刊行物
歴史系総合誌「歴博」
歴史系総合誌「歴博」 137号
[連載] 歴史の証人 写真による収蔵品紹介
振袖と少年
今日、振袖といえば、未婚の女性がきる‘きもの’というイメージが強い。だが、近世以前では、男女ともに少年期に着ていた。袖の振りは、着用者が「子ども」であることのしるしであった。
子どもの衣服の袖に振りがつくようになった理由は、しばしば実用的な側面から説明される。すなわち、体温が高い子どもの熱気を発散させる工夫であるという。こうした説は、近松門左衛門の『日本振袖始』(一七一八年刊)や伊勢貞丈(一七一七-八四年)の『貞丈雑記』など、江戸時代の著述に既に見られ、それをそのまま継承している。しかし、江戸時代の著述はあくまで考証に過ぎない。もっともらしい合理的な理由を案出した可能は充分にあろう。実際、振袖の草創期の様相を見ると、従来の説とは違う事実が浮かび上がってくる。
振袖が出現するのは一五世紀中頃である。そして、それ以降一六世紀中頃までに描かれた絵画を見ると、全ての子どもが振袖を着ていたわけではないとわかる。着用者は、裕福であったり、説話で神仏の加護や託宣の対象になっていたりと、一握りの特別な子どもに限られる。考えてみれば、袖に振りをつけるとそれだけ余計な生地を必要とし、経済的でない。一般的には振りをつけないのも道理であろう。袖の振りは、可愛らしさを演出する贅沢な装飾であった。それが、一七世紀初期ともなると、少なくとも都市部では一般化したことが、当時の作例に恵まれた洛中洛外図などの風俗画から知られる。
さて、子どもの振袖は、小裁(こだち)と中裁(なかだち)とに分けられる。小裁は乳児から四・五歳まで、中裁は五歳から一二歳くらいまでの子ども向きの大きさである。中でも、身幅を一幅の生地で仕立てたものを「一つ身」と呼ぶ。背縫いがない代わりに、「背守り」という縫い飾りをつける場合も多い。普通は小裁となるが、まれに中裁もある(図1)。「一つ身」に対し、身幅を二幅の生地で仕立てた小裁を「三つ身」と呼び、中裁を「四つ身」と呼ぶ。
更に成長すると、大裁(本裁)と呼ぶ大人向きの大きさとなるが、男性では一八歳頃まで、女性では二〇歳頃まで、人によっては振袖を着ていた。
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| 図1 福寿字模様振袖 丈は一一四・七㎝、裄は四八・七㎝あり、中裁のサイズであるが、身幅は一幅の生地で仕立ててある。 | 2 熨斗目振袖(三つ身) 熨斗目は腰替わりの模様構成で、大人の男性が正装として着用する小袖であった。 |
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図3 桜鯉模様振袖(四つ身) 御所解と呼ばれる武家女性が正装として着用する小袖のデザインがあらわされている。 |
子どもの振袖には、大人の小袖や帷子(かたびら)を小型にしたようなものがある(図2)(図3)。デザインは大人の正装用のそれと同じであり、やはり子どもの正装用であったと見做される。現存する資料は、江戸時代中期以降、特に後期に作例が多い。これらは、大人の料に準じて、男女の区別がはっきりとしている。
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| 図4-1 波鶴亀模様振袖(一つ身) | 図4-2 一般的とされる少年用の縫い方の背守り。 |
しかし、正装用以外であると、男女の区別がつきにくい場合も少なくない。「一つ身」で背守りがあれば、その縫い方が手掛かりとなることがある。一般に、少年用は - - - - - - の針目で左斜めに折り下り、少女用は ―・―・― の針目で右斜めに折り下る、とされる(図44)。だが、この通りでない例もしばしばあり(図5)(図6)、実際のところ、必ずしも一定してはいない。結局、多くはデザインそのものから類推することになるが、時代が遡るほど難しくなる。
例えば、山口・毛利博物館所蔵の毛利秀就(一五九五-一六五一年)の誕生を祝って徳川家康が贈ったと伝える産着のひとつは、紅や萌黄などの色彩で、菊唐草や桜、鶴の丸の模様を織り出した華やかな綾で仕立ててある。今日の眼からすると、所用者の伝承がなければ、少女用かと思うことであろう。これは、決して特異な例ではない。当時の絵画を見ることによって、それが明らかとなる。
神奈川・山口蓬春記念館所蔵の「十二ヶ月風俗図」は、同時代の子どもを主人公として細部まで緻密に描き込んだ風俗画である。そこに登場する大勢の少年少女は、髪形やその他の着衣によって男女の区別がつく。しかし、振袖自体にはさしたる相違は認められない。当時は、デザインのうえで、男女を区別することはなかったと見做せるのである。
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| 図5-1 馬扇面笹模様振袖(一つ身) | 図5-2 背守りの針目は少女用だが、左斜めに折り下っている。 |
