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歴史系総合誌「歴博」歴史系総合誌「歴博」

歴史系総合誌「歴博」 131号

[連載] 歴史の証人 写真による収蔵品紹介

中世の日記

中世の日記は、個人の私事を記録したものではなく、公務である儀式や行事の式次第を記したもので、子孫など後世の人の閲読を目的に作成された。こうした公務日記が登場するのは宇多天皇のころである。国政運営が儀式や行事として執行されたため、天皇の秘書官である蔵人(くろうど)が公事(くじ)日記をつけた。蔵人の職務を記した「侍中群要(じちゅうぐんよう)」には「当番の記事、大小となく慎んで逸脱することなかれ」と殿上日記の作成を宇多天皇が命じている。外記・蔵人は「外記(げき)日記」「殿上(でんじょう)日記」など公事日記を作成し、天皇自身も日記をつけた。

写真1:後宇多院の日記 写真2:近衛家実の「猪熊関白記」

ところが、摂関政治のころは国政運営が国司請負制(こくしうけおいせい)になり、地方政治の運営や中央官庁の行政運営も特定貴族の家に委任されて、家の職務=家政として行政執行が行なわれた。摂政・関白職は摂関家が独占し、近衛(このえ)大将や大臣は久我(こが)・三条・西園寺などの清華家(せいかけ)が補任され、弁官(べんかん)・蔵人(くろうど)や大納言は日野・勧修寺(かじゅうじ)・平(へいし)などの名家(めいけ)が就任したように、公家の家格に応じて官職が固定化した。天皇の職には「天皇作法(さほう)」が生まれ、摂関の家職には「殿下作法(でんかのさほう)」、弁官には「官中作法(かんちゅうのさほう)」というように家格に応じた作法・慣習法ができあがり、家ごとに日記が作成された。こうして、上は天皇から摂関家・大臣家・清華家はもちろん羽林家(うりんけ)・名家など一般公家も「日記の家」として日記に作法や次第を記録して相伝した。

写真3:「経光卿記」天福元年正月25日条 「子細記暦者也」とある
写真4:「経光卿暦記」天福元年正月25日条 「経光卿暦記」部分

本館では天皇家の日記では「後宇多院日記(ごうだいんにっき)」(写真1)を所蔵している。日記原本のうち東寺での仏事の記録部分のみが切り取られて東寺に与えられ、宝物として伝来した。摂関家の日記では、近衛家実の「猪熊関白記(いのくまかんぱくき)」(写真2)や近衛基平(このえもとひら)自筆の「深心院関白記(しんじんいんかんぱくき)」を所蔵している。「猪熊関白記」は、室町時代の近衛政家が寛正6年(1465)9月20日に仙洞御八講(せんとうごはこう)という仏事を書写するために、鎌倉時代の近衛家実の具注暦(ぐちゅうれき)を反故にしてその裏に記録したために残存・伝来したものである。日記の原本は暦の余白を利用したものが多く、「暦記(れっき)」とも呼ばれた。最古の自筆日記である道長の「御堂関白記(みどうかんぱくき)」も暦記である。このため、戦後の一時期は、中世の公家は暦記にもとづいて毎日の日次記(ひなみき)をつくり、あとで清書して子孫に相伝したものと考えられた。しかし、名家である勧修寺や日野一門広橋家の日記などの研究が進み、日記のつくり方は複雑であることがわかってきた。広橋家は室町時代には伝奏(でんそう)として天皇家と室町殿(むろまちどの)との連絡役をつとめ、鎌倉時代には勘解由小路(かでのこうじ)家として蔵人・弁官をつとめ権中納言を極官(ごくかん)とした名家であった。藤原頼資(ふじわらよりすけ)が勘解由小路家の初代であり経光・兼仲・光業らは歴代の自筆日記をのこした。写真3は「経光卿記(つねみつきょうき)」天福元年(1233)正月25日条であり、「子細記暦者也(しさいはれきにきすものなり)」とある。写真4は「経光卿暦記(つねみつきょうれっき)」の天福元年正月25日条で、確かに詳細な記事がある。このように暦記と日次記が並行して作成されており、暦記には公私にわたる記事がみえるが、出仕した日は日次記に記録して公式記録としての性格が強かったことなどが解明されている。写真5は「兼顕卿記(かねあききょうき)」文明10年(1478)7月10日条の日記に貼継がれた古文書である。右大弁宰相(うだいべんさいしょう)に宛てられた仮名消息(書状と副紙)や公方御蔵籾井代官森五郎左衛門入道浄満(くぼうおくらもみいだいかんもりごろうさえもんにゅうどうじょうまん)が発給した請取状の原本である。日記にこうした行政文書が原本のまま貼継がれて保存された事例は、職事(しきじ)弁官や伝奏の日記などに多い。中世の日記が当時の国政運営の行政手続きを記録・伝承する性格を多分にもっていたためである。広橋家や勧修寺・高棟流平家(たかむねりゅうへいけ)の日記類は、いずれも職事弁官の家柄でかつての蔵人による殿上日記作成の伝統を受け継ぐものであり、中世の日記が家文書であるとともに公務日記としての性格をあわせもっていたものといえよう。


