことも理解しておかねばならない。現代でも医者が死と認定してから生き返る人がいる。ましてや古代においては、死んだように見えても、生き返ることが多かったのかもしれない。古代人は、死と思える現象が起きた時に死者の蘇生を願う「魂振り(魂呼び)」儀式を行い、その後、その願望が叶わぬと知るや死者が安らかに眠れるよう祈る「魂鎮め」の儀式に移ったらしい。

千葉県・石神二号墳で発見された滑石製の石枕(木などの有機質の枕を模倣したもの)や立花(りっか)(勾玉二個を軸棒に縛り付けた形を表現したもの)そして石製刀子(とうす)(鞘入りナイフを表現した模造品)などは、それらの儀式が古墳時代に存在したことを物語る資料である。石神二号墳は径が約三○mの円墳で、頂上部に長さ六mほどの細長い木棺を埋めた痕跡があった。その中では二つの石枕と計一八点の立花そして石製刀子が二か所に分かれて存在した。頭を石枕に載せたとすれば、二つの遺骸は木棺の中央で足を接し、頭はそれぞれ逆方向に向く形で埋葬されたことになる。

調査した沼澤豊氏は、九点で一組となる二組の立花のうち一組の九点と石製刀子群の一部にネズミのかじり痕が付いていると観察した(註2)。しかし、木棺の中で各々の石枕の周りに散在していた立花は、二組がほぼ半数ずつ混じり合っていた。混じり合った二群は副葬される前も同じ組合せで使用されたのでなかったと、ネズミのかじり痕が語っている。ネズミは、歯が伸びすぎて食べられなくなるのを防ぐため、堅いものをかじって歯を磨り減らそうとする習性がある。もし、発見時の立花群が副葬前も同じ組み合わせで同時に使用されたのならば、ネズミのかじったものとかじらなかったものが混じっているのは不自然である。しかも、かじり痕の有無が立花の形式によってきれいに分かれている。なぜ、このような現象が生じたのかについては、次のように解釈するのが合理的であろう。

ネズミのかじり痕が残る立花 ネズミにかじられなかった立花
写真1 石神2号墳出土の滑石製石枕(北側出土)とネズミのかじり痕が残る立花(使用時は、石枕の縁にある穴に立てられていた) 写真2 石神2号墳出土の滑石製石枕(南側出土)とネズミにかじられなかった立花(使用時は、石枕の縁にある穴に立てられていた)

長さ約六mの細長い木棺は、二人を合葬するために準備された。しかし、その二人は同時に亡くなったのではない。先に亡くなった一人に死と思える現象が発現した時、石枕に立花を立てて死者の蘇生を願う「魂振り」儀式が行われ(写真1)、死が確定したと認識されたら立花は取り外された。次には死者が安らかに眠るよう祈る、石製刀子を用いた「魂鎮め」の儀式に移り、それも終了すると石製刀子も外された。先に亡くなった一人のための儀式が終了するとその後にもう一人が亡くなり、別の石枕と立花や石製刀子を用いて同様の儀式が行われた(写真2)。

石神2号墳出土のネズミのかじり痕が残る立花とネズミにかじられなかった立花 石神2号墳出土の石製刀子群
写真3  石神2号墳出土のネズミのかじり痕が残る立花(右2点)とネズミにかじられなかった立花(左2点)(矢印で示した部分が、ネズミのかじり痕) 写真4 石神2号墳出土の石製刀子群(北側出土)(ネズミのかじり痕があるものとないものが混じる)

おそらく、先に亡くなった一人のための儀式に用いられた立花や石製刀子が外され別の場所に置かれていたため、ネズミにかじられることがなかったのであろう。埋葬前には、かじり痕のない組合せで一回、ある組み合わせで一回の計二回の儀式が行われた。ただし、石枕は常に死者の頭の下にあったから、二個ともネズミにかじられた。