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| 図6-1 波千鳥小紋振袖(一つ身) | 図6-2 この背守りも針目は少女用、折り下る方向は少年用になっている。 |
こうした傾向は一七世紀を通して続いている。伊達綱村(一六五九-一七一九年)所用と伝え、伊達家より藩の陰陽師の平野家に下賜された樺色地に貝と網干の模様を友禅染であらわした小裁や、伊達吉村(一六八〇-一七五一年)所用と伝え、同じく平野家に下賜された浅葱地に宝尽くしの模様を友禅染であらわした小裁も、所用者の伝承がなければ、少女用かと思うことであろう。
絵画からもそれが確かめられる。佐賀・宗龍寺所蔵の「十仏様御影」は、鍋島光茂と側室振との間に生まれ、早世した一〇人の子どもの群像である。生没年は、一六六九(寛文九)年から一六九七(元禄一〇)年の間にわたる。振袖のデザインは男女で殊更違った特徴は認められない。
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| 図7 松甲冑模様振袖(一つ身) | 図8 楼閣人物模様振袖(一つ身) 浦島太郎を描いたものと見られる。海辺に男と亀がおり、遠くに見える楼閣は龍宮城であろう。 |
それが、一八世紀以降となると、男女の区別が比較的つけやすくなってくる。時代が降るほど、それは著しい。武具や馬具といった武芸に関わるものをモティーフとしたり、男が主人公となる物語に取材したものは、少年用である可能性が高い(図7)(図8)(図8)。こうしたデザインは大人の男性の小袖や帷子には見られず、少年独特のものと言える。一方、花鳥をモティーフとしたようなものは、少女用かと推測できる(図10)。少女用の場合は、大人の女性の料と大きく懸け離れてはいない。
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| 図9 楼閣亀模様振袖(一つ身) これも龍宮城を描いたものと思われる。 | 図10 鶴笹模様振袖(一つ身) |
以上のような振袖のデザインに見る男女の区別の変化は、子どもの教育状況と軌を一にしている。広く民間に教育を施した寺子屋は、享保期(一七一六~一七三五年)以降、激増したとされる。そこでは、男女の同席を戒めたり、男女を分けて教えたりと、男女を区別することがしばしばあり、少年ないし少女専門の寺子屋もあった。少年と少女とでは、学習内容も全く同じというわけではなかった。また、広く使用されていた教訓書に『実語教』『童子教』があったが、それを女子用に書き直して女実語教・女童子教と称するものが、元禄期(一六八八~一七〇三年)以降、かなり出回っている。つまり、一八世紀以降となると、子どもを男女で二分して区別しようとする意識が目に見えるかたちの体制をとるようになり、そして、それが急速に広く社会に浸透していったのである。子どもの振袖のデザインは、そうした動向の一端と言えよう。
それはまた、男性間の同性愛の盛衰とも繋がっている。男色や衆道と呼ばれていた男性の同性愛風俗は、一八世紀中頃以降、著しく衰退していく。以前は男性が男性を性愛の相手とすることは珍しくなかった。むしろ、盛んと言える状況にすらあった。禁令が出されることも度々だったが、それは恋争いが刃傷沙汰になりやすいことや、男同士の強い絆が組織を逸脱する徒党行為として危険視されたからである。男色それ自体を異常視していたわけではない。また、男色が衰退したと言っても、性愛のひとつのかたちとして存続し、明治時代に再び盛んとなった。同性愛を差別的な眼差しでみるようになったのは、一九二〇年前後の通俗的な性科学のブームによって、「正態」と「変態」の区分で性欲を捉えるようになったことが大きい。男色は「変態」に分類された。そして、当初は並外れて優れたという正の意味も含んでいた「変態」が、専ら負の意味に特化されていく中で、今日の同性愛嫌悪は形成されていく。
男色の主役となったのは、若衆という美少年たちであった。華麗な振袖を身にまとった色白柳腰の美少年は、女性化した少年とか女性の代替などと評されることがある。しかし、それは男女を二分する見方にあまりにもとらわれ過ぎているのではないだろうか。女性の代替として少年を愛するよりも、はじめから女性を愛する方が話は簡単である。遊女が若衆の格好を真似ることがあったことからして、若衆には若衆の性的魅力があったのであろう。男と女だけでなく、「若衆」というひとつの性のあり方を認めていた時代があったと言えよう。
子どもを男女で二分することは、それ以外の性のあり方である若衆を消すこととなるだろう。そして、若衆を中心とする少年と女性とが共有していたデザインは、専ら女性に帰され、替わって少年の振袖には「男の子らしさ」を追求して特徴的なデザインが発達することになった。そうした推測が出来るのではないだろうか。
澤田和人(本館研究部・美術史





