写真5:「兼顕卿記」文明10年7月10日条
行事に即した行政文書である書状・副紙・請取状が、後世のために日記に貼継がれた

中世公家の日記は、子孫の家に原本のまま伝来したものはむしろ少数で、江戸時代になって禁裏(きんり)や前田家・水戸家などによる書写活動によって伝来したものが極めて多い。東山御文庫や本館所蔵の高松宮本など禁裏文庫の研究によると、天皇家によって諸家の日記を収集・書写・保存する努力が中世・近世を通じてなされてきたことがわかってきた。古くは後白河上皇に始まる。後白河院は承安4年(1174)院宣を発し、院文殿衆(いんのふどののしゅう)の清原頼業(きよはらよりなり)・中原師尚(なかはらもろひさ)らに命じ「本朝書籍および諸家記」を悉(ことごと)く収集・書写するように命じ、蓮華王院宝蔵に管理し相伝した。応仁文明の乱では禁裏はなんども火災にあい、儀式・行事の次第など公式行事執行のための記録が不足し、その再建をはかることが天皇家にとって急務な課題になった。後土御門(ごつちみかど)・後柏原・後奈良・正親町(おおぎまち)天皇は番衆所(ばんしゅうじょ)を設置して乱世を生き延びた日記類を公家衆から献上や借覧・書写し、廷臣(ていしん)の転写による副本を作成して禁裏文庫の充実につとめた。その一部が本館所蔵の「高松宮家伝来禁裏本」に反映されている。写真6はその中の「三席記(さんせきのき)(通守卿記)」である。応永17年(1410)8月19日の禁裏三席御会(ごかい)の記録を文明16年(1484)7月20日に中院通季(ちゅういんみちすえ)が書写したもので、それを江戸時代に写本にしたものである。戦国期禁裏での書写活動が近世における禁裏文庫設立の基礎となっていた。こうした事例は数多い。高松宮本にある「公宴部類記(こうえんぶるいのき)」(写真7)は、広橋家所蔵の「公宴和歌部類」(写真8)の中から16の家日記を抄録している。広橋本の部類記をみると、「記を知らず」の日記を含めて41もの家記を抄録している。その中に含まれる「宣記(せんき)」は、広橋家所蔵「仙洞和歌御会記(せんとうわかごかいのき)」(写真9)に相当する。

写真6:高松宮本の「三席記(通守卿記)」 写真7:高松宮本にある「公宴部類記」 写真8:内容はちがう広橋家所蔵の「公宴和歌部類」

このように中世公家は互いに協力しあって多くの諸家記を集積して部類記・次第書・作法書などを作成し、書写・転写活動を繰り返してきた。室町・戦国・江戸期の禁裏による中世公家の書写活動は国家的な事業による知の集積であったといえよう。今日我々が目にすることのできる日記は、公家の家による子孫のための努力と、知の集積のための国家的な組織的対応によるものであったといえよう。

写真9:宣記(仙洞和歌御会記) 写真9:広橋家所蔵「仙洞和歌御会記」

井原 今朝男(本館研究部)