そして最後に、二人の死者が埋葬される段階になって、片付けられていた立花と石製刀子が再び持ち出され、木棺内の二個の石枕の周囲にほぼ同数になるよう無雑作に分けて入れられた。だから、偶然の結果として、ネズミのかじり痕があるものとないものが混在する二群の立花群(写真3)と石製刀子群(写真4)が検出されることになった。

二 死者が眠る空間の装飾

死者が葬られる古墳の中の施設は、六世紀になると入口から通路を通って奥の部屋に至る構造の横穴式石室が一般化した。九州では、その石室内に彫刻や彩色でもって、死者が眠る空間を装飾した事例が見られる。
熊本県・千金甲(せごんこう)一号墳の横穴式石室内は、遺骸を安置する周囲に板石を立て、そこに同心円文や三角文のほか靱(ゆき)(矢を入れて背負う容器)という武具を彫刻して、赤い彩色を施した(写真5)。死者を護る意図が込められていたのである。
福岡県・王塚古墳の横穴式石室内は、同様の文様を彩色画として表現したほか、部屋の上部に黄色の円を散りばめて星を表し、死者の住む世界を演出したとされる。とくに天井の円文群は星座を写した我国最古の星座表現であるとも言われる。入口の左右の壁には、人物が乗る赤と黒の計五頭の馬が描かれている(写真6)。この馬を、あの世に死者の霊魂を送る乗り物と考える説もあるが、ここに葬られた複数の人物が生前に愛用した馬たちと考えるほうが自然である。
しかし、福岡県・珍敷塚(めづらしづか)古墳の横穴式石室奥壁に描かれた太陽と月そして鳥が留まる舟(写真7)は、この世からあの世に霊魂を送る様子を表したと考える見解が有力である。

千金甲一号墳・横穴式石室の実大模型 王塚古墳・横穴式石室の実大模型
写真5 千金甲一号墳・横穴式石室の実大模型 写真6 王塚古墳・横穴式石室の実大模型
珍敷塚古墳・横穴式石室奥壁の実大模型 写真7 珍敷塚古墳・横穴式石室奥壁の実大模型

三 死者との別れ

死者が葬られる時、人々は古墳で最後の別れの儀式を行った。 六世紀の関東では、埋葬の場へ向かう葬儀参列者が死者の生前を偲べるよう、古墳の裾に人物埴輪を並べることが流行した。関東各地で地域色を見せる人物埴輪の中でも、千葉県北部を中心に見られる稚拙な作りの男女の人物像はひときわ特徴的である(写真8)。

男性とした人物埴輪(写真8・左)は、旨に線刻された二つの二重円が乳房表現であったのならば、男装した女性であるかもしれない問題を残している。

女性埴輪と男性埴輪 大下田山古墳出土の複合高坏
写真8 女性埴輪(右・伝流山市出土)と男性埴輪(出土地不詳) 写真9 大下田山古墳出土の複合高坏

一方で、死者に対しては食物が供えられた。愛媛県・大下田山古墳で出土した七個の坏(つき)と蓋を大きな高坏(たかつき)に載せた形の複合高坏と呼ぶべき特殊な須恵器(写真9)は、日常使用された容器ではなく、儀礼のために特別に作られたものであり、そこに食物が盛られたと小林行雄氏は指摘した(註3)。

瀬戸内地方では、埴輪でも見られる人物や動物の小像を貼り付けた壺や高坏が、石室の前に置かれた。 渡来集団による新しい儀礼の地域的な姿である。死者との最後の食事は、これよりもっと以前から始まっていた。そして今日も続いている。

(註)
1 和田萃「殯の基礎的考察」『論集 終末期古墳』一九七三 塙書房
2 沼澤豊「石神二号墳の諸問題」『東寺山石神遺跡』一九七七 千葉県文化財センター
3 小林行雄「黄泉戸喫」『古墳文化論考』一九七六 平凡社

杉山晋作(本館研究部・考古学)